SEQUENCE5―発覚―

 十六夜(いざよい)の月は下界を明るく照らす。
 シオンは満月よりも、この欠け始めた月が好きだった。
 これから満ちる十四夜では未熟に見え、満月は傲慢だ。盛りを過ぎ、ひっそりと終焉に向かう最初の夜。運命を甘受しながら、それでも輝くこの月が、なんとなく好きだった。
 メイは下弦の月が好きだと言う。
 細い々ヽ三日月に、乗ってみたいなんて言う。
 子供っぽいと笑ったら、殴られた。
 まったく手の早い女だ。口で言うより小気味いい拳が先に届く。
 あの爆竹みたいな性格が、なんとも好みに合う。
 あの女の前でなら、自分は自然体で居られた。どんなに取り繕おうと、誤魔化そうと、野良猫のような敏感さで、こっちの本音を読み取ってしまう。
 だから隠せない。隠さずに済む。
 闇を纏い、喩え直接手を下さないまでも、日々血に塗れて行くような自分の道。
 満面の笑みが闇を払い、強烈な性格で、泥沼すら怯まずに踏み込んで、血で冷え切った体を温める。
 何も知らない少女のまま、自分の色に染め抜いてしまいたい。だが、あの女は、そんな卑小な男のもとには留まらないだろう。
 あの女が欲するのは、供に歩く者。停滞し束縛する者では無い。
 そしてそれは、取りも直さず、自分が欲する伴侶でもあるのだ。

 ……何故、メイは今、傍にいないのだろう?

 あの日。ダリスに発つ前夜、初めてメイを抱いた。
 その無垢さに、その強さと内包する脆さに怯んで、自他と供に認める女誑しでありながら、長く手が出せなかった至高の華を、ついに手折ってしまった瞬間。後悔と至福の両方に包まれて、彼は充足という言葉を噛み締めた。
 自分に架けていた戒めの反動で、朝まで離すことができなかった。
 動けなくなって、エロボケ親父と散々に罵る女に、戻ったら、もう二度と離さないと宣言して出かけた。

 離さなければ良かった……

 体の半分が無くなったような気がする。
 春の宵だというのに、冷気が直接皮膚に触れているようだ。
 眠れない。どんな酒を呑んでも酔えない。美味いと思っていたものも、何もかも砂を()むようで、どんな音も遠くで聞こえているような気がする。
 自分は此処まで弱かっただろうか?
 一人の女が居ないだけで、こんなにも足元が覚束(おぼつか)ない。
 息をするのさえ苦痛に感じる。
 何としても探し出す、自分が生きる為に。
 あの女はまた、傲慢だと怒るのだろうが、これは死活問題だ。
 孤高の中にあって、ただ外側を右往左往する奴等を嘲笑っていた自分を、まるで親の手を求める迷子のような、情けない男に変えてしまったあの女に、責任を取って貰わなければならない。
 再びあの華奢な体を抱きしめて、好きなだけ罵倒を聞いて、あの充足を得る為に……

「シオン様?」
 月を見上げて立ち止まった魔導士に、低い問いが遣される。
 物思いから引き戻され、長身の騎士を見返すと、彼は前方を指差した。
 苦笑が漏れる。
 自分の思いに捕らわれて、よもや騎士に先に気がつかれるとは。筆頭魔導士の名を返上したほうが良いかもしれない。
 シオンとレオニスの前方、川縁に立つ木の下に、蚊柱(かばしら)のような陰が浮かんで見える。夏の盛りならおかしくも無いが、この時期には明らかに妙である。
 それに、恐らく騎士も感じているだろう、背筋を逆撫でするような、禍々しい気。
 一町先からでも感じられる、こんなものに気がつかないほど、自分はボケていたらしい。
「年は取りたくないもんだ、酒に弱くなったなぁ……」
 照れ隠しにそんな科白を口走る。途端にレオニスが渋い顔をした。
「それは私への嫌味ですか?」
 四歳年上の騎士は、魔導士の軽口に珍しく答えてくる。
「んあ?気にしてんのかよ」
 くつくつと笑う魔導士に騎士は小さくため息をつく。
「年より言動が老けていると、同僚に言われますので……」
「顔は童顔なのになぁ」
 他の人間が言えば切り殺されかねない軽口を、冷たい視線などものともせずに言い放つ。
「シオン様には適いません」
 案外な返事が返ってくる。
「言うねぇ……」
 嫌味の応酬で会話をしつつ、二人とも既に臨戦体制に入っている。レオニスの口が軽いのも、一種緊張感の表れなのかもしれない。
 ゆっくりと近づく二人の前で、影が揺らめく。それは風に煽られたようにふわりと膨らんだ。
「風よ……」
 魔導士が小さく呪を紡ぐ。風の壁が影を取り巻き、その膨張を押し止める。
 しかし、一旦は風の繭の中で大人しくなった影は、不意に凝縮し、次の瞬間爆発する勢いで膨れ上がり、取り巻く風を弾き飛ばす。
 咄嗟に風の矛先を変えて、防壁として前面に展開したが、その風に流されつつ、影は闇の塊となって騎士と魔導士を取り巻いていく。
 レオニスが騎士の作法である破邪の韻を唱え、剛剣を構える。
「もう一回来るぜ」
 その言葉通り、背後から闇が襲いかかる。騎士の剣が一閃し、濃密な墨が切り裂かれるように、左右に広がった。
「さっすが〜」
 軽く賞賛をもらしながら、風の幅を広げ、自分達の周りに巡らせる。しかしこれでは、身を守るばかりで、何ら状況に変わりは無い。
 勝負は、この防壁を解いた時にかかって来るだろう。
「うっと〜しぃなぁ……しつこい奴は男でも女でも嫌いなんだよ。特に化け物はな!」
 魔導士の一喝と供に、今度は風が膨張し、闇を弾き飛ばす。
 影が霧散する。同時に騎士が走る。魔導士は、収束をはじめた影から騎士を守る防壁を伸ばし、更に風の刃を影に放つ。
 騎士を阻もうとする影の触手が切り裂かれ、防壁の前に吹き散らされる。
 剛剣が月光を弾いた。
 木の幹と、そこに深々と突き刺さった剣との間に、闇が集まっていく。
 それは次第に、深くフードを被った魔導士らしき男へと代わる。
 胸を刺し貫かれていながら、呻き声の一つもあげようとしない。
 黒いフードに隠されて、顔は判別つかないが、不気味なほど大きな口がにやりと笑った
 明らかに人外の響きの声が発される。

『太陽は還らない……
 お前等は、闇の中で狂うがいい
 もうすぐ、贄が、掛る……』
 言うなり、再び影に戻り、霧散した。

「ご苦労さん」
 防壁を解き、魔導士が軽く息を吐く。
 研ぎ澄まされた剣士の勘は、的確に魔力の源を断ったようだ
 木の幹には、焼け焦げた小さな人形が、剣によって縫い付けられていた。
「なんだ?これは……」
「まあ、一種の形代(かたしろ)だな」
 眉を寄せる騎士に、ゆっくりと歩み寄った魔導士が答える。
「俺もはじめて見たが、動物なんかを使う使い魔みたいなもんで、魔力の中継点だ。仕掛けてきた奴は、此処には居ない」
 敵を取り逃がしたと判っているのに、魔導士はどこか嬉しそうに笑う。騎士の口の端もゆっくりと引き上げられた。
「当たり……ですな」
「ああ、首謀者か下っ端かはわからねぇが、敵さんの一人は、馬鹿だぜ。それともこれは、あちらさんのお誘いか?」
 喩え間近に調査の手が及んだとしても、傍観していれば此方には判らないのだ、それを態々(わざわざ)教えにきてくれるとは、間抜けと言うか、裏を勘繰りたくなるというか。
 とにかく、この連続失踪事件が、メイに関わってくるのは間違いないだろう。
 何よりの朗報である。
「だが、最後の科白が気になるな」
(ニエ)、ですか?」
 眉を寄せる騎士に、魔導士が頷く。
「俺等の陣営で、そういうのに掛かり易い奴っつ〜たら?」
「ガゼル……」
 志願して調査に飛び出していった、少年騎士の後姿が脳裏を過ぎる。
「しかし、門限は厳守と言い聞かせました」
「手掛かり見つけていたとしたら、そんなの頭から吹っ飛んでるぜ」
 騎士と魔導士は、湧き上がる不安に顔を見合わせた。

「あの……クレベール大尉でいらっしゃいますか?」
 立ち尽くす二人に、女の声が掛る。
 咄嗟に剣を引き抜いたレオニスの背後に、司祭姿の女が、怯えたように立っていた。
「貴女は……エルディーア司祭?」
「はい……」
 おずおずと進み出る姿は、あくまでもしおらしい。
 だが、魔導士はにやりと笑った。
「お前さんが関係してるんじゃねぇだろうな?白鴉」
 女司祭の肩がびくりと揺れた。明るい青い目が、怯えと怒りを含んで見返してくる。
 この魔導士は、自分の正体を知っていたらしい。知った上で泳がされていた?だが今は、そんな事は関係ない。
「今のお話。本当でしょうか?」
 先ほどの戦闘を彼女は見ていた、禍々しい気を感じ取り、駆けつけてきたからだ。そして聞いてしまった。
「ガゼルが危ないと……本当ですか?」
 体が震える。笑いかける膝に必死で力をこめて、少しずつ騎士に近づく。
 魔導士がすっぱ抜いた正体を聞いても、騎士は微動だ似せずにノーチェを見詰めていた。
 そして重々しく頷き返す。
「確証は持てませんが、恐らく」
 ぐらりと視界が傾く。騎士の腕が崩れる女を抱きとめた。
「ガゼルは・・船着場に行っています……伝言を頼まれました……失踪した一人が、船に乗ると言っていたと、そして、倉庫街で、人を探していると言う噂を聞いた、確かめに行くと……」
 震える声で搾り出す伝言に、魔導士の冷たい声が掛る。
「お前の口から出る情報を、信じられると思うか?」
「私はもう、クラインの人間です!」
 愛しい人の危機に、早く助けが欲しい、ノーチェは我にも無く叫んでいた。
 魔導士の冷たい笑みが、悪戯っぽいものに変わった。
「ガゼルの事となると、白鴉もただの女か」
「え?」
「お前さんが、あの坊主を(たら)し込んでいるのは判ってるよ。あいつ判り易いからな〜」
 更なるすっぱ抜きに、思わず顔が赤くなる。
「そして、貴女が、あれに技術を伝授しているのも知っています」
 追い討ちをかけるように、騎士が口をひらいた。
「あれの太刀筋が変わりましたから……」
 正攻法ではなく、暗殺剣を使う自分が、ガゼルに剣を教える弊害は、以前から気にしていたことだ。ノーチェは慌ててレオニスを見た。
「あ……クレベール大尉。私は決して、邪剣を教えはしません。ただ身を守る術を教えているんです」
 レオニスはかすかに笑って頷く。
「判っています。ガゼルの剣には迷いは無い。あなたはあれを育て、そして、『剣の意味』になってくれたようだ……シオン様、私はこれから騎士団に戻り、手勢を整え船着場に行きます」
「敵さん、馬鹿決定だな。判った、じゃあ、俺は一足先に行く」
「お願いします」
 膝を突いたノーチェから、騎士がそっと離れた。
「ガゼルは、他の若者より、生き残る能力がある。貴女のおかげです」
 言い置いて、彼は走り出した。今は急ぐことが肝要である。
 闇に走り去る騎士の後姿を見詰めていたノーチェは、震える膝を叱咤して立ち上がった。
 隠してきた割には、あっけなく見透かされてしまっていたようだが、二人のしてきた事を、理解してくれる人がいる。それが勇気を与えてくれた。
 騎士とは正反対の方へ、歩き始めている魔導士の背中を追いかける。
「カイナス様、私も、一緒に参ります」
 魔導士は、振り向きもせずに肩を竦めた。
「シオン、でいいぜ」
「ありがとうございます。シオン様」
 拭えない不安を目に浮べたまま、陣営の一人として認められた嬉しさに、ノーチェはかすかに微笑んだ。
 足早に歩く男女を、十六夜の月だけが、見詰めていた。

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