SEQUENCE6―暗器― |
月はもう一組の男女も見詰めていた。 小さな天窓から差し込む月光が、小部屋を照らす。 浮かび上がる寝台の上で、男女は、一人の女を組み伏せていた。 女は肩を押さえ、男は馬乗りになり、組み伏せられた女の口に器を押し付け、何かを流し込んでいる。 白濁した液体を、無理やり飲まされる女は、もう抗う力も無く、弱々しく首を振るだけである。 やがて、その作業を終え、男女は部屋を出て行った。 残された女は、打ち捨てられた人形のように宙を見詰め、何かを呟いている。 顔は陰に隠れ、定かでは無い。 風に流された雲が、つかの間月を覆い、闇が総てを隠してしまった。 その扉は、誘うように中途半端な開き方をしていた。 だから覗いてしまった……我ながら子供だと思う。 覗いた屋内は、何の変哲も無い倉庫の中。ここは船着場に隣接する倉庫街の一角なのだから、当り前の事だ。それで終われば、苦労は無かったかもしれない。 しかし、見えてしまった。 倉庫の奥、かすかに光を放つ床板を・・ 実のところ、仲間にも隠しているが、彼の潜入術は、ノーチェに及第点を貰えるほど上達していた。 教師としての彼女は厳しい。 その彼女が、微笑んで頷く出来栄えは、ガゼルに自信を与えてくれる。 日頃の騒がしさは鳴りを潜め、気配を消す。しなやかな体は猫のように闇を縫う。光が地下室との繋ぎ目から漏れるものだと確認した時、倉庫に誰かが入ってきた。 身を隠し、やり過ごす。男はおざなりにあたりを見回すと、撥ね上げ戸を開けて中に入った。他に誰もこないことを確認し、カゼルがその入り口に近寄ると、中から数人の話し声がする。 その会話は、ガゼルを戦慄させた。 船が着くという、夜明け前に。それに荷物を積み込むらしい。 もう荷造りは終わっているが、その前に一つ味見をしておこうか。と、一人が下品に笑う。この前のはなかなか上玉だったから。今回のも良いのが居ると。 暴露たら殺される、と言うもう一人に、遊んでいそうなのを選ぼうと答える。 明らかに、人間を指した言葉だ、それも女を。 下卑た声に吐き気がする。 少年騎士の正義感に火がついた。 しかし彼も、以前のように、ただ目先の事象を追いかける向こう見ずな行動が、どれほど意味が無いのか、苦い経験から学んでいた。 今は、この情報を、一刻も早く報告せねばならない。 撥ね上げ戸を開け、中に躍り込みたい衝動を、歯を食いしばり必死で押さえつける。 尊敬する上司ならば、この場合どうするか?諜報行動の心得を恋人はどう教えてくれた?使命感と理性を総動員して、彼は倉庫を出ようとした。 ここまでなら、まだ自分に及第点を付けてやれるだろう。 だが、そんな彼の耳に、かすかな啜り泣きの声が聞こえてしまった。 止め様が無かった、自分を。 反射的に声のする方へ体が動き、一つの大きな箱から、それが漏れているのを突き止める。 簡単な閂で閉じられた箱には、手足を縄で括られ、猿轡の上から頭巾を目隠しに被せられた女が入れられていた。 華奢な体つきで、彼女がまだ少女であると思われた。 今は手を出すな。助けを呼びにいけ。 頭の隅で、冷静な思考が警告する。 しかし、上等な衣を纏う少女の、頭巾から零れ落ちた桜色の髪が見えた時、彼の意識は、一年前に戻っていた。 ほとんど何も考えずに、少女の戒めを解き、頭巾を剥ぎ取る、奇妙な文様が染め抜かれた頭巾の下からは、赤茶の瞳に涙を溜めた、見知らぬ少女の顔が現れた。僅かに肩の力が抜ける。 判っている筈だった、あの少女では無いということを…… 彼女がこんなところに居たら、今ごろ国中が大騒ぎになっているに違いないのだから。 自嘲のため息と同時に、脳裏に悲しげな恋人の顔がよぎり、心の奥に、重い石が固まっていく。 もう忘れた筈の想いだった。相手に告げることも無く、届かなかった想いだった。 傷ついた心を、恋人が包み、癒してくれた。それなのに、古傷に苛まれて我を忘れるとは、餓鬼すぎて呆れてしまう。 自分はどこまで身勝手なのだろう? もう一度小さく息を吐くと、ガゼルは現実に思考を戻した。 何にせよ、ここまでしてしまったら、もう連れて行くしかない。もしかしたら、あの会話の対象にされてしまうかもしれないのだ。 ガゼルは、捕らわれていた娘に目を向けた。 見知らぬ少年の姿に、怯えきってしまった少女は、戒めで赤くなった腕を押さえて箱の隅に縮こまった。恐怖のあまり、猿轡を外す事さえ思いつかない様子だ。 ガゼルは、なるべくそっと近づくと、剣を鞘ごと腰から外し、少女に見えやすいように、窓から差し込む月光の中に翳してやる。 紋章が刻まれたその剣は、騎士の宣旨によって、やっと束帯を許された騎士の剣。クラインの人間なら、知らないものは居ない。 少女の顔に、明らかな安堵の表情が浮かび、全身の緊張が解けていくのが見えた。 「俺は騎士団の者だ。助けにきた。奴らに見つからないうちに、逃げるんだ」 安心させる為に更に言葉を重ね、猿轡を外す。 思わぬ救いの手に、感極まった少女は、「騎士様!」と一声叫んで縋り付いてきた。 心臓が撥ねる。 少女の声は、夜中の倉庫に良く通る。 当然地下の男達は、異常に気付きざわめき出した。 階段を駆け上る音に、ガゼルは少女の手を掴んで出口へと走った。とんでもないしくじりに、舌打ちしながら。 二人は路地を抜け、王都の街並みが見える河口付近まで、追っ手の目を逃れ、どうにかたどり着いていた。 長く監禁されていたらしい少女の体力では、もはや一歩も走れそうには無い。 そして、ガゼルの関節はまたじくじくと疼きだし、少女背負って走るのは無理だった。 路地の奥、樽や木材が積み上げられた陰に潜み、すぐそこまで迫る追っ手の足音を、息を殺して聞いている。 自分の迂闊さが悔しかった。 総てを締め出し、掴んだ情報だけを抱えて倉庫を出ていたなら、今ごろは騎士団への道を直走っている筈だった。 歯噛みをする少年騎士の腕に、少女が振るえる手でそっと縋ってきた。 「申し訳ございませんわ……わたくしの所為で……」 蚊の鳴くような小さな声に、あの時この声で言ってくれれば、と、詮無い考えが浮かぶ。 だが、恨んだところでしょうがない。今はこの状況を、どう切り抜けるかを考えなければ…… 「気にすんなよ、とにかく、あいつらをやり過ごして、街に入ろう」 密着してくる腕を、さりげなく体をずらせて避けながら、ともかくも安心させようと小声で話しかける。少女は小さく頷いた。 「はい・・・あの、騎士様・・・」 「奴等が近い、もう喋らないほうがいい」 業と言葉を遮り、少女を黙らせる。 頷いて、おずおずと奥に下がる少女に聞こえないように、そっと息を吐いた。 少女の喋り方は、神経に障った。そもそものしくじりの基の傷が、そのたびに疼き、脳裏では、浅葱色の髪の女が、悲しげに顔を伏せる。 判ってはいる。これはただの罪悪感だ。 実際のところ、あの少女の話を、彼がしたとしても、年上の女はただ微笑むだけなのだ。決してあの少女に嫉妬したり、揺れる彼の心を悲しんだりはしない。愛してくれる今が大切なのだと笑う。 そんな事を気にしないといけなかったら、自分の過去こそ、どうしようもないものになってしまう。そんなことまで言う。 昔の男が気になるのも確かだ。関係ないさと笑い飛ばせるほど、自分は大人ではない。 それでも、白鴉としての人生は、決して幸せなものではなかっただろうと思う。自分には判らない辛酸を限りなく経験しているのだとも思う。 だからこそ、自分が幸せにしてやりたいと思うのに。 何もできないかもしれないけれど・・・ 駄目だ。こんな事を考えている場合ではない。 ガゼルは首を振って、堂々巡りの思考を取り消した。 今は近づいてくる足音に集中なければならない 無理やり、脳裏の悲しげな女を、厳しく冷たい女師匠に変える。 ――そんなところで、死にたいの?弱いままなら、死になさい―― 本当に恋人なんだろうかと、疑いたくなるほど冷たい青い瞳。二人でこっそり繰り返した鍛錬の日々。 その成果をこんな時に生かせなかったら、いつ生かすのか? 背後で怯えているらしい少女が、動く気配がする。 業と意識からそれを追い出した。彼女を気にすると、また余計な事を考えそうだ。 ゆっくり呼吸し、気持ちを落ち着ける。 何時ものように、レオニスの姿を思い浮かべる。彼にとって、不動の象徴。すべての目標。 すうっと頭の後ろが冷えていき、石畳を蹴る連中の足音の乱れがはっきりと判る。 ここに潜む二人を探して、さぞ倉庫街を走り回ったのだろう、荒い息や口汚い悪態が来こてくる。 何とかやり過ごさねば。 ガゼルは剣を軽く握った。いざとなったら、少女を庇いつつ斬りぬけるしかない。 そして、レオニスに伝えなれければ…… 「騎士様……」 怯えた少女が背中に取りすがる。 柔らかな感触がぶつかるように凭れ掛かったと感じた時、同時に背中に激痛が走った 「ぐっ……」 咄嗟に振り返り、背に張り付く少女を引き剥がす。力任せに突き飛ばすと、呆然とした赤茶の目が彼を見つめていてた。 「おま……何・・し……?」 激痛に翳む目で少女を睨む。問う声に、少女が虚ろな笑みを浮かべる。 「騎士様……お助けくださいませ……」 微笑みながら助けを求めて両手を上げる。その手は真っ赤な血に塗れていた。 「くそ……」 後ろ手に背に突き刺さったナイフを抜こうと、ガゼルはよろめきつつ立ち上がった。 罠だったのだ、そもそもこの少女自体が。 薄い笑いを浮かべる少女には、最前までの怯えた様子も、それどころか生気すら感じられない。そして白い顔には、不気味な赤い文様が浮かび始めていた。 その文様には見覚えがある。そう、そもそもあの箱の中で、少女が被せられていたあの頭巾に描かれていたものだ。 何かの魔法だと直感する。 この少女は、あの場所を見つけ出した者への仕掛け罠……ガゼルは己の滑稽さに、ギリリと奥歯を噛締めた。 体中に、奇妙な痺れが広がっていく。 おそらく、背に突き刺さったナイフに、毒か呪いが掛けられていたのだろう。視界がどんどん狭くなる。意思とは関係なく膝が笑いはじめ、よろけた体は、立掛けられていた木材と共に通りへと倒れこむ。 派手な音立てて転がり出たガゼルの回りへ、追っての男たちが駆けつけてきた。 「アレが効いたみてぇだな」 「なんでぇ、餓鬼だぜ」 口々に嘲りを浴びせながら、男達の下品な笑い声が沸きあがる。 その向こうで、少女が中空を見つめたまま、在らぬ方に笑みを向けていた。 |
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