樂の音は、鮮やかな華のように舞う淑女と貴公子達を、
更に華やかに咲き綻ばせ、宴は何時果てるとも知れない。
青年は、曲に合わせて、緩やかなステップを踏みつつ、腕の中の清楚な華に嘆息した。
「本当に、信じられません……貴女とこのような時が持てるとは……」
黒い髪を後ろで束ね、殊更華美では無いものの、
上品にまとめた装いの青年は、どこかの貴族の子弟であろうか?
どちらかというと凡庸な容姿に、それでも育ちのよさげな微笑を浮かべていたが、
その目には奇妙に餓えたような色が浮かび、熱を帯びた視線が、腕の中へ注がれている。
対して、その腕の中で鮮やかに咲き綻ぶような華。
銀の衣装で華奢な身を包み、栗色の髪を同じく銀のサークレットで纏め上げた淑女は、
大人びた化粧を施されてはいたが、その顔はまだどこか稚く、奇妙な事に、硬く目を閉じていた。
それでも、二人の足運びは変わらない。
片手に乗せられたほっそりとした指に、そっと唇を落とし、青年は、うっとりと言葉を続ける。
「貴女はすばらしい……僕は、貴女の足跡にすら、忠誠と感謝の口付けを惜しみません。ましてや……今宵……」
唇は手の甲へ移り、そのまま腕を滑っていく。
しかし、緩やかなステップは変わることなく、閉じられた瞳と共に、女の表情も変わりはしない。
「はぁ……樂の音がもどかしい……今すぐ貴女を攫って行きたいのに……」
凡庸な容姿に、似合わない事夥しい気障な仕草で、熱っぽく斯き口説き、
何度も唇を這わせた手を持ち上げて、曲と共にくるりとターンを繰り返す。
女の纏った銀のドレスが、一際華やかに広がった。
やがて曲が変わり、乱れた息を整えるために壁際へ下がった二人は、
そっと肩を引き寄せた青年の促(すままに、バルコニーへと場を移した。
「今宵の月は意地が悪い……やっと貴女との逢瀬だというのに、まだあんなところでぐずぐずしているなんて……」
いまだ天頂への途中にある三日月を眺めて、青年は悩ましげにため息をつく。
「いや、それとも……長く私達が共に居られるように、月は気を利かせているのかも知れませんね……」
応えを返さぬ女に、ひたすらに口説き文句を並べ立てる滑稽さに、気がつきもしていないらしい。
ただ陶然と己の言葉に酔いしれる。
カーテンに隠れ、夜会の灯りはとどかない。
月明かりの下で、よりいっそう白く浮かび上がる女のほっそりとした姿に、青年は我知らずごくりと生唾を飲み込んだ。
「今宵は、僕の人生最良の日です。貴女が僕の許に来てくれるなんて……
ご存知でしたか?僕はずっと貴女を見ていたのですよ。
あのような男と、あなたが共に居るのを、どれほど口惜しく思っていた事か……」
餓えた目を取り繕いさえせずに、青年は女の腰に腕を回し、些か急性に引き寄せた。
やはり目を閉じたままの白い顔が、ひどく煽情的(に見えた。
「僕の全ては、貴女のものです……誓いの口付けを、差し上げましょう……」
華奢な頤に手をかけて上向かせ、そのまま形も良く、紅で艶かしく光る唇に、鼻息も荒く、己が唇を落とそうとする。
「……どうぞ、式までは、御慎みいただきますように……」
かすかに笑いを含んだ声が背後から流れ、青年は慌てて女から離れた。
振り向けば、地味な色合いながら、上質の衣装を纏った、
恰幅の良い壮年の男が、にこやかにバルコニーの入り口に立っていた。
「月が頂点に掛れば、貴方様の忠誠を示して頂ける筈、
それまでは、我が姫との、ダンスをお楽しみください……皆様、同じように、時をお待ちなのですから」
そう言って半身をずらせた背後には、色とりどりの招待客に混じって、
女と同じ銀の衣装を纏った女達が、それぞれの相手と、優雅な舞を繰り広げている。
壮年の男は、慇懃(に腰を屈め、片手をその円舞の輪へと差し伸べる。
「どうぞ……」
青年は渋々といった表情で、女を伴って歩き出した。
男の前を通る時、ふとその足を止める。
「しかし、信じられません。今の彼女は、本当に何も見えず何も話せないのですか?」
青年が不用意に口にした問いへ、意外なほど鋭い視線が返された。
「今は?若様は、全てを主上(に捧げられた姫君の、何をご存知なので?」
小さな目に秘められた迫力に、青年は慌てて首を振った。
「いや……姫のことは何も知らない……私は忠誠を守って尽くすだけです。
……ただ、約束は確かなのか、知りたいだけです」
「約束と申されますと?」
男が再び柔らかな態度の仮面をかぶった事に安堵して、女の腰を引き寄せる。
「姫が全ての使命を終えられた暁には、我妻となられるという約束です」
男は、ちらりと女へ視線を流し、そしてゆっくりと頷いた。
「貴方様は選ばれし方……姫も伴侶が待ち焦がれているとなれば、幸せが確約されたも同じ。
ご安心なさいませ。ただし全ては成就の後です」
ほっとしたように口元を緩めると、青年は女を促して、再び広間の中央へと戻っていった。
その姿を眺めながら、男は、にやりと笑みを浮かべた。
実際のところ、ここまで荒れた部屋というのは、廃墟と言うべきなのかも知れない。
この部屋の、大本の持ち主といえる彼は、深々とため息を吐いた。
「……人の部屋へ入るなり、でかいため息とは、ご挨拶だな、セイル……」
低い、ドスの効いた声が部屋の奥から寄越される。
「吐きたくもなる。なんだ?この有様は」
肩を竦めながら、皇太子は飛び散ったティーセットの残骸を跨ぎ越した。
再び嘆息しつつ、改めて惨状を確認する。
割れたグラスはひっくり返されたプランターの土に塗れ、
撒かれた書類は、引き裂かれているものもあり、
部屋の主が大事に秘蔵していたはずの茶葉や酒でさえも、部屋中に撒き散らされていた。
砕けた水晶のオーヴは、どうやら壁に叩き付けられたらしく、
不運な壁のへこみの下に、壁材と漆喰(の粉が積もっている。
壁一つを占領していた本棚は、今や床と接吻し、
その下から滲み出ているのは、本と一緒に納められていた魔法薬か?
何もかもが混じりあい、何ともいえない異臭を発し始めている。
薬漬けにされた魔道書が、どんな事になっているのか……想像すらしたくない。
大型の台風が、この部屋の中だけで発生したようだ。
せめてもの救いは、窓が割られていない、といったぐらいだろう。
筆頭魔導士の執務室の異様な荒れ方は、通常ならば刺客の襲撃を心配するところなのだが、
そんなものにてこずるほど、生易しい男でないのを、セイリオスは良く知っている。
全ては住人の仕業である。
故に彼は、嫌味たっぷりに、三度目の溜息を吐いて見せた。
「……嫌な野郎だな……」
「判ってもらえて嬉しいよ。まったく……大家として、嘆くのに罰(はあたるまい?」
親友の好む下世話な言い方をしながら、叩き壊されたソファーの前で軽く首を振る。
「私はどこに座れば良い?」
くつくつという陰鬱な含み笑いが、開け放たれた続き部屋の奥から響いてくる。
「これはこれは……我が君に椅子も勧めず、御無礼平に御容赦を」
嫌味に嫌味で返し、さらに、目の前の崩れたソファーが、
実に歪に組みなおされて、不細工で危なっかしい形の椅子になる。
「いらん。立っておく」
セイリオスの言葉と同時に、嫌味の産物は一度浮き上がってから、
派手に床に叩き付けられ、無残な廃材となった。
「シオン」
全身に感じる、重苦しい空気を振り払うように、皇太子は次の間へと足を運んだ。
続き部屋は、仮眠室、というよりは、筆頭魔導士の生活の場である。
実家から絶縁され、自宅を持つのも面倒がる魔導士は、
王宮内に私室を与えられていながら、この寝室の方を住処にしている。
この部屋に入れるのは、魔導士の主である自分と、一人の少女……
僅かに足が鈍る、そこは魔導士の聖域だった。
少女と二人で、穏やかに過ごす為の・・その部屋もまた、執務室と同じに破壊されているのだろうか?
だが、それは杞憂に終わった。
カーテンも引かれていない窓から差し込む、淡い月明かりに浮かび上がる室内は、
以前と変わらずひっそりとした佇まいを見せている。
皇太子は、親友が何に腹を立てたのか、おぼろげながら判った気がした。
「まったく……よくも荒らしたものだな。誰が片付けるんだ?私は手伝わんぞ」
部屋の中央に置かれた、天蓋付の大きな寝台の上に蹲(った黒い影が、肩を震わせる。
陰鬱な笑いが響いてくる。
「メイが戻ったら、掃除するだろうぜ……」
大概のことには動じない皇太子の背を、冷たいものが走りぬけた。
「!?シオン?」
再び含み笑いが流れる。
「心配すんな……・狂っちゃいない……・寸前かも知れねぇがな……」
危うい響きを持つ笑いに、眉を顰めながら、窓際にあった椅子を寝台に近寄せて、彼はやっと腰を下ろした。
「なあセイル。あいつ、ここに来る度に、掃除していきやがるんだ。
散らかってるだの、片付けろだの文句いいながら、なんか嬉しそうにな……」
過去形で言わない魔導士に、セイリオスは胸の奥が痛む。
「自分の部屋なんか、まともに掃除しねぇ癖に、
ここだけ丁寧にするってんだから、何考えてやがるんだろうな?」
甲斐々ヽ(しく叩きや箒(を振りたてる少女の姿が思い浮かび、
彼は僅かに口元を緩めた。
「全部、お前の為だろう……」
「ああ……あの日もそうだった……」
「あの日?」
「ダリスに行く朝だ。暫く留守にするんなら、帰って来た時の為に、余計に綺麗にしないと、とか言って……
腰が砕けてやがる癖に、箒持とうとするから、止めろって言ったんだぜ俺は。寝とけってな……」
「……シオン……」
内容に含まれる微妙な意味に、呆れ返った声が出た。
しかし親友は、お構いなしに言葉を続ける。
「帰ってきたら、専属で掃除させてやる、ついでに飯も作ってくれ。この先一生……
そう言ってやったら、どうしたと思う?あの嬢ちゃん」
用意に想像がついて、苦笑が浮かぶ。
「殴られたのだろう?」
「ったく……笑顔一つで七難隠しやがって。飯炊き女が欲しいんなら、他を当たれ、とさ。
男が持つ、ささやかな夢ってのを、ぶち壊すのが上手いんだ、俺の嬢ちゃんは」
僅かに陰鬱な影が薄れ、年相応の、青年の顔が垣間見える。
「……そのくせ、レオニス相手に練習をして、ポトフ喰わしてくれる予定だったらしい……天邪鬼が……」
「メイらしいな……」
「喰いっぱぐれた俺は、どうすりゃいいんだよ……」
苦い溜息が、歯の間から漏らされる。
衣擦れの音と共に、寝台の上の男が、膝を抱え込むのが見えた。
セイリオスは背凭れに体を預けると、ゆっくりと息を吐いた。
そして、藍(を基調とした寝台の上で、いじけた子供のように膝を抱える男に苦笑する。
「シオン」
「なんだよ」
「吐き出せ……全て」
影が身じろぎ、結われていない髪が、肩を滑って背中に落ちる。
「何だよ、籔から棒に……」
「お前が狂う前に、私に吐き出してみても、損はないだろう?
第一、さっき、八つ当たりという、楽しい事もして貰っているからな。聞く権利もある……それに……」
悠然と指を組み合わせて、皇太子は小首を傾げた。
「お前とレオニスは、随分端折った報告をしてくれているからね。この際だ、全部聞かせてもらおう」
盛大な溜息が、今度は寝台の主から発せられた。
「何にもね〜よ……」
面倒臭そうな応えが返る。
セイリオスは強情に首を振った。もはや一歩も退く気はない。
「お前を筆頭魔導士にしたのは私だ。その地位が彼女に災厄を齎せたのなら、
私にも咎(はあるはずだろう?」
破壊された執務室。親友がただ物に当っただけでないのは明白だった。
かつて愛しいと想った少女の為に、そして何よりも得難い朋の為に……
自分が一番辛い時、支えてくれた友の為に……
この男が全ての本音を話すとは思わない。それでも、何かの足しにはなるだろう。
皇太子は穏やかな視線を寝台に向けた。
「吐き出せ、シオン。そうしなければ、お前は、本当の意味で、メイを取り戻せないのじゃないか?」
長い沈黙が横たわった。
やがて、影が身じろぐと、セイリオスの膝の上に、何かが放り投げられた。
小さいながらも、しっかりとした重さのあるそれを手に取ると、琥珀の液体が月光にぼんやりと光を溜める。
「何だ?」
「マイルズが寄越した薬酒だ……聞くのに飽きたらそれを飲ませろ」
旧知の女医が、シオンの為に調合した、強力な眠り薬らしい。
指に伝わる魔力の波動に、懐かしいものを感じる。
「判った……さあ、いくらでも愚痴るといいぞ」
「お人好しが……このシオン・カイナス様の愚痴だ。滅多に聞けね〜ぞ。腹据えろよ」
言い返す声音に、幽かな照れと、嬉しげな響きを感じるのは、自惚れだろうか?
「しっかり拝聴して、あとで宝物庫にでも入れておくよ。記念にね」
小さな笑いの後、言い難そうな、躊躇いがちの言葉が、ぽつりぽつりと漏らされる。
月明かりを受け、その声に合槌を返しながら、皇太子は軽く目を閉じた。
夜は、まだ終わりそうにない。
「はぁ……っ……」
たまらず声が漏れ、喜悦の震えが全身に広がる。
香炉から立ち昇る芳香に、頭の芯が熔けていくようだ。
彼に見える物は、無数の燭台が並べられ、蝋燭の炎によって描き出された魔方陣。
その中央に置かれた寝台の上には、彼と、組み敷いた女の白い肌。
今だ胎内にある己自身に、内壁の痙攣が心地良く、更なる欲望を煽り立てる
望んだ女が、自分の物になった。
例えこれが闇に魂を売り渡す儀式だとしても、もはや何の悔恨もない。
悶え身を反らす女が目に眩しい
「まだ足りない……貴女の全てが欲しい……あの男の事等、何も残らないくらいに……愛しています……メイ・・」
熱に浮かされたように呟き、媚薬と教えられた塗り薬の壷に手を伸ばす。
ねっとりとした薬を、引き抜いた己自身に、再びたっぷりと塗りたくり、
更なる快楽を求めて、女の中に押し入っていく。
女の体が反り返り、声にならない嬌声が、白い喉を振るわせる。
激しく息を荒げながら、自分の行為に没頭する青年は、何も気がついてはいない。
媚薬のねっとりした潤滑剤を使わなければ、女の中には入れないほど、
その花弁が蜜を出そうとしていないことにも、反り返った女の口元が、声にならない言葉を繰り返している事にも……
その唇は、常一につの名前を呟いていた
―――シオン―――
何度も、何度も繰返し……
窓の無いその部屋には、月の光は届かない。
朝靄の中、黒塗りの馬車が、小高い丘の屋敷を目指していた。
街道に差し掛かり、丁度走っていた、朝一番の乗合馬車を追い越していく。
その時、乗り合い馬車から、開け放たれた車内の様子が垣間見れた。
壮年の男が、女を伴って乗車している。
女は疲れきっているのか、男の肩に頭を預け、眠っているようだ。
おそらくどこかで開かれた夜会の帰りなのだろう。どちらも華美ではないが、華やかな格好をしていた。
キール・セリアンは、自分もまた早朝ゆえに半分眠りの中にある婚約者に肩を貸し、
聊(か面映(い状態であった所為で
、何時もは気しない、他人の様子をぼんやりと覗(い見て、女の顔に仰天した。
「メイ!?」
瞬く間に走り去る馬車の後ろを睨みつけ、思わず御者に叫んでいた。
「おい!あの馬車を追え!」
いきなり耳元で怒鳴られ、シルフィスは飛び起きた。
「どうしました?キール」
しかし、シルフィスの問いに答える余裕など無く、青年魔導士はいっかな鞭を使おうと無い御者に焦れ、怒声を浴びせる。
「何やってんだ!もっと早く走れ!」
車外の御者席から、のんびりとした応えが返ってくる。
「んだどもお客さん。この駄馬とあの馬車じゃあ、元から無理だすよ」
うんざりするほど暢気な声に、キールは苦々しく舌打ちをする。
「くそ……」
若草色の目は、食い入るように小さくなる車影に据えられていた。
「あの馬車が、どうかしたんですか?丘の上の館に行くようですね」
何も知らない分、冷静に状況を見渡せたシルフィスの声に、青年魔導士ははたと婚約者の顔を見た。
一気に思考が廻りだす。
「おい、次の町までどれくらい掛かる?」
「次なら〜一時間くらいで着くだすよ」
御者の答えに頷き、キールはいきなりシルフィスの肩を両手で捕らえた。
「キール!?」
いきなりの行動に、思わず頬を染めるシルフィスには構わずに、
キールは真剣な眼差しで自分とよく似た翡翠の瞳を覗き込む。
「シル……次の町には、騎士団の駐屯地があったな?」
「はい……」
「馬には乗れたな?早駆けはできるか?」
異様な迫力に、シルフィスは小さく頷いた。
「俺は町からここまで戻る。いいや、ここに残る。お前は馬で王都へ走れ。伝令馬なら半日で着く筈だ。
そしてシオン様とクレベール大尉に知らせるんだ……・メイを見付けたと……」
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