柔らかな光と、深く香る花の優しさに包まれて、メイはゆっくりと目を開いた。
「はにゃ?」
 記憶にある荒涼とした景色と、あまりにも違う光景に、茶水晶を瞬かせる。
 所狭しと、鉢植えや花瓶に活けられた生花が揺れている。
 彼女は、花に埋もれるようにして、長椅子に横になっていた。
 ゆっくり起き上がり、立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに驚く。
「あ……あれぇ?」
 花の洪水の中、自分の状態に首を傾げる女魔導士へ、柔らかな声が寄越された。
「メイ。目が覚めましたの?」
 振り向く視線に、桜色の髪を揺らして歩み寄る少女の笑顔が飛び込んでくる。
「ディアーナ……」
「まだ起きては駄目よ。魔法の使い過ぎで、倒れてしまったんですって。寝ていた方がいいですわ。シオンが貴女を抱いて帰ってきた時は、心臓が止まるかと思いましたわ」
 華奢な腕が肩に掛けられ、笑みを湛えて紫水晶(アメジスト)がメイを見詰める。
「シオンは?」
「戦況報告をすると言って、王宮に行っていますわ」
「そっか……」
 やっと状況が飲み込めて、安堵のため息が漏れる。その頬に、ひんやりとした手が添えられた。
「大変・・・でしたの?」
 心配そうに覗き込んでくる小作りな顔に、メイは笑みで応えた。
「大丈夫。シオンの口車に乗って、ちょ〜っちでかい魔法使っちゃっただけ。それにさ、たぶん、もうすぐ戦争も終わるよ」
 言いながら、頬に添えられた手に自分の手を重ね、その柔らかさを楽しむ。
 帰ってきたのだという実感が、その手が触れているところから広がっていく。
「ただいま……ディアーナ……」
「お帰りなさいですわ、メイ」
 にっこりと微笑む桜色の姫君の、細い腰に手を伸ばし、そっと自分に引き寄せる。自分よりもさらに華奢な体は、難なく腕の中に収まって、ディアーナの腕が背に回された。
 花の香りがする柔らかな胸に顔を埋めて、心からの安堵のため息が吐き出される。
「帰ってきたぁ……」
「ずっと待ってましたのよ。わたくしも一緒に戦えれば良かったのに……」
 悔しげに呟く姫君に、胸に顔を埋めたまま、女魔導士は小さく首を振った。
「駄目」
「何でてすの?メイ。シルフィスはキールと一緒でしたし。アイシュだって今回は一緒に行きましたのよ。わたくし一人、こんなところでのうのうとしているなんて、嫌でしたわ」
 不平を述べるディアーナに、メイは再び首を振る。
「駄目ったら駄目。あたしは、ディアーナがここに居るから、ディアーナが居るここを守るために戦争に行ったの。ディアーナが待っていてくれるから、がんばってこれたの」
 姫君の腰に回された手に力が篭められる。
「ディアーナがここに居たから、あたしちゃんと帰ってこれたよ。あんたは、あたし達の心を守ってくれてた。戦争している間ず〜っとね。ディアーナもちゃんと戦争に参加してたんだよ」
 腰に回された手が、微かに震えているのに気がついて、姫君はそっと大地色の髪に口付けを落とした。
「じゃあメイ……戦友に、教えてくださいませ。どんなことがあったんですの?」
 ぴくりと揺れる肩を、ほっそりとした腕が強く包み込む。
「シオンは教えてくれませんでしたの。メイに聞け、ですって。だから教えてくださいな、わたくしの戦争は、聞くまで終わりませんのよ」
「うん……あのさ……」
「はい、ですわ」
 途切れがちに語るメイに、そっと姫君が頷く。
 果てが無い消耗戦。不利な戦況。シオンが提案した禁呪の使用。そして、自分たちが引き起こした地獄絵図に及んで、抱え込んだ肩が激しく震えだし、嗚咽の声が漏れる。
「……いっぱい……人を殺した……魔法で……殺した……人殺しになっちゃった……」
「わたくしを守る為、でしょう?」
「うん…でも……でもっ……」
「ならわたくしも同罪ですわ。メイと永遠に一緒ですもの」
「うん……ディアーナ……!」
 常に強く、明るく振舞う彼女の、本当の脆さと優しさを受け止めて、ディアーナは泣き続ける背中をそっと撫ぜていた。
 


 花を織り込んだレースのカーテンは、いとも簡単に朝日を通す。おかげで最近早起きになってきたようだ。
 シオンは眩しげに目を瞬かせながら、まだ腕の中で眠る妻の寝顔を見詰める。
 愛しさが頬を緩ませる。
 常の彼を知る者が見たら、信じられないと言うかも知れない。それほど、その表情は穏やかで、限りなく優しい。
 寝台の上には彼の蒼い髪と、妻の薄紅色の髪が広がり、華やかな文様を形作っている。あたかも豪華な錦絵の様である。
 ふと悪戯心が首を(もた)げ、柔らかな頬に指を這わせる。
「う……ん」
 くすぐったいらしく首を竦めながら、それでも目覚めない様子に笑いを噛殺す。
 細心の注意を払いつつ、力無く投げ出された手を持ち上げて、羽根が掠めるように、指一本一本の輪郭を唇でなぞり、甲に口付けて、無意識に引っ込める仕草を愛で、無防備に肌蹴た肩をチロリと舐めてみる。
 光沢を帯びた肌に、印をつけたい衝動を押さえながら、小さくて柔らかな感触に心から安らいでいる自分に苦笑する。
 類稀な至高の花。
 今、自分の腕の中に在るのが奇跡に近い、光が凝縮した宝石。
 闇を纏う自分が、どれほど汚したとしても、その残滓すら残せない。
 逆にこちらが浄化されていくような気がする。
 そして、暖かな時の中でまどろませるのだ。
  何という至福。
 こんなささやかな時を楽しむ自分がいるなんて、実のところ信じられない。
 彼女が教えた。
 幸せの意味を。
 どんな事があっても、この温もりを、この存在を、守り通す。
 まあ、もう考えるのはよそう。
 大きな波はひとまず退けた。
 今はこの暖かさに、浸るだけだ。
  もう一度肩に唇を落す。
 くすぐったいのだろう、小さく肩を竦め、なにやらむにゃむにゃと口の中で呟き、子猫のような仕草で、胸にすりついてくる。
 声を出さずに笑うのが難しい。
 すりついた胸からの振動で、起こしてしまうかも知れない。
 構わないとは思うが、もう少し、眠る姿を愛でてもいたい。何の憂いも無い、この穏やかな眠りを眺めるのも、夫ならではの特権だ。
 丸まる背に、そっと指を滑らせる。薄い布の感触が邪魔に思えるが、取ってしまうと、起きた時どれほど怒ることか。  白い肌を羞恥に染めて、紫水晶(アメジスト)の瞳が睨みつけてくる様は、そのまま引きずり込んで再戦を挑みたくなるほど可愛らしい。
 嫌がり怒るのを宥めすかして、術中に嵌めていくのは、実に楽しく、病み付きになるが、その後3日も口を聞いてくれなくなる。
 さすがにアレは痛かった。
 だから、今は大人しく、布を通して白磁の肌を楽しむことにする。
 触る度に、ぴくぴくと反応が返ってくるのが楽しいから、十分に満足できるだろう。
「う〜ん……」
 不意に小さな声を洩らして、四肢が伸ばされる。
 子猫が伸びをしたというか、雛鳥が首を伸ばしたというか、小さな唇がつんと突き出され、甘い息が洩らされる。
 何も考えずに、反射的に唇を掠め取って、むうっと眉を寄せる様に再び笑う。
 天使のまどろみ
 ふとそんな言葉が浮かんできた。
 正に、この様が、それに違いない。
 ならば、自分は天使を手に入れたのだろう。
 太陽の下で、輝く翼を広げる天使を、その太陽ごと手に入れたのだ。
 闇であるはずの自分が。
 男冥利に尽きるとはこのことか?
 穏やかな時間がたゆたうなか、シオンはさらに笑みを深めた。

 にまにまと笑み崩れながら、あちこちを突付いたり撫ぜたりと、一時の憩いを心から楽しむ。
 すべらかな頬に唇を落し、髪から香る柔らかな匂いに目を細めた時、寝台の天蓋が勢いよく開かれた。
「おっはよ〜。ご飯できたよ」
 ひょっこりと顔を出した女魔導士は、白いエプロンを身につけて、明るい日差しの中で何時ものように満面の笑みを浮かべて朝を告げる。
 ディアーナの頬を抱え込む形になっている夫を見て、むっと口を尖らせた。
「こらぁ、シオン。あたしの仕事取らないでよ」
 文句を言うメイに、魔導士はさらに笑みを深めた。
「おはようさん。相変わらず元気だねぇ」
「もちよ♪昨日ディアーナに、い〜っぱい元気貰ったもん」
 翳りの無い太陽の笑みに、昨日全てをディアーナに託した判断が、間違っていなかったと確信する。
 彼女の瞳から、闇を取り払うのは、自分にはできなかっただろうから。
「そいつは良かった。だからお前さん達、俺が帰ってくる前に寝ちまってたんだな」
「あんたが遅すぎなの」
 笑いながら寝台に乗りあがり、シオンの頬と眠る姫君の頬に、派手な音を立てて口付けをする。
「ディアーナ、ご飯冷めちゃうよ〜」
 何時もの光景にシオンが苦笑を隠さずに笑う。
 むう、とメイが睨み返すと、不意に支えにしていた腕を引っ張られて、横になった二人の間に倒れこんだ。
「うきゃっ!?」
 小さな悲鳴をあげた少女の目に、もう一人の少女の不機嫌な顔が顔が飛び込んでくる。
「ディアーナ……どしたの?」
 寝起きの姫君は、実に不本意だという表情で、夫と妻を睨めつける。
「おはようございますですわ……今朝は……わたくしが朝ご飯作るつもりでしたのに……」
 不機嫌の理由にメイが笑う。
「い〜じゃん、そんなの」
桜色の姫君は唇を尖らせたままふるふると首を振る。
「だって、今朝は二人とも疲れているんですもの。わたくしが作らなかったら誰が作るんですの?」
「あたし作ったよ」
 あっけなく答えられて、ディアーナが頬を膨らませる。
「だから怒ってますの。何で早く起きてしまいますの?」
 あまりにも可愛らしいご機嫌斜めに、メイは堪らず姫君を抱きしめた。
「んっもうっ。可愛いんだからぁっ!」
「だから〜っ!わたくしは怒ってますのよ〜」
 ぎゅうっと胸に抱きしめられながら、まだくぐもった声で抗議する。
「気にしない気にしない。ディアーナ起こすのがあたしの仕事なんだからね♪」
 柔らかな髪に頬ずりをして、華奢な感触を堪能していると、同じように背に回された姫君が抱き締め返してくる。
「わたくしも、メイを起こしたかったですわ」
「できるほうがすればいいのよ♪ディアーナのおかげで、今日も元気なんだから♪」
 うんしょ、と小さな声で首を上げ、姫君が可憐に微笑む。
「わたくしの元気の元は、メイですのよ♪」
「嬉しい、ディアーナ♪大好きよ」
「わたくしもですわ」
 ちゅっと小さな唇が重なり合い、それを合図に再びゆっくりと合わせられる。
 可憐な少女二人の絡み合いを、すっかり蚊帳の外にされて眺めていたシオンは、幾分いじけた声で妻達の注意を促す。
「お〜い奥さん達。誰か忘れてませんかね?」
 口付けを中断して、メイがシオンを見上げる。
「邪魔」
 つれない返答に業とらしく肩を落とす。
「たは……そりゃね〜だろ」
「メイ、シオンが可愛そうですわ。混ぜてあげましょう」
「ご飯冷めちゃうけど……ま、いっか」
「わたくしが温め直しますわ」
 華やかな二人の笑顔に誘われて、魔導士は柔らかな憩いの中にその身を沈めた。

 交互に口付けを交わし、お互いを抱きしめあう。
 この時間を手に入れる為に、それぞれがどれだけの苦労をしたか、現在もまた、周りの偏見とどう立ち向かっているか、今はそんな事どうでもいい。
 通常の結婚ではないかもしれない。
 一人の夫と二人の妻なんて。
 しかも男を挟んで妻が二人、なのでは無いのだ。
 彼女達はお互いが愛し合い、その上でシオンを求めた。
 シオンもまた、二人のどちらかを選ぶことなんてできなかった。
 周りは選べと言ったが、選ばなかったからこそ、今の充足がある。
 メイは、同類であるが故の共鳴と安定、そして力を。
 ディアーナは、魂すらも暖める光。憩いそのもの……
 どちらかを諦めるなんて、できるはずが無い。そして今は、もう離れられない。
 
 今度の戦争も、そもそもディアーナを守る為にしたことだった。
 シオン・カイナスとの婚姻はメイ・フジワラとの重婚であり、正式なものとは認められない。故に第二王女ディアーナ・エル・サークリッドは未婚であり、ダリス王は彼女と婚姻を望んでいる。
 これが、ダリスの寄越したごり押しの人質要請である。
 数少ない三人の理解者となってくれていた皇太子は、これを退け、ついに開戦となってしまった。
 シオンも、メイも、最愛の妻であるディアーナを守る為に、己が手を血で染める行為さえ厭わなかった。
 そして今、罪に慄く心を、ディアーナの笑顔が癒してくれる。


「みんな、ずっと一緒ですわよ……」
 夢見るようにディアーナが呟く。頬を寄せてメイが笑う。
「あったり前じゃない。女神様に誓ったでしょう?死が別つまでって」
 婚礼の式の、神官の顔色を思いだし、シオンが笑う。
 二組合同の上に、片方は花嫁が二人。実に面白かった。長く語り草になるに違いない。
「いんや死んでも一緒さ」
 愛しい妻達をいっぺんに抱きしめて、魔導士は悪戯に片目を瞑る。
「餓鬼共に遺言しようぜ。俺達が死んだら、火葬にして灰を混ぜろってな。そうすりゃ、死んでも一緒さ」
 桜色の姫君がぎゅっとしがみ付く。同時に両頬に暖かで柔らかな感触が寄越される。
「愛してますわ、シオン」
「愛してるよ、シオン」
「愛してるぜ。姫さん、嬢ちゃん。俺の奥さん達」


 永遠なんて信じない。
 変わらないものも無い。
 それでも、お互いを求め合い、溶け合うこの時が、続いていくのなら。
 光と風と炎のエレメントが溶け合って、そこに魔法が生まれるように、この奇妙な恋物語も、長い夢を見ていられるのかも知れない。
 そう・・
 全ての融合……
 それこそが、自分たちの形。

END

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