SECOND SEQUENCE 2 焦り






 樂の音は、鮮やかな華のように舞う淑女と貴公子達を、

更に華やかに咲き(ほころ)ばせ、宴は何時果てるとも知れない。




 青年は、曲に合わせて、緩やかなステップを踏みつつ、腕の中の清楚な華に嘆息した。








「本当に、信じられません……貴女とこのような時が持てるとは……」
 



黒い髪を後ろで束ね、殊更華美では無いものの、

上品にまとめた装いの青年は、どこかの貴族の子弟であろうか?
 



どちらかというと凡庸な容姿に、それでも育ちのよさげな微笑を浮かべていたが、

その目には奇妙に餓えたような色が浮かび、熱を帯びた視線が、腕の中へ注がれている。
 





対して、その腕の中で鮮やかに咲き綻ぶような華。





銀の衣装で華奢な身を包み、栗色の髪を同じく銀のサークレットで纏め上げた淑女は、

大人びた化粧を施されてはいたが、その顔はまだどこか稚く、奇妙な事に、硬く目を閉じていた。



それでも、二人の足運びは変わらない。
 






片手に乗せられたほっそりとした指に、そっと唇を落とし、青年は、うっとりと言葉を続ける。



「貴女はすばらしい……僕は、貴女の足跡にすら、忠誠と感謝の口付けを惜しみません。ましてや……今宵……」



 唇は手の甲へ移り、そのまま腕を滑っていく。

 しかし、緩やかなステップは変わることなく、閉じられた瞳と共に、女の表情も変わりはしない。







「はぁ……樂の音がもどかしい……今すぐ貴女を攫って行きたいのに……」





 凡庸な容姿に、似合わない事夥しい気障な仕草で、熱っぽく斯き口説き、

何度も唇を這わせた手を持ち上げて、曲と共にくるりとターンを繰り返す。



女の纏った銀のドレスが、一際華やかに広がった。


 








やがて曲が変わり、乱れた息を整えるために壁際へ下がった二人は、

そっと肩を引き寄せた青年の(うなが)すままに、バルコニーへと場を移した。





「今宵の月は意地が悪い……やっと貴女との逢瀬だというのに、まだあんなところでぐずぐずしているなんて……」





 いまだ天頂への途中にある三日月を眺めて、青年は悩ましげにため息をつく。





「いや、それとも……長く私達が共に居られるように、月は気を利かせているのかも知れませんね……」
 



応えを返さぬ女に、ひたすらに口説き文句を並べ立てる滑稽さに、気がつきもしていないらしい。

ただ陶然と己の言葉に酔いしれる。







 カーテンに隠れ、夜会の灯りはとどかない。






 月明かりの下で、よりいっそう白く浮かび上がる女のほっそりとした姿に、青年は我知らずごくりと生唾を飲み込んだ。




「今宵は、僕の人生最良の日です。貴女が僕の許に来てくれるなんて……

ご存知でしたか?僕はずっと貴女を見ていたのですよ。

あのような男と、あなたが共に居るのを、どれほど口惜しく思っていた事か……」
 




餓えた目を取り繕いさえせずに、青年は女の腰に腕を回し、些か急性に引き寄せた。

やはり目を閉じたままの白い顔が、ひどく煽情的(せんじょうてき)に見えた。





「僕の全ては、貴女のものです……誓いの口付けを、差し上げましょう……」
 





華奢な頤に手をかけて上向かせ、そのまま形も良く、紅で艶かしく光る唇に、鼻息も荒く、己が唇を落とそうとする。





「……どうぞ、式までは、御慎みいただきますように……」
 




かすかに笑いを含んだ声が背後から流れ、青年は慌てて女から離れた。


 振り向けば、地味な色合いながら、上質の衣装を纏った、

恰幅の良い壮年の男が、にこやかにバルコニーの入り口に立っていた。





「月が頂点に掛れば、貴方様の忠誠を示して頂ける筈、

それまでは、我が姫との、ダンスをお楽しみください……皆様、同じように、時をお待ちなのですから」
 






そう言って半身をずらせた背後には、色とりどりの招待客に混じって、

女と同じ銀の衣装を纏った女達が、それぞれの相手と、優雅な舞を繰り広げている。
 



壮年の男は、慇懃(いんぎん)に腰を屈め、片手をその円舞の輪へと差し伸べる。





「どうぞ……」
 




青年は渋々といった表情で、女を伴って歩き出した。



 男の前を通る時、ふとその足を止める。






「しかし、信じられません。今の彼女は、本当に何も見えず何も話せないのですか?」





 青年が不用意に口にした問いへ、意外なほど鋭い視線が返された。






「今は?若様は、全てを主上(しゅじょう)に捧げられた姫君の、何をご存知なので?」





 小さな目に秘められた迫力に、青年は慌てて首を振った。





「いや……姫のことは何も知らない……私は忠誠を守って尽くすだけです。

……ただ、約束は確かなのか、知りたいだけです」





「約束と申されますと?」






 男が再び柔らかな態度の仮面をかぶった事に安堵して、女の腰を引き寄せる。





「姫が全ての使命を終えられた暁には、我妻となられるという約束です」






 男は、ちらりと女へ視線を流し、そしてゆっくりと頷いた。





「貴方様は選ばれし方……姫も伴侶が待ち焦がれているとなれば、幸せが確約されたも同じ。

ご安心なさいませ。ただし全ては成就の後です」
 





ほっとしたように口元を緩めると、青年は女を促して、再び広間の中央へと戻っていった。

その姿を眺めながら、男は、にやりと笑みを浮かべた。























 実際のところ、ここまで荒れた部屋というのは、廃墟と言うべきなのかも知れない。
 
この部屋の、大本の持ち主といえる彼は、深々とため息を吐いた。






「……人の部屋へ入るなり、でかいため息とは、ご挨拶だな、セイル……」






 低い、ドスの効いた声が部屋の奥から寄越される。



「吐きたくもなる。なんだ?この有様は」
 




肩を竦めながら、皇太子は飛び散ったティーセットの残骸を跨ぎ越した。

 再び嘆息しつつ、改めて惨状を確認する。
 







割れたグラスはひっくり返されたプランターの土に塗れ、

撒かれた書類は、引き裂かれているものもあり、

部屋の主が大事に秘蔵していたはずの茶葉や酒でさえも、部屋中に撒き散らされていた。
 



砕けた水晶のオーヴは、どうやら壁に叩き付けられたらしく、

不運な壁のへこみの下に、壁材と漆喰(しっくい)の粉が積もっている。
 


壁一つを占領していた本棚は、今や床と接吻し、

その下から滲み出ているのは、本と一緒に納められていた魔法薬か?

何もかもが混じりあい、何ともいえない異臭を発し始めている。







薬漬けにされた魔道書が、どんな事になっているのか……想像すらしたくない。




 大型の台風が、この部屋の中だけで発生したようだ。
 
せめてもの救いは、窓が割られていない、といったぐらいだろう。
 





筆頭魔導士の執務室の異様な荒れ方は、通常ならば刺客の襲撃を心配するところなのだが、

そんなものにてこずるほど、生易しい男でないのを、セイリオスは良く知っている。




 全ては住人の仕業である。
 




故に彼は、嫌味たっぷりに、三度目の溜息を吐いて見せた。





「……嫌な野郎だな……」



「判ってもらえて嬉しいよ。まったく……大家として、嘆くのに(ばち)はあたるまい?」



 親友の好む下世話な言い方をしながら、叩き壊されたソファーの前で軽く首を振る。



「私はどこに座れば良い?」
 


くつくつという陰鬱な含み笑いが、開け放たれた続き部屋の奥から響いてくる。



「これはこれは……我が君に椅子も勧めず、御無礼平に御容赦を」
 


嫌味に嫌味で返し、さらに、目の前の崩れたソファーが、

実に歪に組みなおされて、不細工で危なっかしい形の椅子になる。



「いらん。立っておく」
 


セイリオスの言葉と同時に、嫌味の産物は一度浮き上がってから、

派手に床に叩き付けられ、無残な廃材となった。





「シオン」
 


全身に感じる、重苦しい空気を振り払うように、皇太子は次の間へと足を運んだ。


 続き部屋は、仮眠室、というよりは、筆頭魔導士の生活の場である。
 


実家から絶縁され、自宅を持つのも面倒がる魔導士は、

王宮内に私室を与えられていながら、この寝室の方を住処にしている。
 




この部屋に入れるのは、魔導士の主である自分と、一人の少女……
 


僅かに足が鈍る、そこは魔導士の聖域だった。

少女と二人で、穏やかに過ごす為の・・その部屋もまた、執務室と同じに破壊されているのだろうか?




 だが、それは杞憂に終わった。
 


カーテンも引かれていない窓から差し込む、淡い月明かりに浮かび上がる室内は、

以前と変わらずひっそりとした佇まいを見せている。
 


皇太子は、親友が何に腹を立てたのか、おぼろげながら判った気がした。



「まったく……よくも荒らしたものだな。誰が片付けるんだ?私は手伝わんぞ」



部屋の中央に置かれた、天蓋付の大きな寝台の上に(うずく)った黒い影が、肩を震わせる。


陰鬱な笑いが響いてくる。



「メイが戻ったら、掃除するだろうぜ……」
 


大概のことには動じない皇太子の背を、冷たいものが走りぬけた。




「!?シオン?」
 


再び含み笑いが流れる。



「心配すんな……・狂っちゃいない……・寸前かも知れねぇがな……」
 


危うい響きを持つ笑いに、眉を顰めながら、窓際にあった椅子を寝台に近寄せて、彼はやっと腰を下ろした。



「なあセイル。あいつ、ここに来る度に、掃除していきやがるんだ。

散らかってるだの、片付けろだの文句いいながら、なんか嬉しそうにな……」



 過去形で言わない魔導士に、セイリオスは胸の奥が痛む。



「自分の部屋なんか、まともに掃除しねぇ癖に、

ここだけ丁寧にするってんだから、何考えてやがるんだろうな?」




 甲斐々ヽ(かいがい)しく叩きや(ほうき)を振りたてる少女の姿が思い浮かび、

彼は僅かに口元を緩めた。



「全部、お前の為だろう……」



「ああ……あの日もそうだった……」



「あの日?」



「ダリスに行く朝だ。暫く留守にするんなら、帰って来た時の為に、余計に綺麗にしないと、とか言って……

腰が砕けてやがる癖に、箒持とうとするから、止めろって言ったんだぜ俺は。寝とけってな……」





「……シオン……」




 内容に含まれる微妙な意味に、呆れ返った声が出た。

 しかし親友は、お構いなしに言葉を続ける。




「帰ってきたら、専属で掃除させてやる、ついでに飯も作ってくれ。この先一生……

そう言ってやったら、どうしたと思う?あの嬢ちゃん」




 用意に想像がついて、苦笑が浮かぶ。



「殴られたのだろう?」





「ったく……笑顔一つで七難隠しやがって。飯炊き女が欲しいんなら、他を当たれ、とさ。


男が持つ、ささやかな夢ってのを、ぶち壊すのが上手いんだ、俺の嬢ちゃんは」





 僅かに陰鬱な影が薄れ、年相応の、青年の顔が垣間見える。





「……そのくせ、レオニス相手に練習をして、ポトフ喰わしてくれる予定だったらしい……天邪鬼が……」



「メイらしいな……」




「喰いっぱぐれた俺は、どうすりゃいいんだよ……」




 苦い溜息が、歯の間から漏らされる。
 


衣擦れの音と共に、寝台の上の男が、膝を抱え込むのが見えた。
 








セイリオスは背凭れに体を預けると、ゆっくりと息を吐いた。

そして、(あお)を基調とした寝台の上で、いじけた子供のように膝を抱える男に苦笑する。





「シオン」




「なんだよ」





「吐き出せ……全て」
 





影が身じろぎ、結われていない髪が、肩を滑って背中に落ちる。





「何だよ、籔から棒に……」




「お前が狂う前に、私に吐き出してみても、損はないだろう?

第一、さっき、八つ当たりという、楽しい事もして貰っているからな。聞く権利もある……それに……」




 悠然と指を組み合わせて、皇太子は小首を傾げた。





「お前とレオニスは、随分端折った報告をしてくれているからね。この際だ、全部聞かせてもらおう」




 盛大な溜息が、今度は寝台の主から発せられた。





「何にもね〜よ……」
 




面倒臭そうな応えが返る。
 



セイリオスは強情に首を振った。もはや一歩も退く気はない。





「お前を筆頭魔導士にしたのは私だ。その地位が彼女に災厄を齎せたのなら、

私にも(とが)はあるはずだろう?」
 





破壊された執務室。親友がただ物に当っただけでないのは明白だった。

 かつて愛しいと想った少女の為に、そして何よりも得難い朋の為に……




 自分が一番辛い時、支えてくれた友の為に……
 




この男が全ての本音を話すとは思わない。それでも、何かの足しにはなるだろう。

 皇太子は穏やかな視線を寝台に向けた。








「吐き出せ、シオン。そうしなければ、お前は、本当の意味で、メイを取り戻せないのじゃないか?」









 長い沈黙が横たわった。
 






やがて、影が身じろぐと、セイリオスの膝の上に、何かが放り投げられた。


 小さいながらも、しっかりとした重さのあるそれを手に取ると、琥珀の液体が月光にぼんやりと光を溜める。





「何だ?」




「マイルズが寄越した薬酒だ……聞くのに飽きたらそれを飲ませろ」





 旧知の女医が、シオンの為に調合した、強力な眠り薬らしい。

指に伝わる魔力の波動に、懐かしいものを感じる。





「判った……さあ、いくらでも愚痴るといいぞ」




「お人好しが……このシオン・カイナス様の愚痴だ。滅多に聞けね〜ぞ。腹据えろよ」





 言い返す声音に、幽かな照れと、嬉しげな響きを感じるのは、自惚れだろうか?




「しっかり拝聴して、あとで宝物庫にでも入れておくよ。記念にね」
 


小さな笑いの後、言い難そうな、躊躇いがちの言葉が、ぽつりぽつりと漏らされる。

 月明かりを受け、その声に合槌を返しながら、皇太子は軽く目を閉じた。












 夜は、まだ終わりそうにない。


























「はぁ……っ……」




 たまらず声が漏れ、喜悦の震えが全身に広がる。
 

香炉から立ち昇る芳香に、頭の芯が熔けていくようだ。
 
彼に見える物は、無数の燭台が並べられ、蝋燭の炎によって描き出された魔方陣。





  その中央に置かれた寝台の上には、彼と、組み敷いた女の白い肌。
 

今だ胎内にある己自身に、内壁の痙攣が心地良く、更なる欲望を煽り立てる






 望んだ女が、自分の物になった。
 




例えこれが闇に魂を売り渡す儀式だとしても、もはや何の悔恨もない。


 悶え身を反らす女が目に眩しい






「まだ足りない……貴女の全てが欲しい……あの男の事等、何も残らないくらいに……愛しています……メイ・・」







 熱に浮かされたように呟き、媚薬と教えられた塗り薬の壷に手を伸ばす。
 







ねっとりとした薬を、引き抜いた己自身に、再びたっぷりと塗りたくり、

更なる快楽を求めて、女の中に押し入っていく。
 





女の体が反り返り、声にならない嬌声が、白い喉を振るわせる。
 


激しく息を荒げながら、自分の行為に没頭する青年は、何も気がついてはいない。
 








媚薬のねっとりした潤滑剤を使わなければ、女の中には入れないほど、

その花弁が蜜を出そうとしていないことにも、反り返った女の口元が、声にならない言葉を繰り返している事にも……





 その唇は、常一につの名前を呟いていた










―――シオン―――
 











何度も、何度も繰返し……
 





窓の無いその部屋には、月の光は届かない。
























 朝靄の中、黒塗りの馬車が、小高い丘の屋敷を目指していた。 




 街道に差し掛かり、丁度走っていた、朝一番の乗合馬車を追い越していく。

 その時、乗り合い馬車から、開け放たれた車内の様子が垣間見れた。
 


壮年の男が、女を伴って乗車している。
 
女は疲れきっているのか、男の肩に頭を預け、眠っているようだ。
 
おそらくどこかで開かれた夜会の帰りなのだろう。どちらも華美ではないが、華やかな格好をしていた。
 






キール・セリアンは、自分もまた早朝ゆえに半分眠りの中にある婚約者に肩を貸し、

(いささ)面映(おもはゆ)い状態であった所為で

、何時もは気しない、他人の様子をぼんやりと(うかが)い見て、女の顔に仰天した。






「メイ!?」
 





瞬く間に走り去る馬車の後ろを睨みつけ、思わず御者に叫んでいた。



「おい!あの馬車を追え!」
 


いきなり耳元で怒鳴られ、シルフィスは飛び起きた。




「どうしました?キール」





 しかし、シルフィスの問いに答える余裕など無く、青年魔導士はいっかな鞭を使おうと無い御者に焦れ、怒声を浴びせる。




「何やってんだ!もっと早く走れ!」




 車外の御者席から、のんびりとした応えが返ってくる。



「んだどもお客さん。この駄馬とあの馬車じゃあ、元から無理だすよ」






 うんざりするほど暢気な声に、キールは苦々しく舌打ちをする。



「くそ……」
 







若草色の目は、食い入るように小さくなる車影に据えられていた。



「あの馬車が、どうかしたんですか?丘の上の館に行くようですね」
 



何も知らない分、冷静に状況を見渡せたシルフィスの声に、青年魔導士ははたと婚約者の顔を見た。

 一気に思考が廻りだす。




「おい、次の町までどれくらい掛かる?」


「次なら〜一時間くらいで着くだすよ」
 




御者の答えに頷き、キールはいきなりシルフィスの肩を両手で捕らえた。



「キール!?」
 




いきなりの行動に、思わず頬を染めるシルフィスには構わずに、

キールは真剣な眼差しで自分とよく似た翡翠の瞳を覗き込む。






「シル……次の町には、騎士団の駐屯地があったな?」



「はい……」




「馬には乗れたな?早駆けはできるか?」
 


異様な迫力に、シルフィスは小さく頷いた。







「俺は町からここまで戻る。いいや、ここに残る。お前は馬で王都へ走れ。伝令馬なら半日で着く筈だ。

そしてシオン様とクレベール大尉に知らせるんだ……・メイを見付けたと……」


















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