SEQUENCE7―反呪― |
船着き場と市街の間には、山から湖へと注ぐ川の河口がある。海へ続く川に比べれば、川幅は然したる事も無いのだが、河口付近にしては珍しく、水量があり流れも速い。 子供達はこの川で遊ぶのを、強く戒められているくらいだ。 川向こうに船着き場を設置したのは、当然考えられる船での襲撃を警戒した遷都時であり、以来跳ね橋を介して、物資の流通がなされてきた。 跳ね橋も数橋設置され、商人達からの不服も出ていない。 まあ、老朽化した跳ね橋を、もっと大きな常設の大橋に変えて欲しいと言う意見が無きにしもあらずだが、防衛を主眼とした騎士団からは、その意見に難色を示されている。 足早に歩きながら、シオン・カイナスは苦笑した。 今はそんな政治的な事を考えている場合ではない。 「職業病かね…」 思わず一人ごち、後ろを歩く女の気配に肩を竦める。 女司祭は道中一言も話さなかった。硬く口を引き結び、不安に震える体を抱きしめるように腕を組んでいる。 無理も無い。今は自分の想い人の安否以外、何も考えられないのだろう。 音に聞こえた腕利きの間者、白鴉の意外な姿に、魔導士は軽い苛立ちを感じる。 自分の肩を抱きしめて、不安に震えるその姿は、まるで今の自分を移し変えたように見える。少女の無事を願い、姿を求め、我が下へと願う己の姿そのままに見える。 恐らく、レオニスやセイリオスから見た自分は、こんな心許ない様子なのだろう。 苦笑が漏れる。 人を恋うる気持ちと言うものは、その強さと反比例して、人を弱くもする。 こんな感情など、知らないでいれば、一人で立ち続けるのに、なんの苦痛も無かったのに。 今は、一人だと認識するのが、何より辛い。 愛も恋も、ただの遊び。手駒を動かす手段。他人の感情を手玉にとって、意のままにしていた以前のシオン・カイナスはどこに消え失せたのやら… かつて嘲笑っていた、一途で哀れな男に成り果ててしまったようだ。 「どう転ぶか判らねぇ…か、世の中は面白れぇな。そうは思もわないか?」 思わずそんな言葉が口をつく。 しかし、魔導士の自嘲には、別の方から返事があった。 「どうせ…真っ当な事じゃねぇだろ…不良魔導士…」 かすかな声と水音に、女が走り出す。 「ガゼル!!」 女が、身の細るほど案じている想い人を間違えるはずも無く、川岸に張り出した木の根に掴って、必死で身体を引き上げようとしている少年騎士の姿を見つけた。 迷わず飛び込もうとする肩を掴んで引き止めると、魔導士は浮遊の呪文を唱え、浮き上がる身体の、襟首を掴んで岸に挙げる。 背に突き立ったナイフを認め、咄嗟に少年をうつ伏せにする。女が小さく悲鳴を上げて取り縋った。 「ガゼル!しっかりして!」 たとえ動揺していようとも、白鴉とてただの女ではない。懇願しつつ、女は躊躇無くガゼルの衣服を引き裂き、ざっくりと袈裟懸けに口を開けた傷を検分し始める。 もともと切り裂かれていた背中の布は、濡れてはいたが簡単に千切れ、無残な傷口を曝け出す。依然突き立ったままのナイフを引き抜こうと手を伸ばし、それが纏う気配に白鴉は愕然とした。 青い瞳が、怯えを浮かべて魔導士に向けられる。 「毒と…呪いか…やってくれるぜ」 追い掛けに切られたらしい傷は、たいしたことはない。しかし、ナイフから発される凶々しい気は、確実に少年から生気を奪っていた。 破邪の印を結んで、ナイフを抜こうとする女の手を払い除け、魔導士は傷口を指し示す。 「お前さんは治療に専念しろ。毒消しくらい、持ってるんだろう?」 「ですが…」 「俺に任せろ。お前さんの魔力じゃあ、こいつは荷が勝ちすぎるぜ。」 彼の言葉に頷き、懐から丸薬入れを取り出す女から、ナイフに視線を向ける。 呼吸を整え、感覚を研ぎ澄ます。 ゆっくりと閉じられる双眸には、通常の視覚とは違う情景が見え始める。 淡い光が折り重なるように見える世界。魔力の波動を捉え、視覚として感知した情景である。 すぐ側で、丸薬を噛み砕き、口移しでガゼルに含ませているらしい女が、青白っぽい光となって見える。 そして、目の前には、明滅するような儚さで、暗い赤色光となった少年が横たわり、その背から、天に吹き上げるような勢いの、黒く太い柱がそそり立つ。 ナイフが纏う呪いの気である。 女がこのナイフに触れていれば、彼女にもこの呪いが振りかかっただろう。 そして、そのままナイフを抜けば、ガゼルの命は吹き消され、人の死を受けて開放された呪いが王都中に飛散し、疫病にも似た被害を 出血を少なくする為か、それどころではなかったか、少年騎士が咄嗟にナイフを抜かなかった事に感謝する。 敵に対する評価を、少しだけ改めた。『馬鹿』の上に『考え無し』を付け加える。 無闇に強い魔法が、どういう結果を招くか、身を持って思い知ってもらおう。 魔導士は、破邪の印に別の呪文を組み合わせ、両手の中で、光の玉を作り上げる。 静かに長い詠唱が続けられ、手の中の光が膨張すると、微細な光の粒子となって飛び散り、羽虫の様に黒い柱に群がっていく。柱は一面光りに覆われ、光の羽虫に食い散らされる呪いの柱が、身悶えするように揺らめき始める。 「在るべき力よ、すべては源に還れ」 凛とした声が柱を打ち、光の羽虫を交えて四散する。 一瞬、何かを打ちつけるような音が響き渡った。 そして柱は消滅する。 「ふぃ〜」 呪いが消えた事を確認し、魔導士が大きく息を吐く。そのまま無造作にナイフを引き抜いた。 「ありがとうございます」 筆頭魔導士の魔力の行使を間近に見た女が、感慨深げに頭を下げた。 「未だ終わっちゃいねぇよ。呪いをあちらさんに叩き返してやっただけだ。よっぽど自信のある掛けっぷりだったからな、今頃目を白黒させてるだろうぜ」 いまだ幽かな邪気を発するナイフを見ながら、魔導士がせせら笑う。 本当はそんな生易しいものではない。あれほどすさまじい呪いだったのだ、ノーチェには、呪いを掛けた者が今ごろ死んでいるか、それに近い状態にあるだろうと推測できた。 自分には到底不可能な技である。 改めて、かの、北の魔王に匹敵する魔力の持ち主だ、という噂に肯ける気がする。 彼が敵でない事が実に有り難かった。 「シオン…様…」 毒消しが効いたものか、少年騎士が声を絞り出す。 「ガゼル」 屈み込む魔導士へ、震える手が伸ばされる。その手はローヴの裾を握り締め、意外なほどの強さで引っ張った。 「にし…西埠頭…45倉庫…船が着いてる…こんや、荷積みされる…人間だ…」 擦れた声が告げる情報に、魔導士がしっかりと肯く。 「判った。叩き潰してやるよ。お前はもう休め」 応える魔導士に、少年騎士はにやりと笑ってみせる。死相すら浮かび始めている重傷の身でありながら、その不敵な笑みは一人の漢を感じさせるものであった。 受けて魔導士も口の端を引き上げる。 「後は任せな、ガゼル」 少年の背に手を翳し、治癒の呪を紡ぐ。 毒の影響で効きが悪いものの、血は止まり、傷口の腫れがわずかに納まった。 立ち上がり、少年を膝に引き上げて抱きしめる女に顔を向ける。 「もっと強い治癒魔法を掛けてやりてぇところだが、悪ぃな、俺も魔力を温存したい。後は出来るな?」 ノーチェもまた鮮やかに微笑んでみせた。 「お任せ下さい」 肯き、魔導士が走り出した。 跳ね橋の番小屋へ駆け去る姿を見ながら、ノーチェは治癒の呪文を唱え始めた。 司祭のローヴを引き裂いた包帯できつく傷を縛られ、その上で何度か重ね掛けされた治癒魔法に、ガゼルの息が楽なものになっていく。 金色の瞳がゆっくりと開かれた。 「ノーチェ…」 覗き込む恋人に、ガゼルが微笑んだ。 愛しい声を聞き、ほっと息をつく。だが、重傷の少年を、いつまでも道の端で寝かせているわけにはいかない。 「騎士団に帰りましょう。人を呼んでくるわ」 語り掛ける女に、少年騎士は首を振った。 「俺の事はいい…お前は騎士団に走れ…隊長に知らせるんだ…スチャラカ魔導士だけじゃ、心配だぜ…」 命の恩人のはずの魔導士が聞いたら、さぞ苦い顔をするだろうが、レオニス至上の彼には当然の考えだった。 「でも…」 「行け…時間が無いんだ」 執拗に促すガゼルに、ぎこちなく肯いて、ノーチェは後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。 「ガゼル…」 数歩歩き出して振り向く女に、木の根本に体を預けながら、少年は片手を挙げた。 「ここに居るから、早く行け」 「はい…」 もはや彼の意志を曲げる事は出来ないのだろう。 彼女には判っている。 これは自分が教えた、戦闘に身を置く者の覚悟。 頼もしくもあり、何処か寂しくもある。 まるで母親だと、心の奥で笑う。 もう一度だけ振り返って、少年が、いや、愛する男がしっかりと肯くのを見返し、ノーチェは走り出した。 だから、小さくなる女の後ろ姿に、彼が呟いた言葉は聞く事が無かった。 「心配するな…俺には、女神の白い鳥が付いてるんだからな…」 目覚めた時、自分を覗き込んでいるのが愛する女だと期待しながら、少年は、ゆっくりと意識を闇の中に沈めていった。 |
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