高い塀は、厳しく門扉を閉ざし、その広大な空間を近隣から隔てている。
初夏の様相を呈し始めた春の日差しの中、錬兵場の区画からは、あいも変わらず真面目に訓練に勤しむ騎士や見習達の声が響く。
毎日々ヽよく飽きもせずできるものだという男に、彼は少しだけ呆れた。
恐らく、ここに佇む男ほど、日々の努力という事と縁遠い者は居ないだろう。
剣の鍛錬などに勤しんだ事も無く、それでいてそこそこの腕はある。複雑な呪文を、一度聞いただけでそっくり復唱して見せ、そのまま己の魔法にしてしまう。
何もせず、余裕で全てをこなす男。
優れた容姿で女性関係に事欠かず、名門の出自と、宮廷筆頭魔導士という高い地位を持ちながら、不遜で軽薄な言動によって、悪評を築く男。
それは、突出する自分を、周囲に納得させ、動き易くするための方便。
ただ天から与えられた才能の上に、胡座をかいているように見せかけながら、その鋭い洞察力と、用心深さが培った身を守る術だと気がついているのは、片手で数える程度だろう。
世の中に対して、常に臨戦体制で居る男。
見た目の余裕綽々とした態度とは裏腹に、決してその心を休める場所を持たない男。
自分とは対極にありながら、よく似た本質を持つ男・・・
レオニス・クレベールが、この二ヶ月の間に改めた、シオン・カイナスへの認識である。
それまでは、才能も切れる頭脳も皇太子からの信望もありながら、それらをただ享受し、幸運な人生を、遊び呆けて持ち崩す男、としか映っては居なかった。
しかし、この男が唯一の拠所を失いかけて、どれほどの焦燥に駆られているのかを知っている今となっては、彼の矜持はむしろ痛々しいとも思える。
レオニスは手元の書類に目を落とした。
彼とこの男が共通の目的を持ち、足並みを揃える等という、異常な状態を齎した原因の総纏めの報告書。
『メイ・フジワラ失踪事件に関する覚書』
魔法研究院の見習い魔導士、メイ・フジワラが消息を絶って、既に二ヶ月が過ぎようとしている。
ある日突然、彼女は姿を消した。
外出から院の部屋に戻らず、そのまま消息が途絶えたのである。
失踪の理由はまったく判らなかった。
それどころか、彼女の部屋から持ち出された物も無く、誰かが侵入した形跡も無い。
まったく突然に、彼女は居なくなった。
以前の保護者から引き継いだ後見人であるレオニスは、彼女に最後に会った人物となった。
彼の休日に合わせて、少女が訪問し、夕刻、まだ明るいうちに暇を告げて帰ったのである。
その時、彼女には何ら変わったところは見られなかった。
何時ものように屈託無く笑い、何時ものように元気良く手を振りながら、駈け去っていった・・・
失踪という変事に、誰しもが驚いた。
以前から懇意にしていた皇太子の声掛りで、騎士団や自警団、果ては宮廷魔導士すらも加えての一大捜査陣が敷かれたが、その行方は遥として知れず、魔法院へ駈けていく姿を、公園にいた老婆が見かけたのが、最後の消息となった。
茶色の髪と、同色の瞳を持つ少女の、誰をも引き込む満面の笑みを思い出す。
異世界から、魔法の実験の失敗によって、偶然こちらの世界に引き寄せられた異邦人。年を聞けば16だという。
こちらの慣習でなら、もはや成人といえたが、その言動や行動は、未だあどけない少女のもので、彼女の引き起こす騒動でさえ、つい笑みを誘われる不思議な娘。
理不尽な理由で突然天涯孤独となり、寄る辺の無い世界に放り出されながら、それでも持ち前の明るさと、何事にも屈しない強い心で、周りの者たちを魅了していた。
彼女がいる場所は、その笑みがあるだけで一際色鮮やかに感じられ、予測不可能の行動に、ついつい視線が惹きつけられる。
まるで恋のようだと自嘲した事もある。
かつて全てを捧げ、今もまだ誓となって心の奥に在る想いと比べると、それは穏やかで、男から女へ注ぐ情熱というよりは、むしろ兄や父親の持つ親愛の情のようなもので、彼女の幸福を見守りたいという願いなのだと理解した。
そうでなければ、もっと激昂していたかもしれない。
目の前にいる男が、平素の仮面を被りながら、必死で不安と衝動を押さえているように。
少女に対する恋というのなら、この男こそ当てはまるだろう。
何故なら二人は、既に想いを交わす間柄になっていると、当の少女から打ち明けられていた。
名うての艶福家、シオン・カイナスの艶聞のひとつとして、噂されるのを嫌った男と少女は、あえて二人の関係を隠していた。
当初、彼は無垢な少女が、女誑しの魔手にかかったと渋い思いをしたものであるが、少女の様子や、意外なほどあっさりと、全ての女性関係を清算した男の行動に、今までに無い真剣さを感じ取り、陰乍ら見守っていこうという気持ちになりかけていた。
第一、少女の一挙手一投足に、うろたえたり楽しんだりする魔導士の姿を見るのは、かなりの見物といえた。
傍目から見ても、魔導士が少女に心酔しているのは、一目瞭然だったのだ。
そんな恋人たちを、事件は無常に引き裂いた。
彼の心が、どれほどの悔恨に苛まれているか、推し量るのは簡単だ。
失踪の当日、彼がこの王都に居れば、事件はもっと違った形になっていたのに違いないのだから。
先年、以前から不穏な状態にあった隣国ダリスにクーデターが起こった。
前王の遺児であった王子が、悪政を繰り返す僭主から王位を取り返したのである。
王子が率いていた反乱軍を、クライン皇太子セイリオスが援助していたのだが、無事王位に就いた新王へ、宮廷筆頭魔導士は、皇太子の名代として祝辞を届けに赴いていた。
その留守に、少女は消えた。
魔導士が戻ったのは五日後である。
しかも、彼が戻ってきて、初めて、失踪が判ったのだ。
たとえ成人した娘であるとはいえ、魔法院の無関心さにはあきれ返ったものだ。
まったく手掛かりが掴めないまま、数日が経過したとき、魔法院の魔導士達が、妙なことを言い出した。
あの日の夕刻、奇妙な魔力の発動を感じたと・・・
その魔力が、どういう種類のものなのか、もはや判別するのは不可能だった。だが、院の長老達は、新たな可能性を示唆してきた。
メイ・フジワラは、この世界に来た時と同じように、何らかの原因によって、元の世界に戻ったのではないだろうかと。
彼女を呼び寄せた召喚魔法を執り行った、緋色の魔導士、キール・セリアンが、怪我の療養のために王都を離れている現在、筆頭魔導士でさえ、召喚、創造魔法は専門外といえた為、長老達の結論に、強く反論できる者は居ない。
それに、当の緋色の魔導士が書き残した資料の中に、メイ・フジワラの次元間での不安定さが指摘されていた。
人々の考えが、次第に、失踪ではなく、帰還へと傾いていったのも、無理からぬ事といえる。
彼女は自分の世界へ戻ったのだ。
何時の間にかそれが、可能性ではなく、結論となっていた。
捜査は一月後に打ち切られ、町は平穏を取り戻した。
一人、少女を取り残したまま・・・
だがここに、諦め切れない想いを抱えた男が二人いる。
一人は、断ち切れるはずも無い深い想いゆえに。
もう一人は、少女自身から聞いた、決意のために。
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