見守る瞳
その王妃は、この世界に生を受けたものではなかったと、歴史書は語る。
何処 とも知れぬ異界より、クラインの地に呼び寄せられた少女であったと。
ゆえに『稀 なる王妃』と呼ばれていた。
太陽に喩 えられた笑顔の王妃は、ダリス国民のみならず、故国であるクラインの人々にも愛されていた。
ダリス国王アルムレディン・レイノルド・ダリスは、王妃について後にこう語ったという。
「我が王妃は、ダリスとクラインに使わされた天人であった。彼女は役目を終え、天に還ったのだ。蒼い翼を取り戻して」
16年間、ダリスにおいて、賛美と祝福を以って国民から愛されたダリス王妃、メイ・カイナス・ダリスが息を引き取ったのは、彼女がこの世界へ呼び寄せられたといわれる、春も盛り、初めて踏んだクラインの地においてである。
死の床に横たわった王妃の周りには、ここが隣国クラインであるにもかかわらず、急遽駆けつけた家族が顔をそろえ、夫君であるダリス国王が、固く妻の手を握り締めていた。
更に、クラインにおいての古いの友人達、クライン女王、政務長官、騎士団長とその部下二人が囲み、わずか33年の生涯を惜しんでいた。
みな、涙が止まらず、特に、親友であるクライン女王は、金髪の騎士にしがみ付き、少女のように泣き崩れていた。
ただ一人、涙は無く、窓辺に背を預けた姿で、穏やかに王妃を見詰めていたのは、長くクラインの筆頭宮廷魔導士を勤め、宰相を兼任するほどの国の重鎮。シオン・カイナス。
不治の病に侵され、余命幾ばくも無いと悟った王妃は、最後の時をクラインで迎えることを望んだ。
ダリス王は長年の献身に報いる為、それでも渋々、妻をクラインに送ったのだが、王妃の義父筆頭魔導士が、その行列を国境で迎え、そのまま王妃を連れ去った。そして、王宮にある自分の執務室に隣接したこの寝室へ連れ帰ったのだ。
以来、一年近く、彼は正に心血を注いで王妃の治癒に尽くしたのだが、僅かに寿命を延ばしただけで、王妃は臨終を迎えようとしていた。
青を基調とした寝台の上で、王妃は儚い微笑を浮かべ、子供達や、友人達一人一人に言葉をかけ、別れの挨拶を済ませた。ただ一人、筆頭魔導士を除いて。
16年間、仲睦まじく連れ添った夫に、彼女は柔らかな笑顔を向けた。
「アルム、ありがとうね。こんなあたしを、今まで大事にしてくれて…」
そして、はじめて、筆頭魔導士へ視線を向け、幽かに呟く。
「行こうか?」
それが最後の言葉であった。
王妃の命が消えたことを皆が知り、悲嘆のざわめきが起こった時、魔導士の体がゆらりと揺れた。
朽木が倒れるように、その長身が崩れ折れ、驚いた騎士が抱き起こしたが、その体に既に魂は無く。端正な顔に穏やかな笑みを浮かべたまま、事切れていた。
二重の悲嘆が、クラインを被った。
クライン女王ディアーナ・エル・サークリッドは、親友であったダリス王妃と、その養父である筆頭魔導士の国葬を執り行った。長年クラインを支えてくれた功績に報いて。
本来ダリスにおいて葬られるべき王妃が、養父と共に眠る事となったのは、ある不可思議な現象の為であった。
ダリス王は、当然妻の遺体を自国に連れ帰る所存であったが、葬列をしたて、帰国の途につくべく出立しようとしても、馬が動かないのである。
王妃を乗せた馬車の馬だけでなく、すべての馬が、そこに根が生えたように動こうとしなかった。
馬まわりの者は困惑し、クラインの好意により、すべての馬を交換したが、やはり、その馬達も動かなくなった。
鞭で打たれようと、手綱を引かれようと、馬達は沈黙の中に囚われたかのようである。
奇態な現象に、ざわめき困惑する中、ダリス王の前に、身なりの粗末な一人の少女が現れた。
金髪碧眼 の美しい顔立ちをした少女は、ダリス王に向かって、臆することなく言い放つ。
「お姉ちゃんを連れて行かないで。あの人の傍で眠らせてあげて」
あの人、が筆頭魔導士を表すのはすぐに解った。少女の身なりの粗末さに、どこぞの子供が迷い込んだかと思い、その言葉の無礼さを不快に感じた。
しかし、家臣に連れて行かせても、少女は何事も無かったかのように、再び王の前に現れ、同じ言葉を繰り返す。
その奇妙さと、少女の姿が、以前妻に聞いた、王妃が守護する聖樹の聖霊に良く似ている事に気が付いて、王はアリサか、と訊ねた。
はたして、小さな頤 がこくりと頷く。
「あのね、これは、あたしがお姉ちゃんとした、たった一つの約束なの。お姉ちゃんはこの国に眠りたいの。もう、あの人と離さないであげて」
いくら聖樹の聖霊の言葉でも承服 しかねた。
16年の間、誰よりも妻を愛し、妻もまた自分を愛した。ダリスへ連れ帰り、墓を立て、いずれは自分もその横へ眠る。これは夫婦として当たり前の事である。
それを、喩え故国であり義父であるとしても、他国で別の男の横になど眠らせる訳にはいかない。王妃がそんな事を望むはずが無い。
頑なな王に、少女は尚も言い募る。
「お願い。連れて行かないで。これ以上お姉ちゃんを不幸にしないで」
聞き捨てなら無い言葉に、王は不快を露にした。
妻が不幸であったはずが無い。彼女は常に家族や国民から慕われ、王妃もまた惜しみなく国に尽くした。そして、自分達夫婦の睦 まじさは、他国ですら賛美されるものなのだ。
「私は妻を、生まれた世界を忘れるほど、幸福にしたと自負している」
精霊は、渋々頷いた。しかし、その緑の瞳は、王に据えられたままであった。
「そうだね、お姉ちゃんは幸せだよって言ってた。あなたや、子供達を心から愛してたよ。
でもね、魂の深いところで、あの人と繋がっていたの。本当は離れたら駄目だったの。だけど、あたしとあなたが引き離したんだよ…」
何時しか少女は泣いていた。
「連れて行ったらもう駄目なの。お姉ちゃんが悲しむの。だってお姉ちゃんお月様見れないでしょう?月の光は嫌いでしょう?あたしたちの所為なんだよ…」
王は少女に屈み込み、さらに2.3言葉を交わした。
ついに王は折れ、王妃の棺を、神殿に安置された筆頭魔導士の横に並べた
ダリス王家の墓には、王妃の遺髪が納められることとなった。
月日は流れる。
悲しみに沈んでいたクラインも、その痛手を少しずつ癒 していた。
逝きし者は思い出となり、生者は日々を過ごしていく。
シルフィス・セリアンは、思春期に性別を分けるアンヘル種族の中でも、特に稀な、『分化しない者』である。
だがこれは正確な表現ではない。
『分化を止めた者』というのが正直なところだからだ。
僅 かに女性になりかけたまま、彼女の変化は止まっていた。
唯一愛した男の死によって。
人々は、彼女の美貌故 に、この悲劇を惜しみ、大いに同情を寄せた。本人には、煩わしい限りであったが。
魔道に長けたアンヘルでも特異な、魔法を使えない者であった彼女は、分化を止めた為か、僅かな期間で膨大な魔力に目覚め、騎士団に籍を置きながらも、既に魔導士として最高位の、緋色の肩掛けを拝領していた。
また、創造魔法の第一人者としても、名を馳 せており、これは、不慮の事故でこの世を去った、唯一の恋人、緋色の魔導士、キール・セリアンの遺志を継いだのである。
抜きん出たその魔力は、師匠であった今は無き筆頭魔導士をして、『己が控え』と言わしめるほどであった。
その言葉通り、女王のたっての願いにより、次期筆頭魔導士を拝命するに至っている。
初夏のある日、シオン・カイナスの執務室で、彼女は仕事を引き継ぐための、必要な書類を片付けていた。
自分が使う執務室へ、移動させるためである。
書類以外の部屋にあるすべての物は、動かされることは無い。
前筆頭魔導士が、生前使用していたままにここは保たれる。
生涯妻を娶 らず、自宅すら持たず、彼はこの執務室と寝室で生活していた。
軽妙な言動で王宮の人々を困惑させた魔導士は、同時に皆から信頼され愛されていた。
雑役の者は窓辺の鉢植えに水を欠かさないだろう。小者 達はこの部屋に埃を積む事は無い。庭師は、彼が丹精していた花々を枯らさないように苦心するに違いない。
其処此処 に、彼が居た思い出が生きている。
主だけが居ない部屋。
整頓されているのか乱雑なのか判らない書棚には、魔法薬と共に、紅茶の茶葉が壜 に詰められ、もう二度と芳醇 な香りを醸し出す事は無い。
ひょっこり寝室から魔導士が顔を出すような気がして、シルフィスは喉の奥が熱くなる。
「シオン様…本当に、貴方はこれで良かったのですか?」
こらえきれない涙が、一筋頬を伝う。
ふと、不可思議な気配を感じ、部屋の隅に目をやると、其処に一人の子供が立っていた。
金髪碧眼の、アンヘル族の子供。その姿には見覚えが合った。
かつて、メイと共に、ダリスの暗雲を晴らすために旅立った子供である。
17年前と変わらぬその姿。精霊を見る彼女の目は、その子供が人外の者であると看破 する。
「聖樹の聖霊…アリサ、ですね?」
子供は滑るようにシルフィスの前に進むと、おもむろに口を開いた。
「あなたは知っていたんだね。お姉ちゃんとあの人の事…」
いきなりの質問に、驚くことも無く、彼女は微笑んで頷いた。
「何が知りたいのですか?聖樹の聖霊よ、今ならばすべてに答えられると思います」
静かに語りかけると、あらぬ方から声がした。
「ならば、わたくしにも、教えてくださいな」
今度は驚いて目を上げる。
部屋の入り口に、彼女の主君が立っていた。
「女王陛下…!?」
慌てて臣下の礼をとろうとする、騎士上がりの次期筆頭魔導士に、気さくな女王は身振りで止めさせる。
「今日は、メイと三人で親友同士だった頃の、ディアーナに戻らせてください」
扉を閉め、すとんとソファーに座ってしまう。
「さぁ、お話ください、ですわ」
少女の頃の口調で、肩をすくめて見せる。シルフィスはその姿に微笑む。
「はい、姫」
次期筆頭魔導士の返事に、嬉しげに頷いた女王は、きょろきょろと周りを見回した。
「聖樹の聖霊が、お出でですの?」
女王には見えないらしい。
「ここにいるよ…」
言葉と共に、女王の前に、見覚えのある子供の姿が現れる。
「まあ、あなたですのね。お久しゅう、聖樹の精霊様。以前お会いしましたわね。この国の女王、ディアーナですわ」
立ち上がって優雅な礼を見せると、ぼんやりと立つ子供の手を取って、いそいそとソファーに座らせる。そして再び腰を下ろし、シルフィスへ顔を向けた。
「お茶は出せませんが…」
視線に促 されて、詫びを言いつつ向かい合う椅子に座る。
女王は首を振った。
「この部屋で、シオン以外の人が煎 れた紅茶など、飲みたくありませんわ」
手まめな前筆頭魔導士の紅茶は、絶品と賞され、女王の数少ない息抜きであった。
「メイも、これが飲みたかった、と喜んでいましたわね…」
「はい…」
暫くは紅茶を口にできそうに無い、シルフィスは小さな水屋の中に並べられた茶器へ目を遣 った。
「この一年近く、楽しい日々でしたわね。メイとシオンが並んでいると、どうしてあんなに賑やかなんでしょう?」
ダリスの隊列から奪い去るようにして、魔導士が王妃を連れ帰った日。王宮は一気に華やいだのである。
寝室に寝かされた王妃は、起き上がる事も侭 ならぬほどであるにもかかわらず、その威勢と向うっ気はそのままで、前筆頭魔導士との軽口の応酬に、見舞いに訪れた人々から笑い声が絶えることは無かった。
気分の良い日には魔導士に抱えられて庭園を散策する姿が見られ、其処彼処で気さくに声をかけて人々と話をし、時には女王の茶会に列席することもあった、。
軽い口調でからかう前筆頭魔導士を、相変わらずの威勢良さでやり込める王妃の姿が際立って、女王は、夭折 した夫のセイリオスがしていたように、そっと額を押さえている自分に気がついて、苦笑したものである。
「シオンの紅茶とアイシュのケーキ。そしてメイの笑顔…まるで、16年の年月が、無かったかのようでしたわ」
しみじみと語る女王にシルフィスも頷く。
「取り戻していたのですよ、二人は…16年分貯まっているから、幾ら喧嘩してもし足りない。メイは私にそう言っていました。亡くなる前日のことです」
女王の笑みが哀しげに翳 る。自らを嘲るような自嘲の笑みに、次期筆頭魔導士は心が痛む。
「本当に、メイには…いえ、二人には。幾ら謝っても、感謝しても、足りない位ですわ…」
「姫…」
菫色の瞳が、ひたとシルフィスに向けられる。哀しげな微笑はそのままに。
「シルフィス、貴女も色々と聞いていますでしょう?セイルが亡くなった頃のこと」
「あまり詳しくは…私はキールと共に田舎に居ましたから…」
小さな吐息が漏らされた。
「そうでしたわね。貴女もあの頃は大変でしたわね…」
恋人の緋色の魔導士は、事故で受けた傷から、回復することは無かった。
「いいえ、最後の時まで一緒に居れました、満足です」
そう微笑む元騎士は、未婚のまま恋人の家に養女となり、同じ姓を名乗っている。女王が、凛々しい生き方だと以前感心したものである。
かつて、夢を語り合った三人の少女達は、みな初めての恋を全うできなかった。数奇な運命の下で。
再び女王が吐息を漏らした。
「わたくし、どうしても解らないのです。何故、メイはダリスへ嫁いだのでしょう?…いいえ、どうして、と言う方がおかしいですわね。確かにあの時は、本当に大変でしたのよ、わたくしもシオンもそしてクラインも…メイが嫁ぐことで、すべては一気に変わりました」
前皇太子セイリオス・アル・サークリッドが暗殺されたのは、16年前の冬の日である。
シオン・カイナスが手配していた護衛の目を掠め、単身街に出て、兇刃 に倒れたのでだ。
懸命の治療も効を奏さず、数日床に伏して、あっけなくこの世を去った。
皇太子の訃報 を聞いて、元々病弱で、長く病の床にあった国王は、後を追うように崩御 し、唯一残った王族として、末姫のディアーナが女王の地位に就いたのである。
「当時、わたくしを廃嫡して、有力な貴族の子弟と娶 わせ、その人を王位に就けるべきだと言う声が、元老院でも有力でしたの。長いクラインの歴史でも、女王は稀でしたから。私が頼れたのは、シオンだけでしたわ」
「そうだったんですか…」
薄紅色の髪が静かに頷く。
「でも、シオンはセイルを守りきれなかった事で、糾弾を受けていました。それに、皇太子という後ろ盾を失い、政治家としても苦しい立場に追い込まれていましたの」
前筆頭魔導士の叡智 と機転、そして行動力は、元老院の長老連には、危険視されていた。最大の失策をしでかした、この機を逃さずに、彼を排除しようと、糾弾は熾烈 を極めたという。
「シオンはあのまま王宮を追われてしまうのではないかと、寄る辺 も無いわたくしは、自分の未来に震えていましたわ。まだ王位は空位のまま、クラインもまた揺れていたんです」
そんな時、即位を果たし、国を平定した新ダリス国王が、、当時緋色の魔導士であったメイ・フジワラを妻に欲しいと申し込んできたのである。
前ダリス王が、魔法を乱用して国を荒廃させていた当時、単身ダリスへ潜入し、その野望を砕いて国を救った彼女を、新王が見初め、救国の英雄を王妃にと望んだのだ。
彼女が、筆頭魔導士の婚約者であることを承知の上で。
「わたくし、シオンはメイと共に、クラインを捨てると思っていましたわ。ですから、メイを自分の養女にして、ダリスへ嫁がせると聞いた時…シオンを非難してしまいましたの…身を裂かれるような思いをしていたでしょうに…」
メイ・フジワラは、メイ・カイナスとなって、ダリス王に娶 られた。
一介の、素性も定かではない魔導士よりも、クラインの大貴族、カイナス家の傍流 としてのほうが、王に嫁ぐ身分が釣り合う。メイが、身分のことで肩身の狭い思いをすることは無かっただろう。ただ、婚約者を臆面も無く養女にして見せた前筆頭魔導士は、鉄面皮 と囁 かれた。
噂は未だに囁く。眉を顰 め声を落とし、敏腕政治家の数ある汚名の一つとして。
シオン・カイナスは、自分の地位の安定の為、己の女をうまくダリス王に取り入らせた、と…二人の葛藤 がどれほどのものだったのか、噂からは聞こえない。
「シオンは名前だけでも、メイにカイナスを名乗らせていたかったのかしら…とにもかくにも、メイが娘として嫁いだことで、シオンの発言力は格段に強まりましたわ。他国の王の外戚 の父ですが、外交的にも当時のダリスは、王位を空席にしたクラインに比べれば、はるかに強かったのです。元老院も、何も言えなくなりましたわ」
そして、ディアーナを女王に据え、前筆頭魔導士は、存分にその政治的な手腕を発揮した。国内を平定し、貴族たちを束ね、女王を助けて不穏な芽を摘み取っていく。
そこには鋭利な政治家としてのシオン・カイナスが居た。何かに憑 かれたかのように動き続ける男であった。
遊び人のすちゃらか魔導士が戻ってきたのは、10年が過ぎる頃である。
「シオンが居なければ、今ごろどうなっていたか…アークを無事に産む事さえできなかったかも知れません」
兄妹として共に在りながら、セイリオスとディアーナは、何時しか愛し合っていた。
忘れ形見を身篭 ったことを機に、ディアーナはセイリオスの素性を明かし、彼を夫と思い定めて、寡婦 を貫く。
唯一残された一粒種、アークリオス・アル・サークリッドは、先日、無事に立太子の典を済ませている。
現皇太子を全力を持って守護してきたのも、やはりシオン・カイナスであった。
「今クラインが在るのは、すべてメイとシオンのお陰ですわ。でもやはり、解らないんです。あの当時の二人の結びつきを考えると、何故メイがダリスへ行くことを選べたのか、シオンがメイを手放せたわけが…二人で決めた事だと、メイは言いましたわ。だから気にするなと、笑っていましたけど…」
微かに、女王の肩は震えていた。
「やはりわたくしが不甲斐無 かった所為 なんでしょうね、わたくしのため、シオンはクラインを捨てられず、シオンを助けるために、メイはダリスへ行った…」
シルフィスは、傾き始めた陽光が射し込む窓辺へ目を遣った、小柄な体を更に小さくするように俯 く女王を見るのが辛かったから。
「クラインのために、二人を犠牲にしたんですわ…」
「それもあるけど…あたしが頼んだの…来て欲しいって…」
初めてアリサが口を開く。
二人は驚いて、子供へ顔を向けた。
「どうしてですの?アリサ」
菫色 の瞳に見詰められ、翡翠 の瞳に頷かれ、アリサが言葉を続ける。
「あのね、あたし、木としてはとても弱かったの。ダリスには、あたしが育てるだけの力が、地面から消えていたの。あのままだと枯れていたの。だからお姉ちゃんに助けてって言ったの」
聖樹は大地の守護。女神の力が宿る霊木。国を守る礎 の一つでもある。
かつて、ダリスは、この聖樹の大木から大地の魔力を吸い上げ、武器に付加するという魔法を乱用し、国内は荒廃していった。
枯れ果てながらも、倒れることも許されない聖樹の聖霊の望みを受け、その大木を破壊したのは、アリサに導かれたメイ・フジワラ。
これによって前ダリス王の野望は砕かれ、アルムレディンは王位を奪還 できた。
ダリスの大地は、解放だけではなく、更にメイをも望んだのか…
「お姉ちゃんは、毎日いっぱい魔力を注いでくれたよ。あたしはお姉ちゃんの魔力で育てられたの。枯れないで済んだの」
聖樹が枯れるなどというのは、あってはならないことである。どのようなことになるかは、以前のダリスを見れば明らかであろう。聖樹が枯れかけただけで、ダリス国内は荒廃し、天候も乱れ、太陽はその姿をあらわすことは無くなった。
もし、次代の若木すら枯れてしまったとしたら、その影響は、ダリスだけではなく、近隣の国々も平穏なままではいられなかっただろう。
ダリス王妃が、聖樹を守護するという意味が、初めて解った。正に王妃はその膨大な魔力を以って、聖樹の命そのものを守っていたのだ。
「メイは、世界すら守っていたのですね…」
呟く女王にシルフィスが答える。
「ええ、そして、遠く地を隔てたクラインに在りながら、シオン様はそのメイを守り続けてきたのです」
静かな眼差しが次期筆頭魔導士へ向けられる。
「話して下さいませ、貴女のお話を…」
シルフィスは、ちょうど女王の後ろにある、寝室へのドアに目を遣った。
「姫は、魂分けの魔法をご存知ですか?」
不穏な言葉に女王は眉を寄せる。
「それは禁呪です。大変な魔力と命すら使う大魔法だと聞いています…まさか?」
視線は動かさず、シルフィスは頷いた。
「二人は、その魔法を執 り行 っていたのです。メイがダリスに嫁 す前に…二つの魂を解け合わせ、再び二つに分け。その日から、二人は、一つの心臓で繋がったのだそうです。互いの心臓は一つの鼓動を刻みつづけたのだそうです」
死の前日、入れ替わり立ち代り訪れる見舞い客や、メイの家族が立ち去った後、シルフィスは二人に呼ばれたのだ。
治療時間ということで人払いをされているのを気にする弟子に、悪戯 好きな前筆頭魔導士は、酒瓶 を振って、これが今のところの薬だと嘯 く。実は何の治療もしていないのだと言われて、彼女は驚いた。
メイの病には、何の薬も効くはずが無い。なぜなら、メイは病ではなく、命の灯が消えかけているからだ、そしてそれは、自分も同じだと魔導士が微笑む。
二人は同時にこの世を去るのだ。
たとえ二人で納得して、二人で定めた道とはいえ、生木を裂くように別れねばならなかった恋人同士は、最大の禁呪を使って互いの命を重ねた。決して離れぬように。
16年は良く持った方だ、さすがに俺達はしぶといらしい。そういって笑ったのは前筆頭魔導士。
5年持つかな?程度の自信だったそうだ。
それをいい加減だと笑いながら、メイは満足気であった。
シルフィスには、まるで心中のように思え、涙が込み上げた。
寝室から視線を戻し、次期筆頭魔導士は女王に微笑む。
「シオン様と共に居るメイは、本当に嬉しそうで、それを見詰めていらっしゃるシオン様の、あんなに穏やかな微笑みははじめて見ました」
そう、だからこそ、シルフィスは二人の死を実感したのだ。
明るく元気そうに笑っていながら、どこか儚いメイの笑顔。そして、穏やかな眼差しの前筆頭魔導士。二人の瞳から、その特徴であった、強く不敵とも言える命の煌 きが消えていた。ただ穏やかに、まるで月を映す湖水の面 のように、静かな光が湛 えられている。
シルフィスは何も言えず、ただ涙するだけであった。
そんな弟子に、魔導士が困ったように肩を竦める。
長年連れ添った夫婦でも、せーので同時に死ぬなんてできるはずが無い。こうなってむしろ嬉しいと、ダリス王妃ではなく、メイ・フジワラが笑う。
どんなに隔たっていても、二人は一つの鼓動の下、常に一緒だったのだから、悔いは無い。自分の使命も終わった、今は二人で居る、これで満足だと。
誰に言うつもりも無かったが、シルフィスには知っておいて欲しかった。できればディアーナにも話してくれると助かる。直接言うのは辛いから。
親友に向ける最大の信頼を受けて、シルフィスは臨終の場に臨 んだ。
ダリス王妃が、魔導士を見て『行こうか?』と言った時、彼が柔らかな笑みで幽かに頷いたのを、たった一人の弟子だけは見守っていた。涙に霞む翡翠の瞳で、自分だけはシオン・カイナスの最後を看取 ろうと。
二人の言葉が思い出された。
『アルムには、悪い事したと思うわ。実際ひどい話よね。16年だまくらかしたのよ。心の中に別の男抱えたままで、いい奥さんの振りなんてしてさ…メイ・カイナス・ダリスは、精一杯自分の人生を生きたわ家族を愛し国を愛し…でもね、あたしはシオンの傍に本当の自分を置いていったの。アルムが知っている奥さんは、本当のあたしじゃないの』
心を偽らないメイの表情は穏やかだった。
魔導士がにやりと笑う。
『当たり前だろう、でなけりゃ、目の前で、何時までも意地汚くお前さんの手を握り続けているあの男を、俺が笑って許す訳無いぜ』
ダリス国王は、妻の容態が悪化したとの知らせに、政務を放り出して先日からクラインに来国していた。そして、一日の大半を、妻の下で手を握って励まし続けている。
鴛鴦夫婦 として、近隣に聞こえた風評通り、実に仲睦まじい様子だが、そんな王の直向 な姿を道化にすることで、魔導士の精神は保たれていたのかもしれない。
焼きもち焼きだと笑うメイに、渋い顔をしてみせる魔導士が、少しだけ琥珀 の瞳にまじめな光を宿す。
『シルフィス、一つ頼まれてくれないか?俺達が死んだら、あいつはメイの体をダリスに連れて帰ると思う。まあ、どーせ死んじまっているんだから、どこに埋められようとどうでも良いんだがな、できれば、俺の髪を一房なりと、こいつの棺桶 に入れてやってくれないか?』
そうすれば、おっちょこちょいのメイの魂が、うっかり体に付いて行ってしまっても、戻ってくるとき迷子にならずに済むだろう。茶化して締めくくり、当の本人から、馬鹿にするなと文句と枕が飛んでくるのを、魔導士は嬉しそうに受け止めていた。
死ぬなどといいながら、そんな様子は欠片も見せない二人の掛け合いに、シルフィスもまた笑いながら、新たな涙が込み上げてきた。
「シオン様の遺言を、実行できそうになくて、本当にどうしようかと思いました」
ダリス王は、王妃の遺体を神殿に安置しようとはしなかった。シオン・カイナスの隣に並べるのが業腹 だったのである。
そして、片時も妻の傍を離れず、悲嘆 に暮れる姿は、近習 の涙を誘った。
王の心を乱すまいとする近習達によって、たとえ友人といえども棺に近寄ることは侭ならず、シルフィスは遺言を守れない事を、幾度も魔導士の遺体に詫 びた。
「王様はね、自分とずっと一緒に居てもらうつもりだったの。お姉ちゃんを、あの人のそばに置いていきたくなかったの」
アリサがぼそりと呟く。二人は頷いた。夫としての気持ちならば、当然だろう。養父とはいえ、元々は婚約者であった男と共に、自分の妻を並べるなど、心穏やかな筈が無い。
「ダリス王を止めてくれたのは貴女ですね?アリサ」
奇態な現象を思い出して、女王が言う。
金色の頭がこくんと揺れる。
「お姉ちゃんが、あたしに頼んだたった一つのことだったから。王様とてもお姉ちゃんを愛してた。あの人をすごく嫌ってた。でもね、やっと解ってくれたよ。もう離しちゃいけないんだってこと。お姉ちゃんがお月様を見れないって言ったら、解ってくれたよ」
「お月様を見れない?どういう事ですの?」
女王には不思議だった。メイは殊 のほか月夜を好んでいたからだ。時折ベランダや庭園で、月を愛でる二人を見かけたものである。
魔導士とグラスを傾け、月見酒に誘われたこともしばしばであった。
そのメイが、月を見れない、などということがあるのだろうか?
「あのね、ダリスに居た時、お姉ちゃんは絶対お月様を見なかったの。月の光は嫌だって、蒼い蒼い月の光を見ると、死にそうになるって」
二人は初めて、ダリス王妃のいや、メイの涙を見た気がした。明るく強い笑顔の陰の、意外な脆 さを見た気がした。
胸を押さえて俯 いた二人に、真摯 な光を湛えた新緑の瞳が向けられる。
「あたし、お姉ちゃんが本当に幸せだったのか知りたいの。お姉ちゃんは何時 も、幸せだよってあたしに言ってくれたけど、本当に好きな人と離されて、愛している人と別れて、本当に幸せだったのか、あたしには解らないの…」
奇妙な光景であった。
本来ならば、人の生死や感情など、かかわりもしない筈の聖霊が、一人の女性の幸福を案じている。
しかし、二人は自然に受け止めていた。
アリサもまた、メイの子供であるのだ、メイの魔力と愛情によって育てられた子供は、母親が本当に幸福だったのか案じている。自分の所為で、不幸な人生を送ったのではないかと怯 えている。
女王はそんなアリサに、柔らかな微笑で見詰め返した。
「わたくしは、メイが幸せだったと思いますわ」
「はい、私もそう思います」
子供はかすかに首を傾ける。
「本当?」
女王はしっかりと頷いて見せた。
「ええ、メイは、貴女や家族やダリスの国民から愛され、そして、メイもまた、精一杯の愛情で答えていたのです。これは何よりも強い絆です。彼女の愛に、嘘偽りは無かったでしょう。昔からそういう人でした。そして、彼女の中にはシオンの愛が、揺ぎ無く常にありました。こんなにも愛に包まれた人が、不幸であった筈がありません。わたくしには、稀に見るほど幸福な人生だったと思えますわ」
きっぱりと言い切る女王に、子供は少し安心したように表情を和らげる。
「そうなんだ…幸せだったんだ」
「ええ、そうです。それに、私達から言わせれば、愛する人と同時に天に召 されるなんて、幸せ以外の何ものでもないんですよ」
冗談めかした次期筆頭魔導士の言葉に、
寡婦 である女王はまったくだと頷く。
「本当にそうですわ。羨 ましい位です。さすがはシオン。女心の押さえどころを、心得てますわね」
初めて、執務室に笑い声が漏れた。
明るく笑う二人の前から、聖霊の姿が薄れていく。
最後に光の残滓 が、『ありがとう』と言った気がした。
太陽は西の尾根に沈み始めている。
初夏の黄昏 は、まだ暫く闇をもたらしはしないだろう。
女王と次期筆頭魔導士は、静かな墓地の小道を歩いていた。
少女の頃に戻って二人きりのお忍びである。
思い出を語り合いながら、緩やかな丘を登る。
シオン・カイナスとその養女の墓は、王家の墓所に程近い丘の向うにある。
「シルフィス…わたくしは、メイは幸せであったと信じていますけれど。シオンはどうだったのでしょうね?それだけが気がかりなんですのよ」
不意に漏らされた呟きに、シルフィスは肩を竦める。
国に尽力し、無私の人生を送った男を、どう表して良いか解らなかった。
「さあ、本心は微塵 も見せないお人でしたから。常に飄々 と、風のように駆け去った…そんなお人でしたね」
シオン・カイナスを表すには、捉 えどころの無い言葉しか浮かんでこない。
「でも、あの方の口癖は『結果オーライ』でしたから…何事も結果を出してから評価に値する。この結果は、満足のいくものだったのではないでしょうか?」
金髪の元騎士の言葉に薄紅色の髪が揺れる。
「そうですわね…シオンのお陰で、クラインは平和になりました。昔のような表面だけの取り繕 いでは無く、本当に平和に…かつて、セイルとシオンが夢見た理想を、現実のものとして、わたくし達に残してくれたのですもの…そして、シオンはメイと眠っている…もう離れることは無いのです」
菫色の瞳には穏やかで明るい光が宿っていた。
「残った者にとやかく言われるのを、シオンは好まないでしょうね、結果を見てくれ。シオンならそう言うでしょうから…やはり、幸せだったのだと思いますわ…」
「はい…」
女王はくすりと笑う。
「キールがいたら、何と言ったでしょうね?」
不意の名前に、シルフィスは微笑む。
「相変わらずのロマンチストだと、きっと言うと思います」
そう答えて、笑みを含んだ視線を空へ向けた。
木立を抜け、黄昏の空が広がる。
「母上、シイル?」
不意に頂から声が掛けられ、顔を上げた二人は、思わず息を飲んだ。
空色の髪の皇太子が、純白の衣を纏 って嬉しげに手を振っている。その後ろには、落ち着いた色合いの衣を纏った、夜空色の髪が並ぶ。
16年の歳月が霧散 する。
並び立つ二つの空の色。紫水晶 の瞳と琥珀 の瞳。
咽の奥に熱いものが込み上げた。
同じように目頭を押さえた女王の下へ、純白の皇太子が駆け寄ってくる。
「母上、どうなさったのです?こんなところに二人きりで」
呪縛 は解け、純白の皇太子は女王の世継 ぎとなって微笑んだ。
「アーク…貴方こそどうしてここに?またお忍びですか?」
母の顔に戻って、女王が言うと、空色の皇太子は首を竦 めて見せた。
「私はお墓参りです。ちゃんとガゼル達を入り口にまたせていますよ。母上達こそ、お忍びではないのですか?」
言い返されて、今度は女王が肩を竦める。
二人は裏側からこっそり入ってきたのだ。
「しょうがないですわ、みんなには内緒にしてくださいませね。でも、何で今日、お墓参りなど?おばあ様の命日も、まだ先だったでしょう?」
皇太子が丘の上を振り返る。夜空色の少年が、屈託の無い笑顔で手を振ってくる。その面差しは、亡きダリス王妃に良く似ていた。
「アスターが、どうしても今日、母君の墓参りをするのだと言うので、一緒に来ました。なんでも、聖樹の聖霊を見たからと。私も、父上のお墓に参ってきたところです」
幼い頃から強い魔力を持った、ダリスの皇太子が、これから二年間、魔法研究院で空色の髪の皇太子と共に魔法を学ぶ事になったのを、次期筆頭魔導士は漸 く思い出す。
母を見舞いに、ダリス皇太子は頻繁 にクラインを訪れていた。同い年の皇太子達は、その間に親睦を深め、打ち解け合っているようだ。
「そうですの、わたくし達はこれからですわ。メイとシオン、それにセイルと、ゆっくりお話しましょう」
母の言葉に微笑んで、皇太子は優雅な礼をしてみせる。
「では、私はこれにて」
踵 を返して丘を駆け登る。丘の上で同じように礼をして見せた夜空色の皇太子は、駆け戻ってきた友人と共に、走り出す。
黄昏の空に、少年らしい笑い声が響いた。
二人が友人から親友と呼び名を変えるのも、そう遠い日ではないだろう。
空色と夜空色の髪が、再び並び立つ。
声も無く立ち竦んでいた次期筆頭魔導士は、頬を一筋涙が伝っているのに気がついた。
指でそれを拭 い、女王の微笑みに顔を赤らめる。
「驚きました。あんな風にお二人で並ばれると、思っていた以上です…」
「わたくしも、二人を並べて見る都度に、心が揺れますわ」
懐かしい光景を見た感動に、懸念 が影を射す。
「ダリス王は、お気づきなのでしょうか?」
女王はそっと首を振った。
「余計な詮索 は止めておきましょう。母の死も乗り越えられる強い少年です。あの屈託の無い笑顔は、メイとアルムレディン様が育 んだものです。どんなことがあっても、乗り越えていくでしよう。わたくし達は見守るほかありませんわ。何事も、結果でしてよ、シルフィス」
では、二つの空の色はクラインの中から出て、より大きな世界で再び並び立つのだ。クラインとダリスという国となって。
「さあ、早く参りましょう。メイ達が待ちくたびれていますわよ」
明るい声音に促され、シルフィスは微笑んで歩き出した。
黄昏はやがて夜の帳 にその席を譲る。
太陽は夜の腕の中で憩 うのだ。
その笑顔を太陽に喩 えられた女性が、夜空色の髪の魔導士の腕の中で、眠り続けるように。
終劇