FUTURE
AM:9:37
「うーん…キール様々よねぇ…」
参考書に首を突っ込みながら、姉が唸る。
「感謝しないとね、姉貴」
理由は何度も聞いているから、僕はそれだけ言ってやる。
「当時は感謝どころじゃなかったけどねぇ…」
僕にとっては5ヶ月前。姉にとっては2年前の日々を懐かしむように、しみじみとした声を出す。
「あの時は、本気であいつが憎かった…」
姉の呟きに、ついつい苦笑が漏れる。
『クライン』という妙な国の話は、ここ3ヶ月で何度も聞かされた。
召還魔法の失敗で、姉がその世界に引き込まれた事。そして、そこで2年間暮らしたこと。その世界での生活や友達の事。
耳タコもいいところだけれど、その思い出だけが、今の姉を支えているのが痛いほど判るから、僕は唯々諾々と聞き役に甘んじる。
2年分の鬱憤を、今解消している。と、姉は言う。
いつも前向きで、弱音なんか吐かない人だけれど、僕は姉の不平不満の捌け口らしく、昔から山のように愚痴を聞かされ続けている。
姉の愚痴は、一人漫才みたいで、見ていて面白いし、飽きない。まぁ、僕が慣らされただけかも知れないけど…
「でね、あいつってば、何かというと、よっぽど暇なんだな、とか、そんなに暇なら課題を増やそう、とかって言うわけよ竜( 聞いてる?」)
『竜』と書いて『とおる』と読む僕の名前を、姉は更に『とーる』と伸ばす。昔からの癖。
「ああ」
「あんときゃマジで、脳みそ破裂して死ぬって思ったわよ」
コーヒーの入ったマグカップを掴んで、少し冷めた中身を呷る。
飲み干して息をつくと、ゆっくり首を振った。
「でも、英才教育受けてたのねぇ…理数系は完璧に苦手だったのに。今じゃこの参考書、全部解るもの」
だから、終り。と参考書を閉じる。
確かに、僕が適当に選んだ問題は、全て解かれていた。
姉の話だと、『クライン』の教育機関の最高峰に属する場所で、秀才と名高い青年の保護下に置かれて、教育を受けていたのだそうだ。
そこでは『魔法』を学んでいたというが、どうやらその魔法というもののベースには、理数系の知識が不可欠らしい。
秀才の組んだカリキュラムによって、短期間でかなりの腕前になったと胸を張る姉は、実際、僕の怪我を瞬時に治して見せてくれた。
あれで、姉の話を信じることにしたんだった…
5ヶ月前、学校からの帰り、姉は行方を絶った。
それまでさしたる問題を起こした事の無い、極々普通の女子高生の失踪は、周囲を大きく動揺させた。
誘拐?犯罪に巻き込まれた?ストーカーの犯行?それとも突発的な家出か?
折りしも9年ぶりに保護された、誘拐監禁の被害者等が報道され、姉の事件もマスコミの格好の題材となったのだが、その行方はまったく掴めなかった。
唯一の目撃者は5才の幼児で、その子の言葉は尽( く無視された。)
道で偶然、声高に主張する子供の声を聞いた僕は、藁( にも縋) ( る想いでその子に話を聞いてみた。)
「あのね、キーンっておとがして、ビューってかぜがふいたの。そうしたら、みちをあるいていたおねぇちゃんが、ぴかぴかひかりながら、ぱっときえちゃったの… うそじゃないんだよ。ほんとうなんだよ」
親に嘘をつくなとでも言われたのか、悔し涙にくれて、発言の信憑性を訴える子供に、『信じるよ』と言ってやりながら、正直落胆した。
所詮子供の妄想かと、『手掛かりリスト』から切り捨てようとして、何故だか心に引っかかる物を感じていた。
そして、それから2ヶ月後。姉は突然帰ってきた。
今度の目撃者は派手に居た。
なにしろ、姉が現れたのは月曜日の朝の校庭。学校へなだれ込む人波の間に、突然旋風と閃光が巻き起こり、それらが去った後に、姉が倒れていた。
僕がその場に居合わせたのは、どんな偶然が働いたからなんだろう?
姉は、奇妙な黒いロングコートを身に付け(魔導士のローブだと後で教えられた)、深く蒼い髪の毛のような束を握り締めていた。両手でしっかりと、長いそれを決して離すまいとするように…
その後の騒動は大変だった。
異常な出現は、学校の中だけに収まらず、姉も家族も、マスコミや世間の注目を浴びて疲労困憊した。
…本当に、思い出したくも無い日々だった。
AM:9:42
「さぁてと…お花さん達のご機嫌は如何?」
小さなバケツに園芸セットを詰め込んで、姉は鼻歌を歌いつつ庭に下りる。
「あんまりしゃがみっぱなしはダメだよ」
僕の小言は何処吹く風、『ほいほーい』とか言いながら、よたよたと歩いていく。この暑いのに、昨日も貧血起こしたくせに、どうしてあそこまで元気なんだ?あの人は。
「こっちが終ったら、例の勉強しましょ♪」
「うん、わかった。あ、帽子被るんだよ」
「っとにうっさい男ねぇ…」
「かーさんかんら、頼まれてますから」
最近の決め台詞。これに姉は弱い。言われた通りに麦藁帽子を被り、口の中で『可愛くなくなった』とか、『キールみたいだ』とか、『キールとトールは一字違い』とかぶつぶつ言いながら花壇に向かう。
失踪前の姉は、ガーデニングなんかには縁の無い人だった。万事豪快で大雑把。花瓶の花がそのままドライフラワーになる事もしばしばで、花より団子が何より似合う…
ああ、あんな身体でまたべったりと地面に座って…
「姉貴。ちゃんと椅子使えよ。冷やすぞ」
「う〜〜〜」
唸ってどうするの、まったく…この人は。
しぶしぶ立ち上がる背中と腰で、蒼い色が揺れる。
姉は、帰還の時握り締めていたそれを二つに分けて、ベルトと付け髪に加工した。肌身離さず身に付けておく為に。
目も覚めるような紺紫の糸の束。いや、触ってみたら、間違いなく髪の毛だった。この世にあるはずの無い色の髪は、触るとぴりぴりと妙な圧力を感じる。
僕の感想に、姉は目を瞠( って驚いていた。)
曰く、
「アイツの魔力を感じるとは、さすがあたしの弟」
何の事だか…
AM:10:19
夏の日曜日の午後なんて、買い物に行く気がしない。
僕は人ごみが嫌いだ。
だから午前中に買出しに行こう、って姉は言う。
静かな街は好きだから異存はない。荷物もちの宿命も吝かではないしね。
それよりも、外に出掛ける、姉の勇気と強さを尊重したい。
外に出れば、閑散とした住宅街。
でもね、其処此処の庭や窓から、何となく視線を感じる。
角を曲がると、井戸端会議の奥様連中が、僕達をちらちらと盗み見る。
『ほら、あの子』『よく平気ねぇ』『可哀相に…』
好き勝手な言葉が聞こえる。僕が緊張する一瞬。
姉は僕の手を握って、にっこり笑う。そうだね、恥じる事など何もしていない。
本当は睨み付けてやりたいけど、言葉に反応する事こそ、相手の思うつぼってのが、この頃判ってきた。
だから無視。
マタニティドレスに蒼いベルトを揺らして、姉は真っ直ぐ歩いていく。いつも強さに舌を巻く。
あの時もそうだった…
たった2ヶ月の失踪にも関わらず、姉は妊娠していた、それも、5ヶ月目だという。
家の中にも嵐が吹き荒れた。
普段穏やかな父が、激昂して相手の男を問い詰め、姉は何の躊躇もなく、異世界で結婚したと言い放った。
国を挙げて祝福され、その世界の神の前で永遠を誓ったのだと。
誰に恥じる事のない、祝福された子供を授かったのだと。
蒼い髪の束を見せ、子供の父親が、自分達の為に断ち切った、絆の証だと訴えた。
初めは誰も信じなかった。そう、僕でさえ。
しかし、姉は毅然としていた。
その姿は、子供を守ろうとする母親の気概に他ならず、どんな誹謗中傷( も、姉の矜持) ( を傷つける事はなかった。)
男と駆け落ちをしていた娘が戻ってきた。不本意な噂を立てられ、姉は結局、学校を退学し、大検を目指し始めた。
常に前向きに、姉は決して怯まない。
最初に折れたのは母だった。自分の娘を信じると、母は言った。
次に、僕。最後にようやく父が納得した時。
姉は初めて泣いた。
理解され、孤独を癒されて…
喜びの涙が、悲しみに変わるのは、すぐだったけど…
PM:0:11
午前中は正解だよね、僕等は買出しも順調、ついでに軽く食事も出来た。
込み始めた街を早々に引き上げて、帰りに桃を買った。
母の好物。
姉は早速盆に盛って、仏壇へ供える。
チーンと鐘が鳴る。
「父さん母さん、桃どーぞ」
姉の声が仏間から聞こえてきて、僕はちょっと笑う。
こんな風に、軽くお参りができるようになるのに、一月かかった。
まだ四十九日も済んでいないから、お互いかなり空元気なのは、自覚しているけどね。
僕達を理解し、包んでくれた両親は、もう居ない。
1月前、両親の乗った車は、トラックの横転事故に巻き込まれ、大破した。
初孫の為に、あれこれと買い揃えたベビーグッズが、事故現場に散乱していたと聞く。
父は即死。病院で、瀕死の母は僕達の手を握って、姉に子供を大切にしろと言った。そして僕には、姉を守れと言った…
必死で治癒の呪文を唱える姉の行為も空しく、母は息を引き取った。
変わり果てた姿で帰宅した遺体を前に、僕は初めて、姉が打ちのめされた姿を見た。もっとも、僕も姉と同じくらい落ち込んでいたけれど…
あの時の、姉の悲嘆の呟きを、僕は一生忘れられないと思う。
「アリサ…還してよ…シオン…無くなっちゃったよ…シオン……」
あの蒼い髪の束を抱きしめて、姉は一晩泣きつづけた。
母の遺言だけじゃなく、嘆く姉の背を擦りながら、僕は姉のナイトになろうと誓った。
姉が待つ、子供の父親。シオン・カイナスが迎えに来るまで。姉は僕が守る。
もしかしたら、一生来ないかも知れない。
それでも良い。
姉が笑えるなら、どんなに虚しく聞こえても、彼が来るまでがんばろう、と言い続ける。そして、絶対に姉に辛い想いなんてさせない…
だから、僕も大検を目指す事にした。
僕はたった14の餓鬼だけど、幸い早生まれだから、来年には中学を卒業できる。そうしたらすぐに大検を受けよう。そして、早く大人になる道を掴むんだ・…
「竜( 、どしたの?」)
あ、びっくりした。
「なに?」
「な〜に黄昏てるのかなぁって思って、いかんな〜若者は元気でいなくちゃ」
人が心の中で密かに決意表明していたのに…いいんだ。こういうのには慣れてる…
「でさ、コーヒー二つお願い。恵子が来たのよ」
「僕は喫茶店のマスターかい?」
PM:1:25
あの事件の後でも、変わらずに気遣ってくれる親友は、日曜日には必ずやってくる。彼氏は居ないの?と聞いたら、ジト目で睨まれた。
この家が、華やかになるひと時。
女同士の笑い声は、昔は煩いだけだったけど、この頃は心地良いものだと思う。姉にそう言ったら、心底心配そうな顔で『シオン入ってるわ』と言われた、髪の毛 に触ったから、影響されたのか?だって…逢った事もない人にどうやって影響受けるんだろう。いったいシオンってどんな奴なんだ?
「へい、喫茶フジワラのコーヒーお待ち」
コーヒーにお茶請けを持っていく。いいようにこき使われている気もするけれど、喜ばれれば悪い気はしない。
「んーリュー君のコーヒーは美味しいわ」
「よね、ネスカフェ入れさしたら天下一品よ」
誉めてるんだろうか…?
何となく自分のマグを持って、会話に加わる。以前ではありえない習慣。僕もこなれてきたって事かな?
彼女は学校の事や、最近の出来事をとりとめも無く話す。そこで、いらない話も出る。
「リュー君聞いたわよ」
「何?」
「告白( った女の子、思いっきり振ったんですって?」)
うっく…
「何それ、竜( ほんと?」)
理由はあるんだよ、ちゃんと。
「なんだか、完膚なきまでの振り方だったらしいじゃん。妹から聞いたのよ」
恵子の妹は、僕の同級生だ、口が軽い奴で困る。
「学校じゃあ、すっかりシスコンが昂じてるっていう噂でしょう?」
にやにや笑いながら迫ってくるなよ。姉は呆れかえっているし…
「あんたねぇ…あたしの事ばっかで、彼女作らない気なの?」
なんか険悪だなぁ…
「違うって…腹が立ったんだよ」
説明すりゃ良いんだろ?
「可愛い子だったよ、けどね、相手の名前もちゃんと呼べない奴とは、付き合いたくないってだけだよ」
「名前?」
「僕の名前。友達は訓読みでリューっつーだろ、恵子みたいにさ。でも、フジワラリュー君なんて、初対面の奴に言われたくないよ。しかも、告白ってる時にだぜ。 こんな失礼って無いだろう?だから、ちゃんと名前を調べてから来いって言ってやったんだよ」
みろ、ちゃんとした理由じゃないか。
恵子はなんともいえない顔をした。
「なるほど…」
「僕だってね、ちゃんと『藤原 竜( くん、付き合ってください』って言われたら、どうしようかなぁって思うさ。」)
本当は、そんな余裕無いけど…こうでも言わなきゃ女二人は納得しない。
「僕の事より、恵子はどうなんだよ。最近、モテてるらしいじゃん」
切り返すと、恵子はぽっと赤くなった、すかさず姉が食いつく。
「何何何何?そーなの、恵子?」
渋い顔でため息をつく親友に、姉がワクワクと迫る。
「モテてるって程じゃないけど・…いないのよねぇ、あたしの眼鏡に適うような男がさ」
「あんた昔から理想高いもんねぇ」
「そうよ、タッパは高めで、顔も良くて、金持ってて優しい人。どっかにいないかなぁ」
乙女のタメイキってやつらしいけど、手前勝手なセリフに呆れかえる。
「いるのか?そんな男」
僕の突っ込みなんて何処吹く風だ。
「あたし最近、芽衣の旦那みてから決めようかと思ってるくらいよ」
姉と恵子は、よくシオンについて話しているから、彼の事が自然に出てくる。
「超美形なんでしょう?タッパもあってさ」
「まぁねぇ顔はいいわよ」
「性格悪いのよねぇ」
「激悪よぉ」
「女入れ食いだったんですって?」
「そうそう、もう、別れ話の現場に、何度出っくわしたか判んないわよ」
…シオンって…
「でも、王子様には忠義ものなんでしょ?」
「うんうん、殿下が一番で、惚れた女も二番目にする奴よ」
「そうよねぇ。王子様を光にしたいから、自分が闇になるなんてお約束な事してるのよねぇ」
「…ちょっと待ってよ、あたしそこまであんたに話した覚えないわよ」
姉が眉を寄せる。
恵子はにやりと笑った。
「教えてもらったのよ、あんたに。ついでに惚気も思いっきり。ご馳走様でした」
「なにそれ?」
点目になってる僕らを尻目に、恵子は自分の鞄から封筒を取り出した。桜色の封筒を見た途端、姉が飛び上がった。
「何でそれをあんたが持ってるの!?」
「知らないわよ。おととい届いたの。あ、切手貼ってなかったから、あたしが代金払ったわ、後で頂戴ね」
言いながら、中から便箋を取り出す。桜色のものと、白いものの二種類。
「これ、あんたが向こうで書いたものでしょう?」
桜色の便箋を広げる。姉の字が、ぎっしり書き込まれている。
ぼんやりとそれを見ながら、姉が頷く。
「うん…向こうで、どうせ届かないって思ってたから、好きなだけ書いたのよ…なんで届いてるのよ」
「さぁ…でもさ、理由はこっちに書かれていると思うわよ」
恵子が白い便箋を差し出した。
広げてみると、アルファベットとは違う、奇妙な文字が、几帳面な線で綴られている。僕も最近、姉から習い始めた、クラインの文字だ。
「これ…キールの字だわ…」
あっちでの姉の保護者。緋色の魔導士。
三枚綴りの便箋は、最後に妙な魔方陣が書き込まれている。そこからも、不思議な圧力を感じる。魔力の篭った本物って事なんだろう、きっと。
「何が書いてあるの?教えて」
恵子に促され、姉は読み上げ始める。
(メイ。
この手紙は、お前が残していった物だ。だからきっと、そっちに届くと思う。
微かな望みだが、俺達には他に術が無い。
俺達は、お前を取り戻す方法を探している。
シオン様は、アリサの願いにより、『女神の宝玉( 』というものを捜す旅にでている。雲を掴むような探し物だが、あの人ならやり通すと、お前も判っているはずだ。)
信じて待て。
俺はアンヘルの村で、創造魔法に取り組んでいる。完成させれば、少しでもシオン様の助けになるはずだ。
みんなは元気だ、安心しろ。
お前の身体は、子供がいる分、魔力的に不安定になっている筈だ、おそらくかなり辛いと思う。
シオン様も子供が内包する魔力と、お前の魔力の相乗効果で、そっちの世界との折り合いが苦しくなるはずだと予見していた。
今のところは、あの人の髪によって、保護されていると思うが、一応、周囲との魔力安定の補助魔法の呪文を書いておく。
魔方陣も送るから、それを使うといい。
出産の時も役に立つと思う。できればそっちで、お前の他にも呪文を唱えられるものが居れば良いのだが、まあ、無理だろう。
せめて準備として、魔方陣でシオン様の髪の魔力を上げておけ。
お前に何度も教えたように、魔法とは、強い意志が基本だ。
今は生き抜く事。子供を守る事だけ考えろ。
他の事は俺達やシオン様に任せておけ。
この手紙が、お前の手元に届く事を切に願う。
また、会う日まで。 キール・セリアン)「キール…」
呟いて、姉は俯いたまま動かない。
肩が震えているのが解る。僕も恵子も、何も言えない。
恵子はそっと姉を抱きしめた。途端に、姉が激しくしゃくりあげる。
誰も、諦めていない。それが伝えられた。
姉は孤独じゃない。こんなにうれしい事は無い。
几帳面で無愛想な手紙に込められた、優しい心。
この3ヶ月の苦労が、全て報われる気がした。
PM:4:56
落ち着いた姉が、キールが送ってくれた補助魔法呪文を唱える。
手を翳した魔方陣がぼんやりとした光を放ち始めた。
僕と恵子は、じっとその姿を見詰める。
呪文の詠唱が終った。
魔方陣の光が、ふんわりと姉を包み、そして染み込むように消えていく。
ほうっとため息をついた姉の顔色が、今までに無いくらい良くなっている。最近貧血が多いから、心配していたんだ。
「うーん、魔法って面白いわねぇ」
恵子が唸る。僕が頷くと、姉は呪文を綴った便箋を振りながら笑った。
「えへへへ、またまた、キール様々ね」
本当に良い人だと僕も思う。
「あれ? 追伸?」
手紙を読み返していた姉が首を傾げる。
「お前の書いた便箋の裏を見ろ?」
桜色の便箋をひっくり返す。
そこには、キールの文字とは違う、大胆で流麗な文字が書かれていた。
暫し凝視。
「あんの、すちゃらか魔導士!!」
姉が吼える。
床に叩きつけられた便箋を拾い、文字を見ると、僕にも読める字だった。
『悪いな、メイは還さない。そのかわり、泣くほど幸せにしているから安心しな。 シオン・カイナス』
僕は、義理の兄の性格が掴めたような気がした。
PM:8:21
何時ものように、恵子は夕食を食べてから帰っていく。
彼女がもたらした思わぬ知らせで、姉も僕もすっかり浮かれていた。
でも、恵子が帰ってしまうと、やっぱり少し寂しい。
気を取り直して、何時もの勉強を始める。
キールは呪文を唱えられる者が居れば良いと言った。
僕は最近、姉から、クラインの文字と、治癒魔法を習い始めている。
まだまだ、つっかえつっかえ呪文を復唱する程度だけど、臨月まではあと2ヶ月あるから、きっと何とかなるだろう。
文字の教本は、今まで姉が書いた文章だったけど、今回はキールの呪文も加わって、かなり進む。
かならず、これを唱えられるようになろう。
僕はもう一度、心の中で決意した。
でなければ、姉は……
PM:11:20
もう寝なくちゃ…そう思って横になる。
でも、実のところは良く眠れない。
来週、弁護士が来て、両親が残した会社の権利や、財産分与とそれに纏わる法律関係の話を聞くことになっている。
さっぱり解らないけれど、通らないといけない道らしい。
体が弱りかけている姉を、ややこしい事で煩わせたくないから、僕だけで聞くことにしている。
どうして良いか判らないけれど、やって行くしかないんだろうな…
水でも飲もうと、部屋を出る。
姉の部屋の前を通りかかると、声が聞こえた。
「シオン…あんた、どうやってあの手紙読んだのよ。内容解んないと書けないわよねぇ、あんな言葉。油断も隙もありゃしない」
きっとあの髪の毛に向って話し掛けているんだろう。毎晩の姉の日課だ。
「シオン…今、どのあたり歩いてるの?浮気なんかしてないでしょうね。許さないわよ」
声は段々か細くなる。
「会いたいよ…早く来てよ…待つしか出来ないなんて、らしくないから辛いよ…シオン…」
僕は急いでドアから離れる。
もう、聞いていちゃ駄目だ。
姉の弱音は、あの髪の毛だけが聞いて良いものだと思っている。
僕が聞いては駄目なんだ。そんな事をしたら、僕が挫けてしまう。
姉と、子供を支える為に、僕はちゃんと立って、姉の強さを信じるべきなんだ。
そう、信じなければいけない…
∀
夕日の墓地。
藤原家の墓の前に、僕は立つ。
毎年の行事。
傍には小さな少年がいて、その子が花を添えるのを見ている。
後ろで微かな音がして、振り向くと、そこに一人の男が立っていた。
肩までの深く蒼い髪。すらりと背の高い身体には、中世風の奇妙な衣装を纏っている。
夕日に照らされた顔は、驚くほど整っていて、僕の傍に居る子供とよく似ていた。
僕は彼に向き直る。
「シオン・カイナス?」
名前を呼ぶと、ゆっくりと頷く。ゆったりと、威厳に満ちた動きで近寄りながら、彼の顔には不安の影が差している。
「メイは?」
第一声が姉の名前。
彼の心が嬉しくて、皮肉な運命が悲しくて、僕は眉を寄せる。
「10年です。貴方は遅かった…」
告げたくは無い事実。
少年を促して墓の前を空ける。
男は崩れるように跪いた。
「メイ……」
彼の様子を、静かに見る。
年は僕と近そうだ、25〜6と言ったところか?
本当は10以上離れていると聞いていたし、髪の長さを見れば、向こうの時間がそんなに過ぎていないことが解る。
彼は精一杯急いで来たのだ。
しかし、異世界の時間は不安定で、これは偶然がもたらした皮肉…
「姉は、この子を産む為に、魔力と生命力、全てを使い切りました。命懸けで、この子を守りました…」
聞こえているとは思うけれど、彼は動かない。
「キールの魔法もかなり役には立ってくれたんですが、やはり不安定な状態は、姉には辛かったようです。僕は何の役にも立たなかった…申し訳ありません」
「叔父さん…」
少年が僕を見る。頭を撫ぜてやると、少し安心したようだ。
「それが、俺の子か?」
跪いたまま、男が呟く。
夕闇に融けるように、彼が動いた。ゆっくりと振り向き。少年を見詰める。涙は流していなかった、しかし、その目には絶望の影が懸かっている。
「藤原紫苑です。姉がつけた名前は、アスター・カイナス」
僕は、淡々と告げられる自分に内心驚いていた。
この10年、彼が現れたら言ってやりたい事が山のようにあったのに、もう、どうでも良い。
「僕の役目は、この子を守る事…その役目もどうやら終わりですね」
彼が、僕の顔を見る。
「勿論、つれて帰る」
僕は少年を見る。
「紫苑、お父さんだよ…」
少年の琥珀の瞳に、何か期待に満ちた色が浮かび、おずおずと男を見る。
「この子には、いつも言い聞かせていました。いつか、父親が迎えに来ると…」
「…抱いていいか?」
僕の声は聞こえていないのかもしれない。彼は少年の傍に膝を付き、そのまま柔らかく腕の中に掻き込んだ。
「お…お父さん…?」
紫苑のつぶやきに、彼は頷いて答える。
「アスター…か?」
「うん!!」
「遅くなった…すまない…」
僕が言い続けた、『君のお父さんが来て、アスターと呼ぶ』と言う言葉が、本当になった。紫苑は、戸惑いながらそれでも嬉しいらしい。
夕日の中で、擁き合う親子の姿が、こみ上げる涙に翳む。
どうして、こんな事になったんだろう。
異次元の接続時の時間軸は、偶然が支配する。頭の中で誰かが言う。
ならば、偶然を恨めばいいのか?姉があれほど待ち望んだ夫は、彼にとって出来うる限り急いだのに、姉はぎりぎりまでがんばっていたのに…二人はもう逢うことは出来ない…
何が悪いんだ。何を怨めばいいんだ?
やるせない憤りが、渦を巻く。
AM:4:00
自分の叫び声で目を覚ます。
天井を見て、夢を見ていたと解る。
ほっとする。
僕はまだ14で、姉はちゃんと生きていて、自分の部屋にいる。
小さな紫苑は生まれていない。
そして、彼はまだ来ていない。
一つ一つ確認して、やっと本当に安心する。
あの夢は何なんだろう?
僕はシオンを知らない。それでも夢の中の彼は、いやにリアルだ。
キールが手紙で危惧しているように、たとえ姉の気力は充分でも、体が弱り始めている事は確かだ。
出産には、姉以外にも、あちらの世界の力が使える人間が必要なのに違いない。
でなければ、夢の出来事が、現実になる。
予知夢なんて信じないけれど、僕では役不足なのも確かなんだ。
シオン・カイナス。急いでくれ。
僕は全力で姉を守る。
でも、あんたが来なければ駄目なんだ。
間に合って欲しい。
時が、来る前に…頼むよ。
義兄さん…