SEQUENCE3―願い―

 人並み以上の背丈の二人は、当人達の認識よりも遥かに目立っていたが、ぼそぼそと話し込んだかと思えば、今度は黙々と歩き出し、人目など気にならない様子である。
 あの二人が反応するとしたら、恐らく殺気に対してぐらいだろう。
 ガゼル・ターナは、己が上司と、王宮の騒動男の姿を、少し離れたところから眺めていた。
「……変な組み合わせ」
 思わず呟いてしまう。
 それくらいあの二人組は妙だった。
 犬猿の仲とは言わないが、仕事以外で並んで歩く姿を見るとは、思いもよらなかったのだ。
 一人は何よりも人目を惹く美丈夫で、その鮮やかな紺紫の長髪は、奇抜なほど高々と一つに結い上げられ、背に流されている。纏う衣は黒を基調にしたローヴではあるが、魔導士然とした陰鬱さはかけらも無く、彼の容姿と相俟って、妙に派手に見えた。
 誰しもが『様』付けで呼ぶほどに高い地位にありながら、軽口ばかりで、威厳も高貴さも持ち合わせない奇天烈な男。
 もう一人は黒い髪を短く刈り、鋭い眼光の偉丈夫。腰には、誰が見ても剛剣と判る業物を下げ、黙って立っているだけで辺りを威圧している。
 鍛え上げた精悍な長身を、着込みを仕込んだ機能重視の軽装で包み、愛想程度の隙も無い。
 まさに、騎士がそこに居る。
 この春、無事に騎士の宣旨を受けたカゼルにとって、常に振り仰ぎ、追いつきたいと思う理想そのものである。

 人目を惹く容貌以外は、まるっきり正反対の二人。今までならどちらもなんとなく牽制しあっていた両極端な男達が、ここ最近頻繁に顔を合わせているのは知っていた。
 理由はきっと、今日彼が、自分から志願してもぎ取った調査にあるのだろう。
 二ヶ月間に消えた、若者達の失踪理由を洗い上げる。
 かつての悪童頭として、失踪者の中に数人含まれていた幼馴染達の異変に、黙っていられないのと同時に、二ヶ月という数字に少し嬉しくなった。
 大尉が、まだ諦めていないのが判ったから。
 きっとこの調査は、彼の友達の一人だった、あの少女の消息を求めての事に違いない。
 後見人になる前から、少女が大尉に懐き、大尉もまた彼女を可愛がっていたのを、彼は良く知っている。
 今は王都を離れている彼の親友が、並んで歩く大尉と少女を見て、お似合いだと頷くのに、一も二も無く同意したものだ。
 長身の騎士と小柄な少女が醸し出す雰囲気はとても穏やかで、多少年が離れていようと、自然な一対に見えた。
 生涯妻帯せず、などと言う騎士が心に架けている枷など、きっと少女が吹き飛ばして、二人は優しい時を重ねていくに違いない。
 ガゼルの中では、そんなプランがすっかり出来上がっていた。
 だからこそ、少女が姿を消した時、元の世界に帰還した、という結論には承服しかねたし、友達を無くした喪失感と供に、大尉が手を拱いて沈黙するのに、歯痒い思いを抱いた。
 しかし、それは杞憂だったのだ。
 それが嬉しい。
 ただ、ほんの少し気になるのは、大尉と付かず離れず協調姿勢をとっている、あの魔導士だ。
 あの男が何かと少女にちょっかいをかけているのは、以前から気に入らない。
 少女が事あるごとに魔導士の所業に腹を立て、糞味噌に貶すのを、ほっとして聞いてもいた。
 あんな信用の置けない男に、彼女を渡すわけには行かない。
 だから、二人の為にも、必ず何かの手掛かりを掴んでみせる。そしてそれは、取りも直さず、自分が、理想に一歩近づく為の足がかりでもあるのだ。
 「よ〜し。まずはタミアとジゼルん家に行って、あとはバーグとギョームにナノッシュだ……」
 消えた幼馴染の家への道筋を思い出しながら、少年騎士はまっすぐに前を見据えて、走り出した。


 姫君は窓辺に佇み、黄昏が迫り始めた穏やかな春の街を眺める。
 穏やかに行き交う人々は、家路へと向かっているのだろう。
 キッチンから漂ってくる香ばしい匂いに、至福の微笑みを浮べて、クライン第二王女ディアーナ・エル・サークリッドは、飽きもせず大通りを見つめている。
「姫〜。お茶が入りましたよ〜」
 穏やかな午後に似つかわしい、柔らかな声が、彼女を呼ぶ。
 ディアーナは微笑みながら振り返った。
「待ちかねていましたわ、アイシュ」
 春の日差しそのもののような笑みを浮べた青年が、心づくしの菓子を並べて、茶器に紅茶を注ぐ。
 姫君がいそいそと席につく。
「相変わらず素敵なケーキ。これが楽しみで、ここに参りますのよ」
 嬉しそうな様子に、アイシュ・セリアンは一抹の寂しさを感じた。
 確か、互いの思いを打ち明けあい、未来を夢見る間柄ではなかっただろうか?だからこそ、お忍びの日が自分の休日に限られるようになり、目的地がこの家になっているのではないのだろうか?それとも自分はケーキのおまけなのだろうか?
 瞬時に浮かぶ疑問を、口に上らせるのはなんとなく怖くて、彼はゆっくりとお茶を啜った。
「姫はケーキがお好きですね〜」
 嫌味にならないように気をつけながら、それでも寂しさが口を突いてしまう。
 悲しいことに、姫君はしっかりと頷いた。
「ええ、アイシュのケーキが好きですのよ」
 心の中で滝涙が流れる。
「でも、ケーキだけなら王宮にも持ってきて下さいますでしょ?わたくしは、アイシュと、このお家で、二人でケーキを食べるのが好きですのよ」
 頬をほんのりと染めて言葉を繋ぐ様子に、とたんに天界から祝福の鐘が鳴り響くような心地になる。
「うれしいです〜姫〜」
 春の陽だまりのように微笑みあう恋人達は、何の憂いもないように見えた。

 しかし、目を転じれば、二人ほど困難の前に立っている者は居ない。
 仮にも一国の王女を、一介の文官が娶るなど、誰が許すというのだろう?
 何時かは、国の為に他国に嫁ぐのが王女の定めである。
 王女の兄である皇太子が、意外にも理解を示してくれたとはいえ、果たして望みを遂げられるか、先の事はまったく判らない。
 それでも二人は、必ず供に女神の前に立つ日を勝ち取ろうと、決意しあっていた。
 だからこそ、この穏やかな時間を大切にしていたい。

 ふと、姫君の笑みに陰りが射した。小さなため息が漏れる。
「どうしました〜姫〜?」
 尋ねる恋人に、そっと首を振る。
「ごめんなさいですわ……ちょっと、メイとシルフィスを思い出してしまいましたの……」
 さびしげな微笑に、彼女の親友達を思い出す。
 女神の末裔といわれる種族の騎士は、今、彼の弟と供に郷里に居る。
 危険な任務をやり遂げ、せっかく目標としていた騎士になったにもかかわらず、重症を負った弟のたっての願いを受け入れ、彼と供に歩む道を選んだ。
 弟は必ず復帰させると言い切って連れて行き、最近届いた手紙には、女性に分化したという知らせが書かれていた。
 姫君は、戻れば自分付きの女近衛騎士になってもらうと喜んでいる。
「キールはだいぶ回復したそうですから〜時期に二人で帰ってきますよ〜」
「そうですわね…」
 二人は何も案ずる事は無い、ただここに居ない寂しさだけがあるのだ、いずれは会える。
 だが、もう一人の少女。
 こちらの寿命を縮めるような騒動を巻き起こしていながら、その言動につい微笑みを浮べてしまう、茶色の髪の台風には、もう逢う事はできない。
 彼女は自分の世界に戻ったのだから。
「でも酷いですわ、メイったら。帰る時は絶対にわたくしに教えるって約束していましたのに……」
 ため息をつきつつも、少女にすら突然で、成す術もなかっただろうというのは判っている。それでもついつい恨み言が口を突いてしまう。
 身分も肩書きも関係無く、口調すら変えずに接してくれたのは、彼女だけだったから……
 そんな様を、アイシュは穏やかに見つめていた。
 姫君の寂しさが痛いほど判る。だから、
「姫〜メイも今ごろ、きっとお茶を飲みながら、姫のことを思い出していますよ〜」
気休めだと思いつつ、少しでも恋人の心を軽くしようと、語りかける。
 姫君はゆっくりと頷いた。
「はい、ですわ」
 気を取り直すようにお気に入りのケーキを口に運び、さらににっこりと笑う。
「ねえアイシュ。わたくし、信じていますのよ。何時か必ず、メイとシルフィスと貴方とキールとで、こんな風にお茶を楽しめる日が来るって」
 祈りを呟くように姫君は言葉を紡ぐ。
「そうそう、メイはレオニスが好きだったみたいですから、彼も呼びましょうね」
 皇太子と筆頭魔導士の会話をうっかり聞いてしまい、少女の本当の想い人を知っているアイシュだったが、蛇蠍のようにあの魔導士を嫌っている姫君の為に、その事にはあえて触れないでおく。
 これは祈りなのだ。
 彼はそっと頷いた。
「そうですね〜信じましょう〜姫〜」
 街はゆっくりと黄昏の中に憩っている。


 どうしたらいいのだろう?
 先日届いた手紙にあった知らせは、あまりにも衝撃的で、しかももう二月もたっているという事実に、キールにこの事件を言う勇気が持てない。
 黄昏が夕闇に変わり、既に闇に沈んだ部屋の中で、やっと身に馴染んできたスカートを握り締めながら、シルフィス・カストリーズはため息をついた。
 レオニスから自分にだけ宛てられた手紙には、親友の一人が、突然姿を消したと認められていた。そして、その失踪が、元の世界に戻ったのだろうと結論付けられていると。
 だが、細かに状況を綴った後に、追記として、自分も筆頭魔導士も、魔法研究院の結論には納得していないと書かれている。
 知らせをアイシュにすらさせず、今まで控えていたのは、緋色の魔導士の怪我の具合を慮ってのことであり、彼に伝える時期は、シルフィスの判断に任せるとも書き加えられている。
 双方の親の承諾を得て、晴れて婚約者となった魔導士は、もう日常生活には支障ないほど回復していた。
 だが、彼女はこの手紙をいつ見せて良いのか迷っている。
 キールがあの少女を、実の妹のように思っているのを良く知っているから。
 顔を合わせれば小言の山で、常に怒鳴りあうか嫌味を言うかのどちらかだったにもかかわらず、二人の間には確実な親愛の情が培われていた。
 彼は常にあの少女を見つめていた。だから、自分の恋は片恋だと思っていた。
 緋色の魔導士が、自分を選ぶなど有り得ないと……
 それほど、少女を護り、必ず帰そうとする、彼の気概は強かったのだ。
 その少女が失踪した。
 あくまでもありのままを書き綴った、レオニスの手紙が恨めしい。
 ただ少女が帰還したらしいという知らせだったのなら、悲しみつつも、即座に伝えられただろうに、帰還の根拠が曖昧で、何らかの事件に巻き込まれた可能性があるなんて、言えるはずが無い。
 自分だって、親友の安否は気にかかる、何とか無事に、レオニスの保護下に戻って欲しいと願ってはいる。
 だか、それをどう切り出せば良いのか…
 再びため息が漏れる。
 同時に扉が開いた。
「!?」
 飛び上がるように立ち上がった視線の先には、春らしい軽い服装に身を包んだ青年が、不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたんだ?灯りもつけずに」
 伊達眼鏡の奥で翡翠の瞳が眇められる。
「……お帰りなさい、キール」
 わずかに声が上ずる。取り繕うように慌てて笑いながら、彼女は婚約者に歩み寄った。
「遅かったんですね。心配していたんですよ」
 半分だけ本当の事を言い、彼が持つ大きな花束に今度は彼女が首をかしげた。
「それは?」
 緋色の魔導士と花束。あまりにも見慣れない取り合わせである。
「ああ、今日は向こうの森の奥まで行ったんだ。そこで、お袋が探していた薬草が群生していたから、採って来た」
 訳を聞けば実に彼らしくて、シルフィスはやっと本当に笑えた。
「きっと、喜ばれますね。それにしても、随分遠くまで歩いたんですね」
 魔法療法士である彼の母の指示によって、治療の最終段階である歩行訓練に、彼は熱心に取り組んでいた。もともと歩くのは好きなのだ。回復していく体を確認できるのも楽しい。
 キールは最近よく浮べる、穏やかな微笑を見せた。
「もう坂以外では杖も要らない。走れはしないが、普通に生活するんなら何の支障も無いさ……後はお袋が、首を縦に振るのを待つだけだ」
 医者の許しが出れば、王都に戻ることができる。キールの笑みがさらに深くなる。
 眉を緩めるような、柔らかな微笑みに、シルフィスは未だにどぎまぎしてしまい、頬が薄く染まる。
「そうですね……」
 彼の体に刻み付けられたドラゴンの爪と炎の息は、腕や背中、そして両足の肉を大きく削ぎ取り、完治した今でも無残な傷跡を残している。それでも、キールは生き延びた。
 名だたる魔法療法士である母の治療、そして何より、シルフィスの献身的な看護によって……
 キールは衝動的に婚約者を抱き寄せていた。
 驚いたシルフィスが、腕の中で身を硬くする。
 きっと真っ赤になっているのに違いない。
 そんな様が愛しくて、彼は喉の奥で笑った。
「お許しが出たら、とっとと王都へ帰ろう。研究は止まったままだし、メイの奴がシオン様と組んで、どんな騒動を起こしているのかと思ったら、おちおち寝ても居られない」
 途端に、細い肩が微かに揺れる。
 キールは、腕に少しだけ力をこめた。シルフィスが逃げ出さないように。
 そしておもむろに、予てからの疑問を浴びせ掛ける。
「なあ、そろそろ俺に話してくれないか?この間届いた手紙に、何が書いてあったんだ?お前の隊長さんからのだったよな?」
 腕の中の体がさらに硬くなる。キールは、小さく息を吐いた。
 シルフィスの様子が、あの手紙が届いてからおかしいのは、とっくに気がついていた。ただ、何時かは話してくれるだろうと思っていたのだが、どうやら彼女の悪い癖が出て、思考の堂々巡りに入ってしまっているらしく、埒があきそうにない。
 だから自分で切り出した。
「ちゃんと話してくれ…メイに何があったんだ?」
 再び肩がびくりと揺れ、小作りの面が、おずおずと上げられる。
「キール……」
「お前が悩んでいるのは判ってた。俺の怪我もあるだろうが、お前が言い出せない理由は、内容がでかすぎるか、それとも教えられたのが遅すぎたか。どっちかか両方かだ。教えてくれ。怒りゃしない。お前には怒りゃしない。だから教えてくれ」
 諦めたような、安堵したようなため息が吐き出され、シルフィスはポケットから一通の手紙を取り出した。
 あの寡黙な騎士らしい堅実さを感じさせる文字を追ううちに、キールの表情が硬く強張っていく。
 やがて彼はゆっくりと踵を返した。
「キール?」
「……お袋に断ってくる……王都に帰るぞ」
 ぼそりとそれだけ言い置いて彼は部屋を出て行った。
 予想通りの反応に、何度目かのため息が漏れる。
 キールの後姿からは、彼の通り名である『緋色』そのもののような、紅蓮の炎が立ち昇っているような気がした。



 煩雑な書類には果てがない。
 ひっきりなしに持ち込まれるこれは、数多くの文官や官僚の手を経て、これでもある程度にまで少なくなっているが、最終承認者であるところの皇太子には、それでも山ほどの承認物がやってくる。
 どこかで区切りをつけなければ、一個人としての生活すら、書類の山の下に埋められてしまうだろう。
 いや、もうとっくの昔に埋っているのかもしれない。
 特に、業務の右腕であるアイシュが休みであり、筆頭魔導士も騎士団からの呼び出しに託けて、王宮を逃げ出している今日のような日は、ゆっくりお茶を楽しむ暇さえないのだ。
 明日に回せるものは明日にしよう。
 ペンを置き、強張った肩を解そうと軽く伸びをしながら、彼は何時間ぶりに椅子から立ち上がった。
 すっかり日の落ちた窓辺へ歩み寄りながら、一枚だけ取り上げた書類を見つめる。
『メイ・フジワラ失踪事件追記』
 シオンの部下が、ついさっき届けてきた報告書だった。
 親友の手跡と判る、大胆で流麗な文字。
 クライン皇太子、セイリオス・アル・サークリッドは、品のある筆跡と、本人との落差に思わず苦笑した。
 どれほど軽薄で下世話な態度を取っていようとも、こんなちょっとした端々に、彼が名門貴族の出自である事を垣間見せる。
 騒ぎながら食事をしていても、食べる動作は上品だったり、ふとした仕草が優雅だったりと、しようと思えば相手がけちのつけようがないほど、完璧な礼儀作法を身に付けていながら、業と崩れた態度を取りつづける。
 作法や立ち居振舞いで相手を計る事しかしない王宮の中にあって、その態度は敵を作るだけなのだが、彼は業と悪評の山を築いていく。
 妙な男だ。
 相手の価値観を叩き壊し、物事を引っ掻き回して楽しんでいるかと思えば、見事な手腕で問題を解決してのける。
 掴み所のない男。
 仲間や協力者達よりも、敵にこそ、その真価を認められ、恐れられる男。
 彼が自分を王位に就ける為に、どれほど心血を注いでいるのか良く知っている。
 一滴も王家の血を持たない偽りの王子を、王位に押し上げるのは、彼独特の皮肉なのかもしれないが、あの男の庇護と献身があったからこそ、今の自分は在る。
 傍から見れば、昼行灯の遊び人を、友情に篤い皇太子が擁護しているように見えるらしいが、事実は正反対だ。
 だからこそ、自分は太陽を諦めたのだ。
 責務と運命に抗う自由への渇望と、真実を偽る者としての自責。崩れかけた自分に、力を与えてくれた太陽の笑みを持つ少女。
 一度は我が傍にと望んだのだ。だが、同時に気がついてしまった、少女が誰を見、男が誰を見ているのか。
 問い詰めたらあっさりと白状した。
 飄々とした姿からは想像ができないが、あの男は結構一途なところがある。
 嫌になるほど、男を知っているからこそ、自分の想いを飲み込んだ。
 考えてみれば、自分は恋よりも親友の方が大事だったのだ。少女を手に入れて、あの男が、本当の心の安息を得られるのなら、蕾のまま自ら摘み取った想いへの、手向けになる気がした。
 皇太子は大きく息を吐いた。
 もう一度、親友の報告書を読む。
 失踪した若者達の事件と合わせて、彼が恋人の帰還を信じていない事が、あらためて明記されている。それは心の熾きを熾すように、ざわめく何かを感じさせる。
 願わくば、少女が再び、親友の隣に立ち、あの太陽の笑みを輝かせる日が来るように……
 瞬き始めた星を振り仰ぎ、下界の人間達を翻弄する運命へ、女神が慈悲の腕を伸ばしてくれるようにと、皇太子は祈る。
 


 竪琴が最後の一音を唄い、宵闇に沈む美しく整えられた庭に、その響きを溶かしていく。
 吟遊詩人は優雅に一礼し、たった二人の観客へ謝辞を表した。
 ぱちぱちと小さな手が拍手を送り、幼い当主とその友人は、満足げに微笑む。
 小さな貴婦人然とした、紫の髪の女当主は、ほんの少し年下らしい黒髪の少年に頷いて、品のある仕草で立ち上がった。
「イーリス。とても素敵な演奏でしたわ。ありがとう」
 ねぎらう少女に、イーリス・アベニールはそっと首を振った。
「いいえ、わたくしこそ一夜の保護を頂き、お礼の仕様もありません。わたくしの曲でお二人のお心が慰められるのなら、いくらでもご所望ください」
 営業用の微笑を浮べながら、ちんまりと並んで座る少年少女の、数奇な事情を考える。
 王都から半日の距離にあるこの屋敷には、わずかばかりの使用人と、この子供達しか住んではいない。
 ミリエール・ローゼンベルクとリュクセル・ブラウエン。
 姉弟の様に寄り添う二人は、ともに両親を亡くし、零落した家名を背負う当主達なのだ。
 ひっそりと暮らす二人は、穏やかな笑みで吟遊詩人を見つめている。
 思えば自分もまた、同じように零落した、クライン貴族の成れの果である。家も国すらも捨てて、漂泊の人生を歩く自分と、茫漠とした未来の二人。
 よく似た境遇に引き寄せられたように、めったに近寄らない貴族の屋敷に宿を請うた。
 例によって、女神の掌で転がされたらしい。
 まあ、こんな夜も良いだろう。
「他に聞きたい曲はありませんか?」
 しっとりとした吟遊詩人の声に、二人の子供はどうしようかと顔を見合わせる。
「何でもお望みのままに……」
 もう一度促すと、黒髪の少年が女当主にこくんと頷く。彼女もまた、微笑んで頷き返す。
「でしたら、私たちにとって、お姉さまと呼べる方の為に、一曲お願いしますわ」
 イーリスは営業用では無い笑みを浮べた。ふと思い出した少女の、満面の笑みに引き込まれたのだ。
「メイですね?」
 二人が同時に頷く。
「あの方が、幸せであるように、私達は、何時も女神様にお願いしているんですのよ」
「そうですか……」
「貴方は明日、王都へ向かわれるのでしょう?」
 問いにゆっくりと頷き返す。
「はい、わたくしも、彼女の笑顔が見たくなって、半年振りに王都へ行くことにしました」
 二人が明るい笑顔を浮べる。
「なら、お姉さまに伝えてください。二人とも、元気にしていますと……」
 伝言を聞いた少女が、訪れてくれるのを期待しているのだろうか、四つの瞳が輝いている。
「判りました、必ずお伝えします。では、メイの為に、幸せを祈る曲を……『夢見草』という、古い曲です……」
 再び送られる拍手に一礼し、優雅な指が、竪琴を爪弾き始める。
 名手の奏でる曲と、深みのある声が、再び宵闇の中に融けていった。
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