剣戟の響きは、喚声と悲鳴、怒号と絶叫に彩られ、敵軍の足止めに設置された乱杭()すら、既に意味をなさず、倒れた兵士達の槍や剣()が、あたかも枯野の葦のごとく突き立っている。
天には弓張り月。
まるで下界の諍()いをそっと覗くかの様に、青く澄み渡った夏の天空に白く浮かぶ。
北のダリスはついにその沈黙を破り、雪に閉ざされる国土よりも、さらに温暖な地を得んがために南へと進軍をはじめた。
その通り道にあるクラインは、軍事的に遥かに劣る小国ではあったが、被害が及ぶ近隣の諸国と同盟を組み、ダリスの南下を阻止するべく挙兵し、一度はダリスの切り札である魔法兵器製造の主軸である大樹を破壊したが、既に進軍の勢いは止められず、開戦と相成った。
戦況は佳境を迎え、雌雄を決する戦闘は、白い地に獅子と百合の紋章を掲げたクラインと、暗色の地に金のグリフォンを浮かばせるダリスとの一騎打ちの様相を呈していた。
既に騎馬での戦いは不可能となり、敵部隊に配備された魔法兵器が放つ魔法弾によって穿たれた、大きな穴が随所に口をあけ、兵士達の足元を脅かす。
供給が制限され、数が減ってはいるが、ダリスの魔法兵器は未だ健在。上級魔導士達が配布した防御結界を纏わせた鎧によって、多少の抗魔力があるとはいえ、一般兵士達は苦戦を強いられていた。
クライン・ダリス間に広がる無人の荒野、南北に陣を敷き。戦いは消耗戦となり始めている。
山腹に据えた本陣に陣取り、華やかな閃光が閃く荒野を眺めていた総大将は、伝令が注進してきた伝言に、呆れたような苦笑を洩らした。
「前面の部隊を全て下がらせろ?シオンがまた突出しているのか?」
頭上に広がる蒼穹にも似た、明るい色の髪をした指揮官の問いに、伝令は小さく頷く。
「はっ。それと、補佐官がご一緒です」
そんな答えも判っていたのだろう。諸国連合軍総司令でもある青年は、軽く肩を竦めて、脇に控える魔導士へため息をついて見せた。
「キール。彼らは、どうやら言っていた通り、今日中に家に帰るつもりらしいよ」
緋色の肩掛けを身につけた魔導士は、憮然とした表情で、ゆっくりと頷く。
「でしょうね……」
口数少なく、それでも呆れ返った様子を隠しもしない。
クライン国皇太子セイリオス・アル・サークリッドは、再び苦笑した。
小高い丘に悠然と構えた人影に、敵陣から魔法弾が飛来する。
だが、旋風に守られた人影にたどり着く前に、その攻撃は霧散した。
「へろへろ弾撃ってんじゃね〜って。ハエが停まるぜ」
小指一つ動かさず、魔法弾を消し去った魔導士は、頭上で一括りにした長い蒼髪を、防壁の風に弄ばれるままに身を翻す。
丘を一気に駆け下り、同時に数発の火の玉が、風の防壁を纏ったまま、前方へ放たれる。
赤い軌跡を引きながら、風の牙は翳()めた敵兵を切り刻み、一直線に遥か敵軍の中央へ被弾する。
火球が切り開いた陣形の乱れを補正しようと、ダリス軍側に乱れが生じ、攻勢の揺るぎが伝わってくる。
「全軍退避!第二次防衛線まで後退!下がれ!」
黒髪の騎士が、機を逃さず号令をかけ、兵士達はその声に従って速やかに撤退していく。蒼髪の魔導士と、号令を下しながらも自らは下がることのなかった騎士だけが、その場に居残る形となる。
「露払いをさせて頂く……」
魔導士はにやりと笑った。
「お前さんも付き合い良いねぇ……」
揶揄するような口調に、騎士は無言のまま剣を抜き放ち、魔導士の前に出る。
前線において、魔導士には必ず護衛が付く、反射で対戦できる騎士と違い、魔法の詠唱の間に攻撃されれば無力だからだ。しかし、通常魔導士は後方支援に徹するものである。こんな前線の最前列に飛び出したりはしない。
案の定、たった二人の残存兵に、敵軍の攻撃が集中するが、撤退する陣営から、業と居残った二人の不気味さに、攻撃は投槍と弓、そして魔法兵器による魔法弾に限られ、とても踏み込んでくるほどの勇気は無いらしい。ましてやその二人が、近隣諸国にさえ音に聞こえた強者となれば、尚更だろう。
「剣聖レオニス……仕留めりゃ大手柄だ」
「あっちはシオン・カイナス……クラインの蒼い魔王だぜ」
敵兵の中から、そんな声が発される。
「お前さんは剣“聖”で、俺は“魔”王かよ……」
耳ざとく聞きつけて、魔導士が鼻白む。
「貴殿の方が強そうでしょう」
矢を切り払いつつ、レオニスが口の端で笑う。と、シオンは、騎士の珍しい軽口に、魔法弾を風で叩き返して不機嫌を示した。
遠距離攻撃は次第に激しさを増し、前線の全軍が二人へ攻撃をかける。さしもの豪傑達にも難局と見られたとき。魔導士の脇腹を目掛けて槍が投げられた。
折しも魔法弾を数発退けた瞬間であり、蒼い魔王とは言えど、咄嗟に避けることは出来なかった。レオニスもまた、矢を払いのけるのにかかり切りとなっている。魔導士の側面は、一瞬完全ながら空きとなり、そこに長柄の槍が突き刺さる、かに見えた。
しかし、槍は寸前で同じような長柄の槍に払い落とされた。
「ガゼル」
レオニスとシオンの横に、銀髪の若い騎士が颯爽と立つ。豪快に振り回す槍に見合うだけに伸びた身長で、相変わらずの童顔が莞爾()と笑む。
「ご老体の脇を、若いもんが固めるってのは、筋だろう?シオン様」
憎たれ口に魔導士が笑う。
「生意気抜かすな。で?首尾は?」
「上々」
少年騎士が顎をしゃくる。その先には、先ほど魔導士が立っていた小高い丘。
小柄な二つの影が、そこに立っているのが見える。
片方の金髪が、夏の強い日差しを弾いて豪奢に煌く。
もう片方は、魔導士のローブに酷似してはいるが、奇妙なほど裾の短い装束を纏い、すらりとした足を惜しげも無く晒した。
その姿を認め、魔導士の瞳に、この男とは思えぬほどの優しい光が浮かぶ。そして一瞬、後悔にも似た、傷ましげな表情を浮かべたのを、露払いに忙しい二人の騎士が見る事は無かった。
「いつ見ても、そそる足してやがるぜ。ガゼル。女選ぶなら足首細いのにしろよ。締りが違う」
およそこの場に似合わない軽口に、レオニスの眉間がさらに皺を刻む。
「シオン様……」
「へ〜へ〜。んじゃ行くぜ。メイ!」
一声高く叫び、頭上に片腕を振り上げると、白い光球が天に向かって放たれた。
「OK♪エネルギー充填120%。おっぱじめるわよ〜♪大体、あ〜んなとこにあいつが立ってる方がおかしいって、気が付かないのかしらねぇ?不幸な連中」
楽しそうに気合を入れる親友の横で、金髪の女騎士が剣を構える。
「メイ。防御は私が」
「うん。安心してるよ、シルフィス。ちゃっちゃとすませて、キールのところに帰ろ♪」
夫の名に、女騎士が頬を染める。
「もう……すぐそれを言うんですから……」
「だって、合同結婚式した仲じゃない。新婚生活、お互いのんびりしたいもんね〜♪」
軽い口調で言いながら、視線は前方の敵陣営を見据えている。くるくるとよく動く表情は影を潜め、むしろ苦しげに唇を噛むが、即座に首を振って振り払い、強い視線で足元の魔方陣に視線を移す。
「さぁ、はじめるわよ!」
その声が聞こえたかの様に、前線のシオンから、二度目の光球が発射された。
女魔導士は背筋を伸ばし、両手を胸の前で掲げ、可憐な唇から朗々とした詠唱が紡ぎ出されていく。
「大地に宿りし大いなる力よ。今こそ我が声を聞け。深き闇、無限の飢え、癒しの眠りを以()って静めよ……」
長い詠唱は、離れて居ながら、荒野に立つ魔導士の口からも、まったく同時に紡がれていた。
そして、後方の女魔導士から、蒼い魔王へと膨大な魔力が注ぎ込まれてくる。
メイがシオンの力の源となり、魔導士はそれを凝縮し、強大な力を練り上げていく。
「我が敵、我が地を侵しし輩。この地を汚し者どもに鉄槌を下さん……」
呪文が続き、魔法の完成が近づくに連れ、あたりの空気がぴんと張り詰めていった。
異常な気配に、さすがに勘付いたらしく攻撃の手が緩む。
戸惑ったざわめきが湧き上がった時、ついに呪文が完成した。
「「天意に従い、深き腕()に受け入れ給え!グランドクエイク!!」」
和音すら響かせて、高らかに宣言される魔法に、大地が応える。
さながら、地獄の釜の蓋が開いたかと思える凄まじさであった。
激しい振動とともに、魔導士を護る騎士の数歩手前に亀裂が走り、それはたちまち滝が流れ落ちるかのごとく、ダリス側の大地が地の底へと沈んでいく。
足元を掬われ、悲鳴をあげて土石の流れに飲みこまれていく兵士、危険を察知して我先にと逃げ出す者たち。亀裂は北に向かって縦横に走り、崩れ、次々と部隊ごと敵軍が消えていく。
瞬く間に出来上がっていく渓谷に慄くダリス本陣で、一人の武将が低く唸った。その視線は、遥か先の丘に立つ、女魔導士に注がれている。
「あの女……クラインの炎の魔女……蒼い魔王の片腕か……化け物共め!」
憤りと恐れがいり混じった呟きに、他の者達は蒼白となったまま、沈黙していた。
「これで、停戦交渉が有利になります。あとは兄の仕事ですが……」
参謀として従軍させられていたキール・セリアンは、大渓谷となったかつての荒野を一瞥すると、無表情なまま肩を竦めた。
「アイシュなら、上手くやってくれるよ。それにしても、あいつはまったく……無茶をする。グランドクエイクは禁呪だぞ」
呆れ顔で額を押さえる皇太子は、小さなため息とともに立ち上がった。
「何にしても、不毛な戦争はこれで終りにしたいな。全軍待機。使者を立てる!」
皇太子の命令に、本陣は俄()に慌しく動き始めた。
「キール……彼女が耐えられない様なら、全ての咎()は、戦争を阻止できなかった、不甲斐無い私にあるのだと……伝えてくれ」
自軍が待機する方を見て、皇太子は参謀に呟いた、キールは首を振る。
「いえ……あいつは、何の為に戦ったのか理解しています。覚悟も決まっていますよ。第一、シオン様が付いている」
セイリオスは苦笑した。
「そうだな……彼等はクラインの光を守ったんだ」
渓谷を臨()み、丘に戻った魔導士は、愛妻の体を抱き上げた。
「シオン様……」
魔力と体力を使い果たし、眠るメイを気遣わしげに見詰める女騎士へ、魔導士は穏やかな笑みを向ける。
「心配すんなって。寝てるだけさ」
小柄な体を危なげ無く抱き、そっとその寝顔を見詰める。
「レオニス。殿下に伝言頼む。『俺達はここから帰る。後は任せた』ってな」
諦めたような騎士のため息ににやりとして、そのまま歩き出す。
背後で呼び止めようとするシルフィスを、ガゼルが呆れ声で止めているのが聞こえたが、シオンは足を止めようとも、振り返ろうとも思わなかった。
ただ、一刻も早くこの場所から妻を離してやりたい。
ふと、硬く閉じられた瞳から、一筋の涙が頬を伝っているのに気づく。
小さな唇が、微かに動き、擦れたうわ言が洩らされる。
―――ごめんね……―――
シオンは、後悔とも哀惜とも思える痛みを、端正な顔に浮かべて、そっとメイの涙を唇で吸い取った。
「すまねぇな……」
自分の巣食う闇の泥沼の中に、平気で入ってきた掛け替えの無い少女。
こんな戦場にまで乗り出して、地獄絵図に怯まず、自分に無限の力を注いでくれる。
常に前向きで、常に果敢な、愛しい女。
だが、魔導士は知っている。
『でかい一撃食らわせりゃあ、向こうも少しはびびって交渉に応じるだろうぜ』そう言った自分の言葉に、二つ返事で付き合ってみせた妻が、本当は限りなく優しい少女だということを。
明るく笑いながら、その心が、大量に死んでいく敵兵達の為に、どれだけ痛んでいたかを……
今は、一刻も早く。光の元へ帰してやりたい それは取りも直さず、自分の願いでもあった。
血に塗れて冷え切った心と体を、あの、光が齎()す、憩いと癒しの中へ、帰りたい……
騎士達に背を向けたまま、魔導士は移動魔法の呪を唱え、虚空へと消え去った。
一時()前とは完全に変わってしまった景色を、真昼の弓張り月は静かに見下ろしていた。