見守る視線
キール。
今日は湖へ遠征に出かけました。
たった二週で息が上がってしまった見習達を見ていると、自分もこうだったかと、可笑 しくなりました。
今日もいい天気で、精霊達が綺麗に舞っています。
この頃精霊の姿が見れるようになってきたんですよ。これが貴方の見ている景色かと思うと、とても愛しく思えます。
え?風景に見惚れて、訓練が疎かになったか?
まさか、これでも鬼教官と言われているんですよ。
レオニス大隊長の様にはいかないかも知れませんが、精一杯、若い芽を育てているつもりです。
日が傾く前に戻りましょう。この後素振りが待っています。
手は抜きませんよ。勿論。
キール。
今日は錬兵場の井戸で、傍に汲み置きされていた桶に、氷が張っていました。
もうすぐ冬ですね。
貴方の好きな秋が、終わろうとしています。
午後から時間が空いたので、森へ散策に出かけました。
やはり森は良いですね。落ち葉がかさかさと内緒話をして、貴方がどんな風に森を歩いたか教えてくれます。
いつも研究で頭が一杯ですよね。でも、森に来た貴方は、とても穏やかな表情で、私は森になりたいと思ったほどです。
森の中で、視線を感じました。
とても穏やかでやさしい視線です。
私は何時の間にか微笑んでいました。
心から笑顔が浮かんできたのは久しぶりです。
それに、視線を感じながら、うたた寝をしてしまいました。
騎士である自分が、他人の視線の前で眠るなんて、初めてです。
それほど、優しく、落ち着ける視線だったのです。
また、森に来ましょう。
キール。
雪が降りました。
今日はお休みの日なので、ラボで本を読む事にします。
看板は出していないんですけどね、自分の家をラボと呼んでいます。
小さな、落ち着く家です。
この頃は、難しい魔道書も、読めるようになってきたんですよ。
それに今、シオン様について、魔法を習っています。
なかなか筋か良いと、誉めていただけます。
シオン様が仰るには、精霊が見えるようになった事で、アンヘルとしての能力が伸びてきているのだろうと言う事です。
シオン様はとても丁寧に教えてくださるんですよ。
魔道の心得から説くあの方の姿は、いつものすちゃらか魔導士とは思えないほど真剣で、まるで違う人のようです。
メイがあれほど早く、緋色の肩掛けを貰えたのは、あの方のお力もあったのでしょうね。
二人がどれほど愛し合っていたか、私はよく知っています。
あんな事さえ無ければ…
おや、ドアのベルが鳴っています。
きっと、お兄さんでしょう。ケーキを持ってきてくれる約束でしたから。
これからお茶会です。
ええ、アイシュです。今は政務長官におなりです。相変わらず気さくな方です。
私はお兄さんと呼んでいます。
こんな雪の中、大丈夫だったんでしょうか?
早く開けてあげなければ…
キール。
季節というものは、ゆっくりと過ぎていくのですね。
詩人を気取るつもりはありませんが、青い空と、雪化粧をした草原を見ると、散文のひとつでも捻ってみようかという気になります。
今日は、女王陛下のお供で、北の離宮へ行きました。
相変わらず、お忍びがお好きな方です。
でも、さすがに離宮まで二人で行く訳にはまいりません。私の小隊を付けさせてもらいました。
離宮には、王子殿下がお住まいです。
空色の髪と、菫色の瞳。御父君に生き写しの王子様です。
セイリオス殿下の忘れ形見…
セイリオス殿下とディアーナ姫。お二人が何時愛を育まれたのか、知っているのはシオン様とメイだけでしょう。
あの時私達は、貴方の田舎にいましたからね。
女王陛下は、セイリオス殿下の素性を明かし、唯一の夫と心に決めて、寡婦を貫いて王子をお育てになっています。
セイリオス殿下が暗殺されたのは、こんな冬の日だったと聞いています。
だから、女王陛下は、冬になると離宮へお出かけになることが多くなるのです。
王子殿下は、お健やかにお育ちです。
私たちにも良く懐いて下さるのですよ。
離宮にお一人でお住まいになって、さぞお寂しいでしょうに、明るい笑顔を見せて下さいます。
この強さは、母君の芯の強さと、父君の精神力。双方を受け継いでおられるからだと判ります。
夏になれば、王子殿下は9歳になられます。女王陛下はそれを機に王宮へお呼びになって、お手元でお育てになると決められました。
これは、取りも直さず、殿下が安全になったという事です。もう、暗殺の心配はなくなったのです。
シオン様がどれほど尽力なされたのか、表の守りである騎士には、判らない事です。
夏になれば、良い事が色々ありそうです。
楽しみですね。
キール。
春は、良いですね、心がうきうきしてきます。
メイからも、手紙が届きました。
女王陛下、お兄さん、大隊長、そして、私とガゼルにも、毎年春に届く手紙です。
でも、シオン様にはありません。
女王陛下に宛てられた封書の中に、紫苑の押し花の栞が入っています。
これだけが、シオン様に宛てられたものです。
私は、いまだによく判らないのです。
メイは、何故、ダリスへ嫁いだのでしょう?
ダリス王が、たってと望んだことは聞いています。
ですが、あれほど深く結びついていた恋人同士が、何故結ばれなかったのか、どうしても判らないのです。
シオン様は、その事について、何も話してくれません。女王陛下は、自分が不甲斐無かったからだと、悔いていらっしゃいます。
私達も、自分達のことで精一杯でしたね。物事が起こる時はあんな風に一度に何もかもが起こるものだと知りました。
セイリオス殿下が暗殺され、国王まで崩御され、国内が揺れ動いた。それを鎮めたのが、女王陛下をお守りしたシオン様でした。
噂は囁きます。
シオン・カイナスは、己の地位の安定の為に、自分の女を養女に仕立てて、ダリス王に、うまく取り入らせたのだと。
表面だけ見れば、ダリス王妃の義父として、シオン様の発言力が、王宮内で強まったことは確かです。それによって、即位したばかりの女王陛下が、どれほど助けられたことか。
メイのおかげで、クラインは動乱を免れたと言えるでしょう。
どうしてこんな事に?なんて、私は言いません。失った時を悔いるのが、どれほど無意味な事か、私は良く知っていますから。
メイからの手紙は、いつも元気です。
メイとダリス王の間に生まれた、王子様と二人の王女様も、健やかに成長しているそうです。
私は少し安心します。
彼女は、確実に自分の居場所を作ったのですね。
キール。
私は、見てはいけないものを見たのだと思います。
今日は、魔法を習う日ではありませんが、解らない事があったので、仕事の手が空いた時に、シオン様の執務室へ伺ったのです。
ドアが、薄く開いていました。だからうっかりノックを忘れたのです。
シオン様が窓辺に立っておられました。
手に持った紫苑の栞へ、そっと唇を落とす姿に、メイへの想いがどれほどのものなのか痛いほど判ってしまって…
厳粛な面持ちで押し花を見つめる様子に、深い愛情が未だに消えることなく、積み重なっているのだと伝わってきて、荘厳とも言える美しさが、まるで一幅の絵画のようでした。
私は、立ち竦んで泣いていたのだと思います。
気配に気づいたシオン様が、いつもとまったくお変わりにならないのが、逆に切なくて、逃げるように立ち去ってしまいました。
哀しいと、思いました。
自分の信じる道を、まっすぐに進むことのできるメイの強さを。
遠く隔たった地で、なお見守りつづけることができるシオン様の深さを。
添うべき恋人達を引き裂いた、女神様の無慈悲を。
私は、シオン様の心の奥を、見るべきではなかったのです。迂闊な自分が悔やまれます。
キール…
私は、一つだけ気になっている事があります。
ダリスの世継ぎの王子は、深い紺碧の髪をしているのだそうです。
黒き潮のようだと称えられているそうです。
これは、異界に居る、メイの父君の髪と同じだと、話に聞きました
キール。私は以前、メイの世界には蒼い髪の人など居ないと、彼女から聞いたのを憶えています。
私の疑問。判りますよね?
メイ…貴女はどこまで強いのでしょう?
キール。
嫌になります。
また交際を申し込まれました。
私は、分化していないので、何方の申し出も受けることができないと、どれほど言っても、解ってくれない人が多いのです。
カゼルに言わせれば、まったくの物好きとなりますが、私も同感です。
ただ、見た目が綺麗だから、という理由で、こちらの生活にずかずかと踏み入られるのは迷惑です。
丁重にお断りしました。ええ、とても丁重に。
明日あたり騎士団へ、然る貴族の子弟から、抗議が届くでしょう。
レオニス大隊長が苦笑されるでしょうね。昔からのことです。
私はもう、分化はしません。極稀にですが、分化をしないアンヘルもいるのです。私はその一人になりました。
悔いも不安もありません。
これは、私が自分で選んだ事だからです。
キール。
今日は王宮に王子殿下がおいでになりました。
誕生日を前にして、もう我慢ができなくなった女王陛下が、とうとうお呼びになられたのです。
カゼルの小隊に守られた馬車が王宮に着き、王族の白い正装を身に纏われた王子殿下は、まるでセイリオス殿下が、お小さくなって戻ってこられたようでした。
初夏の日差しの中、王宮へ入られるその姿の凛々しい事。
女官達や、お兄さんが涙ぐんでいました。
かく言う私も、熱くなってくる喉をどうしていいか解らずに、ただ瞬きを繰り返すだけ…騎士として、恥ずかしい限りです。
さすがに毅然としておられた女王陛下でさえ、殿下を守護するように、シオン様がお立ちになった時、つい目頭を押さえておいででした。
再び、空色の髪と夜空色の髪が並ぶ日がきたのです。
これからは何もかもが良い方向へ向かう。
そんな気にさせられる一日でした。
キール。
夏はあっという間ですね。もうすぐ秋になります。 貴方の好きな季節です。
今日はお休みです。
森へ行きましょう。
まだ枯葉はありませんが、色づき始めた木々が綺麗です。
貴方と歩いたあの日の森と同じです。
また、視線を感じます。
この頃は、森以外でも時々感じるようになってきました。
とても優しい。穏やかに見守るような視線…
キール、貴方なんでしょう?
私達の時間は、遠く隔たって、もう重なることは無いと思っていました。
でも、貴方はこうして、私を見守ってくれるのですね。
あの日、二人で森を歩いていましたね
体の傷も大分癒えて、この分なら冬には王都に戻れるかも、なんて話が出てくるほど、貴方は元気になってきているようでした。
あのまま、過ごしていけるのだと思っていました。
でも、ドラゴンの息吹は、貴方の体をなおも蝕んでいたのですね。
崩折れる体。吐き出された夥しい血…私にはどうすることもできなかった。
灯火が消えるように貴方が息を引き取った雪の日。あれから暫くの記憶がさだかではありません。
自分が何をしているのか、おぼろげに解ってきたのは、もう春も終わりのころでした。
貴方のお母様の下で、子供のように、寝たり起きたりを繰り返していたそうです。
分化しかけていた体も止まっていました。
私は、そんな自分を受け入れることにしました。
貴方と共に変化していく為の分化です。貴方が見ていなければ、私は変わることはできません。
変わらずに、そのままの私で生きることにしたのです。
せめて名前だけでも貴方と共に在りたくて、お母様に頼んで、セリアンノの戸籍に入れていただきました。
だから、今、私はシルフィス・セリアンなんですよ。
アンヘル村の父母には、納得してもらっています
私を心配したお兄さんや女王陛下、そしてレオニス隊長が、再び騎士団に呼び戻してくださいました。
あれから、10年が経ったのですね。
王都に戻ってからの日々は、ただがむしゃらに職務を遂行する日々でした。
働いている間は、貴方の事を思い出さないですむから…
でも、こうして、心の中で、貴方に手紙が書けるようになりました。
読んでくれていますか?私の手紙。
几帳面な貴方のことだから、きっと読んでくれていると思います。
そして、あの視線を、私に送ってくれているのですね。
貴方は、強く生きろと、最後に言ってくれましたね。
私は強くなりましたか?
悲しみに負けないほど強くなれたでしょうか?
これからの長い時間。
きっと緩やかに、私も変わっていくことでしょう。
貴方の、あの優しい視線があれば、もう変わることを恐れる必要は無いのです。
今度、魔導士の試験を受けようと思っています。
上達の早さは、シオン様の折り紙つきなんですよ。
そして、あのラボで、貴方が残した創造魔法を完成させようと思っています。
私が今在り、アンヘルの血に助けられて、魔力を伸ばしているのは、いつか貴方がこの世に在った足跡を、確実な形で残したいと思っているからです。
勿論、騎士は続けます。
女王陛下、王子殿下をお守りするのは、私の使命ですから。
キール。
私は生きていきます。
騎士として、そして、もうすぐ魔導士としても。
貴方と共にこの世界を見つめていきましょう。
何時か、必ず会いましょうね。
その日まで、心の中で手紙を書き続けます。
どんな時でも。
キール・セリアン様
シルフィス・セリアン