The valley of the plum tree


「朝まで、何も考えずに……眠れ」
 そう呟いて、抱きしめる腕に力が篭る。
 今だけ……今だけなら……
 この薫り立つ花の里の中だけで咲く花
 朝までの、わずかな夢……

 side‐Diana

 パチパチと薪の爆ぜる音を聞きながら、ディアーナはそっと頭を持ち上げた。
 すぐ上に、整い過ぎた細面の顔が、深く瞼を閉じている。
 心臓が撥ねた。
 見慣れている筈なのに、自分を包むように抱きしめて、なかぱ凭れ掛かる位にして眠っている姿は、見慣れない黒い色の服と相俟って、この最も身近であるはずの人を、見慣れない男に見せていた。兄妹の邂逅
―――少し……お瘠せになった……?―――
 暖炉の薪がひときわ大きく爆ぜ、脆くなった所からごそりと折れる。この薪が燃え尽きれば、後、暖を取れるのは、お互いの温もりだけになるだろう。
 がたがたと鳴る窓枠と、今にも破られそうな音を立てる屋根の板が、嵐がいっかな去りそうに無い事を教えている。
 それは、不思議な事に、不安よりも安堵を齎してくれる。
 今なら、今だけなら。この人は自分だけのものだから……
 
 クライン皇太子セイリオスは、隣国の王女と婚約をした。王族の婚姻にならい、クラインにとって最も役となる国との政略結婚である。
 セレスティア公国への輿入れを嫌い、親友と共に衝動的な家出をしていた妹姫ディアーナは、潜伏先の隣国でそれを知り、酷く動揺した。
「横暴なお兄様なんて大嫌い!」
 そう言って飛び出してきた筈なのに、思い出すのは、兄の姿ばかり。
 親友の逞しさに支えられ、旅先で偶然出会った馴染みの吟遊詩人に勧められて、意外な演劇の才能を開花させ、旅の一座としてそれなりに楽しくできている筈なのに。ふとしたことで浮かんでくる、兄が奏でたリュートの旋律。微笑む眼差し。自分といる時だけ聞かせてくれた柔らかな笑い声……
 いっかな消えぬ兄の面影に、困惑する日々。
 其処に齎されたのが、クライン国皇太子の婚約の報であった。
 どうしてそうしたのか、自分でも判らない。気がつけば、クラインとの国境線に来ていた。
 婚約者同士となった王女と皇太子が、この地で面談する。式典の場となった小さな山村は、かつて無いほどのお祭り騒ぎとなっていた。
 小さな旅一座は、クライン側の人間に顔を見せないようにしつつ、こっそりとその中に紛れ込んだ。
 式典の場で、蒼い髪の魔導士に護られたその姿を、物陰に隠れるようにして見詰めたディアーナは、"彼"が婚約者の手をとる様を直視できずに、ただ涙に暮れたものである。

 気を紛らわそうと、村の傍にある梅の群生する谷へと足を運んだディアーナは、見事な花の海に、癒される想いがした。
 ついつい時を過ごし、夕暮れ間近になった時、密やかに雨が振り出した。まるで自分の心のようだと、やるせない思いに囚われて、涙のような雨に佇んでいると、そこに、意外な人物が現れた。
「やあ……来たね」
 それが再会の第一声である。
「わたくしが居る事を、ご存知でしたの?」
 驚きもせず、また、失踪を責めもしない態度に、ディアーナは、自分の行動が逐一知られていたのだと悟った。
「メイが、シオンに教えていましたの?」
 旅は世間知らずの王女にも、多少なりとも道理を教えてくれていた。
 親友の恋人・・・(“元”だと、彼女は常日頃訂正しているが)筆頭魔導士の皮肉な笑みを思い出す。
 手の中で踊らされていたのかと苦笑する妹姫に、兄は小さく首を振る。
「いいや、メイは見事にシオンを出し抜いたよ。報告は、私とシオンが独自に放った細作からだ」
 親友を疑った事を少しだけ恥じながら、それでも納得のいかない憤りで、ディアーナは不機嫌になる。本当は今にも兄の胸に飛び込んでいきたいくらい、遭えた嬉しさが沸き返っているのに、なんだか素直にそれが表せない。それもまた、不機嫌の原因となる。
「そうですの。そうして、わたくしたちがさも自由になったと勘違いして、浮かれている様は、さぞ面白かったでしょうね」
 少しだけむくれた姿に、兄が苦笑する。
「一国の王女が、責務を忘れて自由気侭に出来ていたのだ、私の苦労も、判って欲しいものだな」
 まるでただの我侭娘だと、あからさまな当て擦りに、彼女の意地っ張りが刺激された。
 しかし、ここで何時ものように言い返せば、我侭娘を肯定するだけだ。旅をして世間を知り、自分だって少しは成長したところを見せてやりたい。
 この人が知らない自分を・・・何時までも後ろを追いかけていた少女ではないと、教えてやりたい。
 どうしてそう思うのか?
 想いの核には自分でも気付かずに、ディアーナは精一杯大人びた態度で苦笑して見せた。
「ええそうですわ。お陰様でわたくしたちの一座は評判が良いんですのよ。わたくしも見に来て下さった人達に、『まるで梅の木の花の精のように、匂い立つ美しさだ』なんで誉められましたのよ」
 雨に濡れ、重たげに下がった枝垂れ梅の一枝を手にとって、ふくよかな香を楽しむ振りをする。兄の苦笑が更に深まった。
「梅……ねえ……私には、お前はまだまだ『梅ノ木の根っこの精』にしか見えないな」
 臨界点はすぐに来た。
 昔からこの兄は、彼女をからかうツボを心得ている。
「酷いですわっ。何時もいつも、子供扱いなさいますのね!」
 思わず怒鳴り返して、慌てて口を押える。だがもう遅い、兄は常のように腹を抱えて笑い転げていた。
「あははは、そんなすぐにムキになるようでは、子供だといわれても、仕方ないだろう?」
 いつも通りの少し意地悪な兄の笑い声。あの懐かしい王宮で、繰り返されていたやり取りに、ディアーナは、自分が何処か安心したような笑みを浮かべているのに気がついた。
 そう、こんなやり取りを毎日していたのだ。
 この優しい兄の庇護の下で。
 自分が守られていることすら知らずに、ずっと続くものだと思っていたあの日々。
 そこではたときがついた。
 旅先の興業で、いつも多目の木戸銭と、瞳に良く似合うと言って、紫の薔薇を贈ってくれていた初老の紳士。もしや“彼”こそが、兄の庇護の翼の一翼だったのか?
 そう考えれば全て合点がいく。
 どんな時も、何があっても、自分は守られていたのか……
 だがもう、その深い懐は、別の女のものになるのだ。
「ディアーナ?」
 言い返してこなくなった妹に、戸惑ったような問いかけが寄越される。
 彼女は、雨に濡れそぼった自分が酷く惨めに思えてきた。そして、雨が涙を隠してくれるのを有難く思いながら、何とか笑おうと、せめて元王女らしく、品良く微笑もうと、苦労して口元を引き上げる。
「お祝いが未だでしたわ・・・ご婚約、おめでとうございます。お兄様」
 柔らかな空気が、雨に冷やされて凍りつく。
 セイリオスの表情が、心持こわばった。
「ありがとう……」
 掠れがちな返事。
 政略結婚の内情など、王女の自分が良く知っている。愛情の無い結婚が嫌で逃げ出した自分である。兄が婚約者をどう受け止めているかなど判らないが、恋情に基づいた婚約ではないのが、せめてもの救いのような気がした。
 だが、どことなく裏切られたような空しさを感じるのは、妹としての我侭なのかも知れない。
「どうぞ、お義姉様となられる方と、御幸せに」
 言葉の裏に嫌味を載せているのを自覚しながら、ディアーナは、王女らしく膝を曲げて礼を執ると、そのままくるりと踵を返す。
 もうこれ以上、微笑む事など不可能だったから。
 だが、その腕は、兄の大きな手に捕らえられていた。
「離して下さいまし!わたくしは帰りませんわ!セレスティアなんて行きませんもの!」
 顔を背けて見を捩る。業と自分の政略婚を口にして、兄がびくりと震えるのを意識する。
「…………あの婚約は、白紙になったよ・・・」
 兄がそうしてくれたのだと、直感できた。
 優しすぎる人だ、もっと我侭が言いたくなる。
「ならもう、わたくしには用がございませんでしょう?ここにいるのは旅一座の女優ですわ。お放しくださいませ」
 たたみ掛ける妹に、兄が困ったように苦笑した。
「ディアーナ。我々はこんな雨の中で、なにをしているんだろうな?お前が嫌でなければ、雨宿りの場所を見つけたいのだが、どうかな?」
 いきなり酷く当面的な提案をされ、ディアーナは虚をつかれて目を見張った。
 確かに、自分はもう下着までびしょ濡れだし、分厚いマントに守られている兄の髪も、水を吸って重く張り付いている。
 このままでは何れ二人とも風邪を引き込むに違いない。兄が伏せる姿を想像して、ディアーナは不安に駆られた。
「大変!お兄様が風邪を引いてしまいますわ!」
 素っ頓狂な声に、兄は苦笑する。自分を優先しろと、言っているような笑みだった。
「だから、どこかでこの雨をやり過ごそう」
 そう言って、腕を掴んでいた手がはなされ、そのまま目の前で広げられる。
 ディアーナは、おずおずとそれに自分の手を重ねた。

 濡れ鼠の兄妹が、その小屋を見つけたのは、雨脚も激しくなり、風すらも強く吹きつけてくるようになった頃合だった。
 ディアーナは、すっかり冷えた身体を、半ば兄に抱えられて、小屋の奥にある暖炉の前に座らされた。
 森番か樵の小屋らしく、小さな暖炉と長持そして一脚の椅子しかない。
 幸いある程度の薪があり、兄は暖炉に薪を置き、魔法を唱えて火を着けた。
 パチパチと薪がおしゃべりを始めた辺りで、彼は妹を見て不安げに眉を寄せる。
「ディアーナ、そのままでは風邪を引くよ」
 長持の中を漁っていた兄が、どうやら毛布らしい大判の布を取り出した。生地の厚さや汚れを確かめて、洗いたての物だと安心したように呟いた。
「着ているものを全部脱いで、これに包まりなさい。私は、外に出ているから」
 少しだけぶっきらぼうに言い置いて、彼は小屋を出て行った。強い雨に晒される兄が心配で、ディアーナは慌てて服を脱ぎ捨てると、白い毛布を手にとる。素肌に撒きつけ、服を火の側に広げる。気持ち悪くて脱ぎはしたが、さすがに兄の目に下着を晒すのは恥ずかしく、そっと服の下に隠してから、兄に声をかけた。
「もうよろしくてよ。お入りください」
 小屋に戻ってきた兄が、やっとその重いマントを脱いだ時、その下に喪服のような黒い服を着ているのに驚いた。
「お兄様?」
 彼女の知っている兄は、常に正式な皇太子の色である白い服に身を包み、一分も隙の無い堅苦しい姿であった。だが、薄手の黒いシャツと黒いズボンのその人物は、何処か退廃的な、投げやりな雰囲気を持っていた。
「式典では礼装だったよ。シオンが、『人生の墓場に行くのだから、喪服でも着たらどうだ』と言ったので、今日ぐらいはそうしようと思ったのさ」
 やはり投げやりな苦笑に、胸の奥がじりじりと痛む。
「そんなにお嫌なら……」
―――わたくしみたいに逃げてしまえば―――
 言いかけて飲み込む。それができる位なら、彼は皇太子をしていない。
 兄でいてくれ、皇太子であってくれ。そう望んだのはそもそも自分なのだ。
 あの、錠前亭の奥の部屋で……


 兄の秘密。
 本当は血の繋がらない男なのだと知らされたあの日。
 責務に疲れ、刺客に傷つき。それでも立ち上がろうとする姿へ、兄を失いたくない一心で、ディアーナは必死で励ました。
 今思えば、なんと子供だったのだろう。
 自分はあの時、もしかしたら手に入ったかも知れない、唯一の大切な存在を手放したのだ。『兄』を得る為に『恋しい人』を失った。
 ディアーナは、いきなり自分の心の核を掴まえた。
 消えぬ面影。互いの婚約への絶望。側にいるだけで震える心……
―――わたくし・・・お兄様が好き・・・好きだったんですわ・・・―――
 何故今気がついたりするのだろう?手遅れになってから、届かなくなってから気がつくなんて。
 じっと自分を見詰める視線に気がついて、暖炉の具合をみていた兄が眉を寄せる。その様子にはっとして、慌てて暖炉の前にしゃがみこんだ。
「ひ……冷えますわね」
「ああ……」
 言葉少なに頷いて、兄は椅子を火の側に持ってくる。
「ここに座りなさい」
「お兄様は?」
「私は男だ、床で十分だよ」
 泥と埃で汚れた床に、兄を座らせる訳にはいかない。なにより暖炉の火の前でも、山間の小屋は底の方から冷えていく。
 兄を・・・いいや、愛しい男を、セイリオスを、冷えた床などに座らせたくない。
「いけませんわ。わたくしはその薪の上にでも座ります。椅子はお兄様がお使いください」
「ディアーナ」
 頑なにそっぽを向いて、薪に腰を下ろそうとしていたディアーナを、中腰のまま逞しい腕が掬い上げた。
「きゃっ!?」
 思わずあげた悲鳴に、くすくすと含み笑いが帰され、ふわりと暖かく柔らかな感触に包まれる。
 毛布で包まった妹を膝に乗せて、セイリオスは悪戯っぽく笑う。
「折衝案だ。これで二人とも椅子に座れるし、暖かい」
 毛布越しに、彼の腕や胸板を感じる。厚手の布一枚の下の、裸身が震えた。状況を把握して跳ね上がる心臓を、必死で押えながら、赤くなる頬をどうしようと慌てる。セイリオスが又、兄の顔で笑った。
「昔はよくこうやって暖炉にあたったものだろう?離宮の冬には、覚えているかい?」
 忘れられる筈の無い思い出である。記憶の中の少年は、自分との大きさの対比は幾分縮まったものの、その分逞しく慕わしい青年となっている。
 ディアーナは、自覚したばかりの恋情を、どうか相手に悟られないようにと願いながら、そっとその胸に頬を寄せた。
 身体を包む腕が嬉しい。ぴたりと寄り添った温かな胸に、ずっと抱きしめられていたい。
 今この時間が、永遠に続けば良いのに……
 儚い望みに。ディアーナの瞳が揺れる。


Side‐Seirios

「折衝案だ。これで二人とも椅子に座れるし、暖かい」
 そう言って抱き上げた細い体の、軽さと柔らかさに、眩暈を感じるような気がした。
 いきなりの抱擁に頬を染めて慄く、皮膚の薄い唇に、衝動的に自分のものを重ねたくなるのを、持ち前の自制心を総動員して押える。
 彼女のすぐ耳元にある心臓の早さを、聞かれてしまうのではないだろうか?むしろ、それを聞いてこちらの思いに気がついて欲しい。
 熱い布地の下に、柔らかな花が剥き出しで納まっているのを、彼の指は敏感に察知する。すべらかで優しいその感触を、更に確かめたい欲求に炙り殺されるような気がしながら、セイリオスは腕の中の女を、必死で『妹』に差し替える。
「昔はよくこうやって暖炉にあたったものだろう?離宮の冬には、覚えているかい?」
 どれほど生々しい懊悩の中にあっても、あのガラス細工のような記憶の中にある、小さな妹を壊す事は出来なかった。
「私が眠るまで、御伽噺を聞かせてくださいましたわね・・・」
 ため息のように震える応えに、やっと落ち着きを取り戻して、彼はゆっくりと微笑んだ。
「ああ、昼寝をしすぎた日は、なかなか眠らずに、ずいぶん宵っ張りだったな」
 そんな事をいっても、自分も10になるかならずの子供だった。妹を抱きかかえたまま、何時しか白河夜船に乗り込んで、眠りの川を渡っていたものだ。
「お兄様のお話が面白すぎたんですわ。わくわくして聞いていましたもの」
 あの時の小さくて柔らかな妹は、腕の中に収めてしまえば相変わらずの頼り無さで、そのくせ備わり始めたたおやかな線の細さが、彼女の中に眠る女の香りを否が応でも彼に嗅ぎ分けさせる。
 なんとも生々しい下世話な妄想が、何度も頭の中で反芻され、彼の理性を脅かす。
 この世で最も愛しい女。
 いくら妹だと言い聞かせても、心が、体が、彼女こそが己の半身だと騒ぎ出す。
「では、今夜は何が聞きたい?久しぶりだ、いくらでも聞かせてあげるよ」
「むう〜また、子供扱いですの?」
 こちらの苦しさなど微塵も知らないくせに、彼の姫君は口を尖らせた。

 雨は更に強まって、小屋の窓を激しく叩きだす。
 冷え切っていた体に、ようやくほこほことした暖かさが戻ってきた事に安堵のため息がもれる。
 生乾きの髪に口付けを落としたい欲求を飲み込んで、紫の瞳を覗き込む。
「メイと飛び出してから・・・どうしていたのだい?」
 訊ねながら、少女らしいふくよかさが少し薄れ、脆く女らしい線を描き始めた輪郭を目で追う。
―――瘠せたな……―――
 何不自由無く暮らせる王宮から、世間の風も波も強く受けるであろう旅の芸人一座に飛び込んで、どれほどの苦労をしていたのだろう?
 それもこれも、あの、無理矢理に押し付けた婚約への反発が招いた結果だった。
 その反発そのままに、紫の瞳が鋭く見返してくる。
「あら・・・ご存知でしょう?」
 見張られていたのだと、先ほど明かした自分の状況が、腹に据えかねるらしい。
 彼女の中では、自分は腹黒のタヌキになっているかも知れないと、少し苦い気持ちで苦笑する。
「イーリスと旅一座に加わってからしか知らないんだよ。いくら他所の国だといっても、堂々と顔を晒しすぎだぞ。細作がすぐに見つけた」
 うきゅう、などと意味不明の声を上げて、ディアーナが首を竦めた。
「メイは、どうやってシオンを撒いたのかな?次の日、お前が居ないと判って、おまけにメイまで消えていて、シオンはすぐに王都周辺から国境までの街道を閉鎖した。たとえ箒を使って飛んだとしても、女の足と体力では、それほどはやく国境を越えられないだろうってね。だが、あいつの張った網に、お前達は毛の先ほどもかからなかった。どうやって出し抜いたのか、興味があってね」
 あの日の衝撃は忘れられない。
 知らせを受けて飛び込んだ無人の部屋。机に置かれた一枚の置手紙。
『お兄様なんて大嫌い』
 短い文章が、彼女がどれほど傷ついていたかを教えていた。
 開け放たれたままのベランダへの窓が、自分の心に開いた穴そのものに見えた。
 自分の正体を明かし、偽りの兄であったと告白した時、それでもディアーナは、そのまま兄として慕ってくれた。何も変わりは無いのだと、幼い頃からの自分の兄は一人だけだと言ってくれた。
 その無償の信頼を、自分は踏み躙ったのだ。
 それもこれも、了見の狭い男の身勝手さの所為で。

「簡単ですわ。わたくし達に必要だったのは金貨とお菓子とお水だけ。荷物が軽ければ箒はもっと早く飛べますのよ。着の身着のまま、メイがこの世界に来た時と同じ。あの夜、メイはかなり無理をして、一気に国境近くまで飛んでしまいましたのよ。運も良かったんですの。空の上はずっと追い風で、それが箒を思ったより早く運んでくれたんですもの。それに、箒が下りた側には、ここみたいな森番の小屋があって。メイが眠っていた三日三晩、ずっと隠れていられましたの」
 得意げに武勇伝を語る少女に、彼は穏やかな目を向ける。
 くるくると動く瞳は、昔から知っている妹で、そのくせ見慣れない色香が見え隠れする。
 少し目を離しただけで、本当に、匂うような女性になっていく。
「なるほど、つまりあいつが、メイを侮りすぎていたと言う訳か。まあ、それもそうだろうな。彼女にばれないとたかを括って、浮気紛いの密偵操作をしていたんだ。自業自得さ……」
 女を使った敵対貴族への密偵は、危険な遊びを孕んでいて、彼の親友の危険好きな悪癖を刺激した。
 例え本気ではないと判っていても、いいやそれだからこそ、異世界から来た恋人は、不実な恋人に見切りをつけて逃げ出した。
 青褪め、強張った魔導士の顔を見ながら、セイリオスは、自分も同じような顔をしているのだろうと、内心自嘲したものである。
 兄であって欲しいと言った妹。
 自分にとっての兄は、彼一人だと言った少女。
 目の前にいる男を、兄としてしか見ない、愛しい女。
 偽りの手紙にまんまと呼出されてしまうほど、心が求めて狂い叫ぶ女から、兄であれと枷を掛けられた。
 そう思った。
 生まれた時から側にいた男が、いきなり他人になったからといって、『異性』として見てもらえる訳が無かったのだと、苦く感じた。
 だから彼は、兄として精一杯の保護をしようと、王宮に戻り皇太子の仮面を被りつづけた。
 ただどうしようもない黒い石を腹の中に溜め込んで・・・
 セレスティアの王子は、凡庸ながら人柄だけは良いらしい。表からも裏からも調べ上げ、更に国家間の力関係もこちらに有利と判断し、人柄のいい夫と強い発言力の実家があれば、妹姫の行く末も安心だという家臣達に頷いた。
 白状すればなんてことは無い。
 己の手に入らない女なら、いっそ目の届かないほど遠ざけてしまえという、手前勝手。
 近くに居続ければ、やがて再び感情が理性の関を越すのが、目に見えている恐れ。
 浅はかな男の、滑稽な足掻き。
 女神は、ディアーナを彼の手の届かない場所へ、彼の管理から飛び出させる事で、思い知らせてくれた。
 あれから暫く、何も手に着かない日々を過ごし、ようやっと己の所業を省みられるようになった頃、遠く港の町から、彼の宝玉を見出した知らせを受けたのだ。
「トリフェルズの町で、評判の一座が興行している。そこのプリマは、桜色の髪の美少女で、歌う声も愛らしい」
「何ですの?」
「細作からの第一報だ。多少語弊が無いでもないが、すぐに飛んでいったシオンが、お前達だと確認してきたよ」
「まあっトリフェルズは一年近くも前の事ですのよ!?」
「ああ・・・」
 人を差し向け、彼女を連れ戻すのは簡単であった、だが、苦々しげに様子を伝える親友の話に、活き活きとした少女の姿を思い出し、その笑顔を曇らせるしか出来なかったのだと失望している自分に気がつく。
 逸る友を抑え、信頼できる者に、一座への惜しみない援助の窓口となるように頼み置き、彼は離れた所から見守り続けていた。
「厭らしい遣り方だろう?私はこんな男だよ・・・」
 
 外を荒れ狂う嵐とは裏腹に、暖炉は、光と熱で二人を包む。
 温もりと時間がお互いだけを包み込んでいる。
「・・・・・・・・・お兄様は、わたくし達を護ってくださったわ・・・」
 小さな応えに、彼は微笑を深くして、抱きしめた腕にほんのわずか力を篭めた。
「お前は優しい事を言う・・・・・・そろそろ、眠りなさい。雨に濡れて、疲れただろう?」
 今後の事をどうするのか。連れ戻すのか、このまま見逃すのか、今は何も考えたくは無い。
 腕の中にディアーナがいる。
 最愛の女を抱きしめている。
 恋しい女が自分を見詰め、呼びかけてくる。
 それだけで十分だ。
 一年前は聞く度に苦く感じた『お兄様』という呼びかけも、ディアーナだけが使って良い言葉なのだと、彼は今日、よりによって自分に教えられた。
 婚約者となった王女が、全身で媚びるように、『まるでお兄様のように、頼もしくて慕わしい方。婚礼まではお兄様とお呼びさせてくださいませ』と言い出した時。背中を駆け抜けたのは、激怒に近い嫌悪感。
 大切な少女が、自分の為だけに使っていた呼び名を、その王女に盗まれ、汚された様な気がした。睨みつけずに済んだのは、日頃から培った忍耐力と、その忍耐力を常日頃鍛えてくれている親友の皮肉な笑みのお陰だった。
 あの魔導士も、多分今頃は自分の恋人の下へ行き、罵声を浴びているのか、新しく出来たらしい“男”との仲を見せ付けられて、引導でも渡されているのか。
「男というのは・・・・・・馬鹿な生き物だな・・・」
 大切なものほど、無くした後に気がついて後悔するのだ。
「え?」
「メイは、イーリスと仲良くやっているのかい?」
 親友の昔からの悪友は、名前でだけなら彼にも古馴染みであり、何時ぞやは瀕死の怪我を助けてもらった命の恩人でもあった。
 あの厭世的な皮肉屋は、鉄火肌の娘とよく意気投合していたらしい、親友のぼやきが耳に残る。
 しかし、ディアーナは、小さく笑って首を振った。
「ああ、あの噂ですのね。あれはただの方便ですわ」
 いぶかしむ視線に、悪戯っぽい笑みが返される。
「メイって、妙に殿方にもてますの。きっと気さくで馴染みやすいからですわね」
「確かにね」
 クラインに居た時も、彼女の周りには熱烈な信奉者が多かった。その筆頭があの魔導士である。吟遊詩人もまたその一人であった筈なのに、何故こんな好機を活用しないのか?それほど純情には見えなかったが。
「始めはメイも本気でイーリスとお付き合いするつもりでしたのよ。でもイーリスが言いましたの『メイの中には、まだシオンがいる』って・・・メイは怒っていましたけど、次の日からは何も言わなくなりましたわ。多分、イーリスは本当の事を見抜いていましたのね」
 それからは、言い寄る男避けに、イーリスの名前を使っているだけになったのだそうだ。
「メイが言ってましたわ・・・『女って馬鹿、大事なものが何なのか、無くしてから解かる』って・・・あら、これでは男も女も、馬鹿だということになってしまいますわね」
 新しい発見にころころと笑う。だが、その笑いは次第に力を無くし、最後に小さく呟きが洩らされる。
「本当に・・・なんで、それが側にある時に、一番大事だって、わからないのですかしら・・・」
 ため息のような呟きに、凪いでいた心がざわめきだす。
 それはまるで、彼女自身を揶揄しているように思えたから。
「ディアーナ?」
 その言葉の深意を知りたい。
 もしや彼女は、自分との事を後悔してくれているのではないだろうか?自分を求めているのでは無いのだろうか?
 何でそう思ったのか。直感としか言いようがないが、ざわめく心がそう確信していた。

 二人の間で、小さな金属音がして、セイリオスは無意識に目をやった。そして迂闊さを後悔する。
 撒きつけた毛布の襟元、細い首元に金色の指輪が見えた。
 幼い日の約束の指輪。
 ディアーナの初恋の王子から、いつか迎えに行くという約束とともに送られた、思い出の品
 彼女はその約束をいつも夢を見るように語っていた。
 授業をサボる妹に、そんな有様ではその王子が来てくれても、呆れて帰ってしまうぞと、脅し文句に出来るほど、彼の王子との約束は、ディアーナにとって絶対のものだった。
 そしていまでもそうなのだろう。
 一瞬感じた自惚れを、セイリオスは胸の奥で嘲った。
 愛しい女は別の男を待ち続けている。自分の想いは、届く筈がない。
 もし届いても、受け入れられるとは解からない。彼女にとって自分は、兄のままなのだから。
 第一、他の女の手を取ることを決めた今、それを望むことすら、もしかすれば罪なのかもしれない。
セイリオスの想い「お兄様?」
「なんだい?」
「どうなさったの?とても、悲しそう・・・」
 絶望はそのまま顔に出ていたらしい。修行が足りない、というよりは、この愛しい少女の前で、心に偽るのが難しくなってきているのだろう。昔から、彼女の前でなら、素のままの自分で居られたから。心は常に、あの満ち足りた時間を求めている。
「何でもない、少し疲れた。もう、眠ろう」
 心配そうに見上げてくる深い紫の瞳に、これ以上本心が曝け出されるのを恐れて、セイリオスは自分の胸に深く抱え込んだ。
「あ、あの・・・皆心配していないかしら?」
「シオンが上手くやってくれているさ。さあ、お前も眠りなさい」
 柔らかな頬が胸に押し付けられる感触が、どうしようもなく愛しい。
 それ以上を求める体に言い聞かせるように、柔らかな髪に囁く。
「朝まで、何も考えずに……眠れ」
 そのまま瞼を閉じ、呼吸を深くする。
 暫くそうしていると、腕の中の温もりがじんわりと染み込んでくるような気がする。
 例え、あの王子が既にディアーナと逢っていたとしても、今この時だけは、この大切な存在は自分のものだ。
 束の間の独占欲。
 温もりへの安堵感から、何時しか軽いまどろみに入っていったセイリオスは、しかし、その指輪を繋いでいる鎖が、以前自分の額の宝石を止めていたものだという事に、ついに気がつかなかった。


Side‐Diana

 そっと、まどろむ青年を見詰めながら、ディアーナはついさっき、彼が見詰めていた指輪に手をやった。
 これを見た瞬間の、彼の表情が目に焼きついている。
 ほんの一瞬前までは熱く自分を見詰めていたのに、これを見た途端、打ちのめされたような笑みを浮かべた・・・
 胸が絞られるというのは、あんな気持ちなのかも知れない。
 この指輪は、思い出の王子へのよすが。自分はそう言い続けていた。本当は、その思い出もずいぶん掠れて、これをネタにして自分を叱ったり、戒めたり、誉めてくれたりした、セイリオスの姿しか浮かばない。
 この鎖が彼の額を包んでいたと思う度、まだ何か彼との繋がりが切れていないような気持ちになれた。
 だからこれを持って来たのだ。
 だが、そんな自分の心など、彼は知らない。
 これはまだ、セイリオスにとっては、ディアーナの大切な王子の物なのだ。
 期待、したくなる。
 この腕の中に、まだ自分の場所があるのかと。
 指輪を見ての悲しみは、自分の心があの王子にあると思ったからではないのか?妹としてではなく見てくれているからこそ、悲しんだのではないか?と・・・
 詮無い望みだとは解かっている。
 もはや彼の結婚は確定したのだから。
 彼が皇太子である限り、自分は妹なのだから。
 
 黒い服の青年は、彼女の知らないセイリオスだった。
 自分への喪服だと、冗談めかして言った彼は、しかし何時もよりも自由に見えた。例え投げやりな厭世観を漂わせていても、怪我の後、再び皇太子に納まった彼の、何処か凍りついたように無機質な雰囲気よりも、人間らしく見えた。
 ディアーナは、どちらかといえば想念の直感に頼る性質だ。親友のように、何処か醒めた冷静な目は持たない。
 心の赴くまま、その指し示す先に確証を得る場合が多い。
 親友を見出した経緯もそうだし、あの懐かしい国で親しくしていた人達を見つけていった過程も直感で人柄を見分けていったと言える。
 そんな彼女の目には、白い正装の皇太子が、死に衣装を纏った殉教者のように見えた。
 そんな悲壮な覚悟を感じていた。
 だからこそ、自分が傍に在って少しでも笑えるように、少しでも心が軽くなるようにと、ディアーナなりに努力していたつもりだった。だが、セレスティアとの縁談は、そんな努力も自分の存在も、要らないのだと言われた気がしたのだ。
 妹として、という無意識の言い訳を使っていた、自分の恋心には気がついてなくても、他国へ嫁せという兄の命令は、十分彼女を絶望させた。親友の家出の誘いに即座に応じたのは、要らないのならばこちらから出て行ってやれ、という自棄になっていたから。
 子供っぽい意地の張り方だと、今は思う。
 つまりはそうする事で、彼の注意を引きたかったのだ。旅芸人一座に飛び込んだのも、むしろ業と目立ちたかったからだ。きっと自分を探してくれているだろう、彼に見つかりやすいように。揺れる心
 自分の行動に反対しなかった親友も、似たような気持ちを持っていたのかも知れない。だからあの時、吟遊詩人は、黙って微笑んだのだろう。
 白い死に装束は、本来の青年を皇太子という墓標に葬る覚悟の表れなのかもしれない。何故なら、その「白」を脱ぎ捨てた今の彼こそが、本当の姿のように見えるから。
 皇太子セイリオスではないのなら、この青年は誰だろう?
 ふと、誰も居ない時、彼の親友の魔導士が、親しげに呼んだ名前が浮かんできた。
―――セイル―――
 魔導士の気安い呼び方は、なんだか酷く自分を苛つかせた。兄を取られたような、そんな不満。
 間違いなくそれは嫉妬。
 本当の兄を知っていた魔導士へ、兄の仮面の上からでしか接する事の出来ていない自分からの焼きもち。
 では今なら?
 ここに居るのはもう第二王女のディアーナではない。旅芸人のディア。
 自分を抱きしめているのは、皇太子ではない。見知らぬ青年。
 ディアーナは、なんだか酷く緊張しながら、逡巡した。
 それでも、深く瞼を閉じ、まどろみの中に相手が居る安堵感に背中を押されて、多分彼の本当の名を口にした。
「セイル・・・」
 愛しさが胸に広がる。
 名を呼ぶというのは、絶大な効力があるのだと理解する。
 魔導士が時々、自分の名において魔力を行使するのは、この強い力を得るためなのかもしれない。
 もう、何もかもいらない。この青年だけが手に入るのなら。
 彼が欲しい。自分だけに微笑んでいて欲しい。ディアーナを捨てたディアを愛して欲しい。
 込み上げる衝動に突き動かされて、ディアーナはおずおずと首を伸ばす、すぐ傍まで俯いた端正な貌に、自分の顔を近寄せる。
 頬に口付けをしようとして、それが妹であった時に何時もしていた挨拶だったと、なんとなく不満になった。
 愛していると、この心を伝えるには、他の場所。その形の良い唇にしか、この心は伝えられないだろう。
 直感と恋情が導くまま、ディアーナはセイリオスの唇に、そっとわななく唇を重ねた。

Side- Seirios
 風がカーテンを揺らす。
「セイル、セイル。起きてくださいませ」
 涼やかな声とともに、小さな手が身体を揺する。
 そっと目をあければ、彼の宝物が微笑んでいる。
「もう朝ですのよ。お仕事に遅れてしまいますわ」
 仕事?政務ならば侍従が迎えにくる。それにしても、体が痛い。
 起き上がりながら軋む体に呻き声を洩らす。ディアーナが眉を下げた。
「寝台、固くて・・・まだお慣れにならないんですのね。ごめんなさいですわ」
 悲しげな瞳に慌てて手を伸ばす。
「ディアーナ・・・心配しなくて良い。すぐに慣れるさ」
 そう言った瞬間、やっと今何処に居るのか思い出した。ここは海辺の町。
 二人で手に手を取って逃げてきた町。
 友を欺き、国を捨てた。錠前亭の部屋から、自分を受け入れてくれたディアーナとともに・・・
 海辺の家はいつも明るい光に満ちていた。
 二人はここで、夫婦として暮らしているのだ。
 身に付けた知識で、町の子供たちに教え、ただの人としての生活を続けている。
「朝ご飯、出来ていましてよ」
 可愛い妻が微笑む。
 最近は失敗も減ってきた。
 ずっと欲しかったもの。
 この穏やかな暮らしが、何時まで続くのかは判らない。
 胸は温かいのに、心が痛いのは何故なのだろう?幸せで辛いなんて、思いもしなかったことだ。
「セイル?」
 不安そうに覗き込んでくるその瞳に、ゆっくりと頭を振る。
「なんでもないよ・・・幸せだと思ったのさ」
 途端に、花が咲くような笑みが寄越される。
「わたくしもですわ」
 堪らなくなった。
 細い腕を掴み、無造作に力を入れる。聊か乱暴に胸に落ちてくる小柄な身体を抱きしめる。
「セイル?どうしましたの?」
「幸せなんだ・・・私は幸せなんだ・・・」
 言い聞かせるように呟く。そうしないと、今この生活は壊れてしまう。
 自分が壊してしまう。
 胸が詰まるような、この幸福感、心が絞られる渇望。このまま居たい。だが、違うのも知っている。
 自分の責務も家臣の信頼も、クラインの行く末も、まだ自分は背負っているのだ。捨ててはいけないものなのだ。誰が言うのではない。自分の心がそう言っている。
 それでも、腕の中の存在を、愛しい女を、もう妹には戻せない。
「ディアーナ・・・永遠に、一緒に居よう・・・」
 それだけが唯一の願い。
「何を言ってますの?当り前の事ですわ」
「そうなのか?」
「ええ、わたくし達は、二人で一つの魂なんですのよ」
 魂を分つもの、真の半身。
 泣きたくなるような、幸福感。彼女さえ居れば、この命すら要らない・・・
「愛しているよ、ディアーナ」
 小作りの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「わたくしも、愛していますわ・・・セイル」
 柔らかな感触に、眩暈がした。

 意識はゆっくりと覚醒し、自分が夢を見ていたのだと、どこかで判って、軽い失望を味わう。
 だが、夢の中のまま、唇に感じている暖かさはどういうことだろう?小さな震えが感じられるのは何故なのだろう?
 そっと目を開けかけて、間近に在る白い肌に、慌てて閉じる。
 自分の状況が判らなかった。
 これはまだ夢の中なのか?海辺の家で、幸せを繋ぎとめようと必死になっていた、あのままなのか?
 だが、嵐に打たれる窓と屋根の騒音が、これは現実だと示している。
 いいやもしかしたら、白々しい夢に嫌気が刺した自分が、より現実的な、それで居て甘い夢に差し替えたのかもしれない。
 ならば良いか・・・
 愛しい女から精一杯の口付けを受ける、こんな至福。夢ならば、醒めたくはない。
 だが、その感触は遂に唇を離れ、甘い吐息とともに、涙にかすれた囁きが洩らされる。
「愛していますわ・・・セイル。ただの妹のままでも、もうこの先、お会いする事が出来なくても・・・ずっと、愛していますわ」
 行動する時に、何も考えなかった事は、あの偽の手紙で誘き出された時だけである。少なくとも今までは。
 囁きに目を開けば、紫の瞳が涙で濡れていた。薄っすらと上気した頬と泣き笑いの表情に、頭の中が真っ白になった。
「・・・っ・・・」
 小さな喘ぎに我に返ったときは、ディアーナの唇を自分のもので覆い、歯列をこじ開けて薄い舌を貪っていた。
 自覚したら余計止まらなくなった。
 甘い唾液を啜り、角度を変えながら何度も深く舌を交える。
 抱きしめた細い体は、その度に強張り、びくびくと撥ねるような反応を示したが、彼を拒む様子はなかった。
 男の本能が、それに増長する。
 長い間、ただ心の奥で渇望しつづけていた感触を、今現実のものとして手に入れた。
 ゆめの中のディアーナが言ったように、魂の片割れを、手に入れたのだ。もう離すものか。
 まるで身体を交える程の情熱を傾けて、唇を重ねつづけた。

 ディアーナがぐったりと力の入らなくなった身体を、彼に持たせかけて震える息を吐き出すのを、しっかり抱きしめた腕に感じる。
 セイリオスは、多少の罪悪感を感じながら、くすりと小さく笑った。
「すまない、驚いたか?」
 こくんと素直に頷くのが、堪らないほど可愛らしく思える。
「だが、お前が誘ったんだぞ?」
「わたくし、誘ってなんかっ!」
 慌てて離れようとする温もりを、逃がさじと力を篭めて、腕に閉じ込める。そのまま肩口に顔を埋めている耳元に、わざと息だけで囁いてやる。
通う喜び「私は、お前に、寝込みを襲われたんだぞ。誘っていなくてなんなんだ?」
 長い口付けで敏感になった体が、びくんとはねて、髪の間から見える頬が瞬時に赤くなる。
「意地悪ですわ、お兄様!」
「もう兄じゃないよ」 
 聞きなれた文句に、ずっと言い返した買った反論を返してやる。途端に薄い肩が揺れた。
「もう、お前の兄じゃない。兄なんかで居られない。違うかい?」
 桜色の髪に指を埋めて、押さえつけるように力を篭める。今はなんとなく、自分の顔を見て欲しくない。
 多分、照れて赤くなっているはずだから。
「それとも、お前には、兄の方が良いのかい?」
 心にも無い疑問を投げかけてやり、手の下で小さな頭が激しく振られるのに安堵する。
「私もだ・・・」
 込み上げる喜びのまま、細い身体を抱きしめた。
 今この瞬間。
 お互いしか、この世に存在していない。
 朝までの短い時間。
 嵐に閉じ込められた楽園が、ここにあった。


Side‐Ume

「夢を見ていた・・・二人で全てを捨てて、海辺の小さな家でひっそりと暮らしている・・・そんなささやかな夢を、見たよ」
 セイリオスは、ディアーナを抱きしめたまま、燃えつきかける暖炉を眺めていた。
 椅子の脇に積まれた薪を一本手に取ると、無造作に暖炉の中に放り込む。暖炉の為に少女から手を離したりなんてするものか、と言わんばかりの態度である。
「そうできたら・・・素敵ですわね」
 うっとりと青年の腕に身体を預け、ディアーナは自分もその夢を見ているかのように呟く。だが、セイリオスはゆっくりと首を振った。
「いいや、私は、夢の中のあの男には、お前を渡したくない」
 奇妙な言葉に、彼女は首を傾げ、そっと青年を見上げる。
「何故ですの?セイルの夢なのでしょう?」
 ごく自然に名前を呼ばれて、彼は静かに微笑んだ。
「ああ、夢だよ。何の柵も責任も名も力もない。在るのはただ、お前を抱きしめる腕と、お前を見詰める目と、お前を愛する心だけ。本来の私は、そんな何処にでも居る男として生きる筈だった・・・」
 新たな薪に火が移り、暖炉の炎が力を増す。
「この前、お芝居をしましたの。その中で、こんな科白がありましたわ・・・『捨ててください、名前も過去も。わたくしだけのものになってください。名前や過去が何になりましょう・・・貴方がここにこうして生きている・・・それだけでわたくしは幸せになれるのです。野草を摘むときも、貴方の事を想っただけで胸が弾みます。そしてあなたに触れている時はどんなにか幸せでしょう・・・あなたの温かさが愛しい・・・・・・こうして永遠の時を迎えてもよいと思う程でございます』今のわたくしの心そのものですわ」
 真っ直ぐな瞳と、同じだけ真っ直ぐな言葉に、セイリオスは微笑みを深くして、悪戯をするように、小さな唇を啄んだ。
「ああ、多分そうなんだろうな。名前も過去も、お前ほどに大事ではない。お前を失うくらいなら、何もかも忘れていたい。ディアーナ、私はお前が愛しい。お前を見る目、お前を抱く手、お前を愛するこの身さえあればいい。私が生まれそのままの男なら」
 同じくらい真っ直ぐな、睦言紛いの言葉を返して、再び羽根が翳めるように唇を触れさせる。
「夢の中のあの男は、まさしく今の言葉そのものだったよ。何もかも放り出して、思い通りの生活を手に入れて、幸せそのもので、幸せを噛締めながら、自分に幸せだと言い聞かせていないと、幸せなのが判らない。そんな男だったよ」
 うっすらと頬を染めながら、じっと見上げてくる紫の瞳。
 それが瞬きをする瞬間を逃さずに、唇の感触を楽しむように触れさせる。
「しかし、あの男も判っては居たんだ。自分がどれほどのものを背負っているのか。全てを放り出して、道理を外れて、人を裏切り、自分だけの我侭を押し通しているのが、どんなに卑怯で、情けないかって事をね。それを罪と認めているからこそ、償いの時を恐れ、怯えていた」
 夢の中の自分を他人のように話ながら、紅く色づいた花びらを、唇の先だけでなぞる。
「ねえディアーナ。何時も影に怯えて、お前に縋り付いているような男に、私はお前を嫁がせるなんてしたくないんだ。そういう男は、いつか必ず、もう一度何もかも放り出す。つまり、次に放り出すのは、おまえという事になる」
 ディアーナより少しだけ薄い紫の瞳が、何か痛みを感じているかのように揺れた。
「セイルはそんな事しませんわ」
 頭を振る顎を、軽く抑えて、痛みを和らげる薬だと言いたそうに、今度はぺろりと唇を小さく舐める。
「判らないよ、人はその時で変わるものだ。今の私のようにね」
 確かに、かなり変わっている、とディアーナは思った。
 声音や眼差しに、何か、思いつめたというよりは、むしろきっぱりと決断したような自信が潜んでいる。第一、行動自体がまったく違う。
「セイル?」
「なんだい?」
 答えながら、再び啄むように唇の先だけを合わせる。
「お話するか、キスするか、どちらかになりません?」
 ディアーナの火照る頬に、今度は軽く音を立てて吸い付いてくる。
「ならないね。どちらもしたいんだ。同時にしていくしかないだろう?」
 今の二人には、限られた時間しか無いのだから。半分は心の中で付け足して、セイリオスは少しだけ長く、恋人になりたての少女を味わう。
 強引なところがあるのは前から判ってはいたが、ここまで強引だっただろうか?
 ディアーナは、セイリオスの変化に首を傾げた。

「いいかいディアーナ。私は今までお前を見続けてきた。お前の幸せだけを願い。その為なら、何でもしようと思っていたよ。一度訊ねた事があったね?」
 相変わらず言葉の合間に唇を掠め取りながら、迷いを捨てたようにあでやかに微笑む。
 そんな笑みにどぎまぎしながら、身動きできないほど抱きしめられて、ディアーナは小さく頷く。
「ええ。お前は今幸せか?と・・・んっ・・・わたくしは幸せだと答えましたわ」
「憶えてくれていて嬉しいよ」
 何だか段々この攻撃にも慣れてきた。口付けに惑わされずに、言葉をつなげる。
「セイルはわたくしが幸せなら、自分も幸せだと仰いましたわね」
 甘い唇を確かめながら、セイリオスの微笑が深まる。
「ああ・・・いまでもそうだよ」
 自分でも可笑しいくらいに止まらない。
「私はクラインに戻り、自分の正体を公表する」
 いきなりの爆弾に、ディアーナは目を見開いた。甘い仕草に酔っている場合ではない。
「そんなっ!?だって・・・んっ〜」
 しかし反論は、深く絡みつく口付けに阻まれる。
 今度は長かった。
 首を振って振り払おうにも、しっかり顎を押えられて動けない。胸を叩いて抗議しても、いっかな開放されなかった。
 巧みな愛撫にすっかり力が抜け、好い加減ぐったりしたところで、やっと離された時は、もう半ば潤んだ目で、睨む以外何も出来ない。
 ディアーナは拗ねたように口を尖らせた。
「ずるいですわ・・・」
 尖がっている先に、とん、と素早く重ねて、青年は軽く笑う。
「いいから聞きなさい。お前の心配はわかるよ。ダリスは不気味に沈黙したままだし、私の婚約も、ダリスに対抗する、同盟の為の足懸かりだ。クラインの内部も、一枚岩とは言えない。こんな時にその中心に居る皇太子が、実は偽者だったと言い出すのは、賢いやり方だとは思わないよ」
 深刻な話の筈なのに、セイリオスはくすくすと笑って、相変わらず小さな口付けを止めようとはしない。
「どれだけ国が揺れるか判らないな。婚約者殿は、偽者の王子のところになんて、御輿入れされないだろうし、騙されたと、条約は破棄。貴族達にも王家の信用は地に落ちる。父上・・・国王陛下のご心労は如何ばかりだろう?でもね、それは、25年前に起きているべき事件だったのさ」
「・・・きっと、シオンが止めますわよ」
「あいつに文句は言わせない。いや、むしろあいつなら、面白がるかもしれないな・・・」
 
  友人としての筆頭魔導士は、常に遠慮会釈のない意見具申と、件の捉えどころのない性格そのままに、セイリオスをはじめ周りを巻き込んでは飄々と笑ってのける、お騒がせな男だ。だが、魔導士が騒動を起こす度、皇太子が動きやすい状況になっていくのも確かなのだ。親皇太子派が増え、反対勢力が弱まっていく。最大の功績は、眼の上の瘤であった、ローゼンベルク卿の排除だろう。家臣としての彼を見るならば、これほどの献身を示してくれる存在はない。
 『忠誠』なんて言葉を聞けば、迷惑そうに否定するだろうが、全てのからくりを知った上で、絶大な信頼と尽力を注いでくれる。得難い存在だ。
 それらはすべて、セイリオスに王冠を被らせたい、と、魔導士が思ってくれているからこそなのである。少なくとも、面と向ってでは、魔導士はそう言い続けていた。
 筆頭魔導士のその貢献の深意は解からない。しかし、セイリオスには、彼独特の皮肉に裏打ちされた本音が垣間見える。
「あいつはね、要するに、国をひっくり返したいのさ。血筋の無い王を仕立て上げる事で、血筋だの家柄だのに拘っている連中を、腹の中で嘲いたい。多分それが、そもそもの動機だと思うよ」
 10年以上の深い交流を経て、それにもっと付加価値が加わっていて欲しいが。
「だから、あいつがしたかったように、こっそりとひっくり返すのではなく、堂々としてやろうというのさ。勿論高みの見物なんてさせないよ、今までの貸しがたっぷりあるからね。しっかり働いてもらう」
 言いつつ今度は、さも可愛いといった笑みで、鼻の頭に唇を掠める。
 仕草と話の内容のギャップに、ディアーナはすっかり混乱してきた。
「もうっ。どんどん解からなくなりますわ。好い加減、お話しかキスか、どちらかにしてくださいまし」
 抗議する唇に。カリッと歯が当てられる。
「だから出来ないって言ってるだろう?私達には、朝までの時間しかないんだ。明日からはまた離れ離れだ。その間の分のキスを、貯金しておかないとね」
 またもやの爆弾に、もうディアーナは我慢の限界にきた。パンっと音がするほどの勢いで、青年の両頬を小さな手で挟みこみ、何を考えているのか解からない瞳を睨み据える。
「一人で勝手に決めていらっしゃいますが。わたくしの言葉は聞いてくださらないの?セイル、先程から、ご自分の言いたい事ばっかり・・・」
 むうっと脹れる頬を、長い指がそっとなぞる。未来へと(リリコさん画!)
「ああそうさ。私はもう、お前には本音でしか話さない事にしたんだ。だからもう少しお聞き。これはね、腹黒の政治家の考えなんだよ」
 楽しそうな笑い顔に、悪戯を思いついたやんちゃ坊主だ、と、なんとなく感じる。言っている事は不穏そのものだけれども・・・
「姉上は嫁ぎ、お前は家出した。王家の子供は、今は私だけしか残っていない。その私が実は偽者だった。貴族達はどうするだろうな?王位継承権のある貴族は、ローゼンベルクが没落した今、カイナスあたりだろうが、シオンの兄達に、それ程の手腕も人望もない。そんな時にお前が居たら、すぐにでも後継者という傀儡にされてしまうよ。第一、それでは私がしたいことの邪魔なんだ」
 考えようと寄せられた細い眉が、彼を誘っている。頬の両手に篭められた力など頓着せずに、眉間に唇を落す。
「もうっまた!」
「したいんだから仕方がないだろう?お前達の行方は、私とシオン、それと唯一の連絡係りの、細作しか知らない。貴族達はお前を擁立できない。そもそもさせないけれどね。だから、私は国民に聞いてやるのさ、『私の積み上げた“実”と、空虚な“血”と、どちらを取るのか?』とね。私は、たとえ皆を偽ってきたとしても、長年皇太子として力を尽くしてきた実績がある。自分で言うのもなんだが、良い政策も敷けていると思う。今までの私のしてきた事が認められるか、否定されるか。それは、クラインの国の資質そのものに任せるさ」
 こつんと額同士が合わせられる。悪戯っぽく見詰めてくる瞳には、奇妙にサッパリした光が宿っていた。
「もし皆が認め、民達が支援してくれるのなら、貴族達など構うものかかたっぱしから排除してやる」
 自分は理想を口にしていると、セイリオスは思った。だが、人生の内で、こんな石橋を叩き壊して飛び越えるような冒険をしてみるのも悪くはない。それで、欲しいものが手に入るのなら。
「一年。待ってくれるか?そうしたら、お前を迎えに行く。やりたい事にお前が居るのが邪魔なのも本音だが、お前がその間自由でいてくれる事が、私の支えでもあるんだ」
 言いたいことを言い終わって、やっとゆっくりと桜色の唇を覆い尽くした。

「セイルは、クラインも、わたくしも、両方手に入れるおつもりですの?」
 長い口付けの後、小首を傾げるディアーナに、青年の不敵な笑みが返される。
「男と生まれたからには、野望の一つぐらい持っても罰は当らないだろう?お前さえ居れば何もいらない。だか、名実共にお前を手に入れるには、クライン全部が必要なんだ。だからそうする」
 この少女にはそれだけの価値がある。愛らしい姿を愛でつつ、唇でその存在を確かめる。
「もし、皆がセイルを拒んだら?」
 揺れる瞳にも、もうセイリオスは答えを持っていた。
「詐称の罪に問われ、投獄や追放されたり、または殺されかけたら、その時は後腐れなんて無い、有難く、クラインを棄てさせていただくよ。後は誰に遠慮が要るものか、お前と夫婦になって、夢の中の私のように、地道な暮らしをするさ。ああ、一緒に一座に入るのもいいな。私は曲が作れるし、多分戯曲も書けるだろう。そしてそれをお前が演じる・・・楽しいだろうな」
 本当に夢を見るように、優しい眼差しが注がれてくる。その表情は、それが彼にとって、本当に夢に過ぎ無い事を教えていて、ディアーナは少しだけ悲しく受け取った。
「わたくしには、その方が嬉しいのに・・・」
「どんな結果になるにせよ、何もせずに逃げ出す男には、お前を渡せない。それが自分でもだ」
 きっぱりとした言葉と共に落とされる口付けを、ディアーナは自分の顔を両手で覆って防いでしまった。
「ディアーナ?」
 不満げな声にフルフルと首を横に振る。
「セイルは勝手な事ばかり。私の言う事なんてお聞きくださいませんのね」
 防いでいる筈の手の甲に、柔らかなものが押し付けられる。
「聞くよ。言ってごらん」
 手に吐息を感じで、何だか背筋に不思議な感覚が這い登る。
 ディアーナは、そんな誘惑に負けまいと、ごくんと喉を鳴らしてから、指の間を少し開けて青年を睨みつけた。
「一年、わたくしには待っているしか出来ませんの?貴方が大変な事をしているのに、わたくしは何もお手伝い出ませんの?私はただ邪魔なだけですの?セイルにとって、わたくしはその程度のものですの?」
 そうじゃないからこそ、こうまでしようとしている。一瞬呆れ、次に指の間から覗く眼を指ごとぺろりと舐めてやる。彼女の言いたいことの意味が判ったから。
「ひゃうんっ!?」
 妙な悲鳴をあげて、舐められた指と眼を、もう片方の手で覆う。すると、慌てて半開きになった唇が顕になった。
 図に当った策略家が、勝利の笑みと共にそれを奪う。
「ん〜!」
 嵌められたと気付いた獲物がじたばたともがくのを、腕と唇で押さえつけて、喉の奥から笑いが込み上げてくる
「セイル!わたくしは、怒っていますのよ!?」
 込み上げる笑いに唇を開放して、くすくすと肩を振るわせるセイリオスに、ディアーナは痛く憤慨した。自分の必死の言葉など、聞く気もないのか、この男は?何だか、蔑ろにされているような、せっかく通じたと思った心が、また遠くなってしまったような気がしてくる。その気持ちは、そのまま大粒の涙になった。


「ディアーナ!?ああ、ディアーナ。すまない。浮かれすぎたようだ」
 パタパタと落ち始めた涙に、慌てて笑いを引っ込めて、セイリオスは、瞼や頬を唇で拭う。
「ひっ・・・っく・・・セイルは、わたくしが側に居ない方が良いんですのね。わたくしはただのご褒美ですのね」
「ちがう、違うよディアーナ。すまなかった。もっとちゃんと説明しよう」
 宥めるようなキスを繰り返して、何度も詫びていると、ようやく嗚咽が間遠くなり、少し拗ねた面持ちの少女が、じっと見上げてくる。
 もうそれだけで、実の所、への字になった唇へ、羽根のような口付けを幾つもしたいのだが、さすがにそれでは決定的に嫌われるかもしれない。
 手の平で半分近く覆えてしまうほど小さな背中を、そっと撫ぜながら、赤くなった瞳を覗きこんだ。
「ディアーナ。私はね、例え夫婦であっても、常に同じ事に対処していなければならないとは思わないんだ。むしろ、それぞれが別々の事に当った方が、問題は早く片付くだろう?」
「仰る意味が解かりませんわ」
「私は国をひっくり返す。もし上手くいって、クラインを手に入れれば、次は真っ先に、お前を迎える。王妃としてね」
 瞬間、火がついたように頬が染められる。まったくこの娘は、自分の理性を吹き飛ばすのが上手い。セイリオスは、我慢しきれなくなって、ディアーナの唇を掠め取った。
「ではお前が王妃になったとして。その時こそ、私の政務の手伝いを存分にしてもらうつもりなんだよ。王というのは、王宮に閉じ込められがちだ。なかなか民草の意見や考え方等は判らない。しかし、判らなければ、民の為の政策は敷けない。それを、お前が助けてくれ」
「どのように?」
「旅をして、その土地土地に暮らす人々を良く見て来てくれ。国々でそれぞれの生活や、その国の民の在り様を具に見て来るんだ。そうして、それを私に教えておくれ。その人々がもっと幸せに暮らすには、どうしたら良いのかというのを、必ず考えるようにするんだよ。これはお前にも、私にも勉強になる。お前は勉強が嫌いだったが、これならば身が入るはずだ。クラインの未来の為に、国々を見て、学んでおいで」
 深い光りを湛えて、紫の瞳が見詰めてくる。眼を逸らさずに、唇を掠める羽根のような感触を受け止めた。
「それが、わたくしのなすべき事なのですね?」
「詭弁だと思うかい?ただ言いくるめていると?」
 花が綻ぶような笑みとは、こういうものだろう。ディアーナはゆっくりと頭を振った。
「いいえ。わたくしは、わたくしのできる事を致しますわ」
 一つの目的に向って、二人は別々の道を選んだ。その道が必ず交わる確信と共に。
 二三度唇を盗んでから、再び深く重ねる、今までよりもなお深く、激しい口付けに、二人は薪が燃え尽きたのすら気がつかなかった。


 どちらから離れたのか判らないが、ほんの少し唇を離して、お互いの瞳を見詰め合う。幸福そうに微笑むディアーナが、セイリオスに深い満足を与えた。
「愛しているよ、ディアーナ・・・」
「わたくしも、愛してますわ。セイル」
 やっと、面と向って愛を語り合えたのに気がついたのか、ディアーナは、小さく笑った。
「ずっとずっと、お待ちしていますわ。お迎えを戴くのを。その時は、絶対、セイルの手から、紫の薔薇を下さいませ」
 虚を突かれて、セイリオスの目が見開かれる。そしてうっすらと頬を染めるのを、ディアーナは、してやったりという気持ちで眺めていた。
「気がついてたのか?」
 照れたセイリオスなんて、滅多に見られるものではない。ディアーナは、勝利の凱歌を心の中で歌いながら、もう一つ、先手を打っておこうとほくそえんだ。
「ええ、以前、シオンが珍しい薔薇を育てていたのを思い出しましたの。梅の森で、お兄様とお話しているときに気がつきましたのよ」
「そうか・・・お前に似合うと思ったんだ・・・」
「あのお花、花びらを乾燥させて、全部とってありますのよ。素敵なポプリになりましたわ。それを見ながら、お待ちしていますわね」
 そこで一旦言葉を切って、唇に吐息がかかる頃会いに、爆弾を返してやる。
「お兄様」
 触れ合う寸前で、セイリオスの動きがぴたりと止まる。
「ディアーナ?」
 とがめるような視線に、にっこりと微笑んでやった。
「わたくし、お迎えを戴いて、晴れて妻にしていただけるまでは、お兄様とお呼び致しますわ」
 セイリオスは、なんとも言い様の無い複雑な表情をした。
「ディアーナ・・・そんな呼び方をされたら、キスも出来ないよ・・・」
「ええ、キスは結婚式まで取って置きましょう?もう貯金も十分じゃありませんか?」
 冗談じゃない、し足りないと思っているくらいだ。腹の中で毒づきながら、彼は眇めた目を向ける。
「脅迫かい?」
「どうとでも。待つ身には一日千秋。どうせ待つのなら、『お兄様』にも待っていただかなくては。それがお嫌なら、御気張りくださいませ」
 さすがに、王宮に居た時の少女とは違う。強かさを備えた女性になりつつあるディアーナを、改めて見直しながら、セイリオスは白旗を揚げた。
「降参だ。精一杯、頑張らせていただくよ。ただ、お願いだ。この小屋を出るまでは・・・お前の恋人でいさせてくれ・・・」
「はい、ですわ・・・セイル・・・」
 再び重なる唇に、深い安堵感を憶えながら、口付けの合間に囁きが交わされる。
 未来がどのような形となるのか、いまだ二人には霧の中にある。
 だが、お互いを信じ続けて行けるのなら、必ず、共に微笑む日が来るに違いない。
 それだけが、二人の確信だった。

 窓の外は、とうに嵐も過ぎ、白々と開け始めた空が、朝焼けの前兆を見せている。
 密やかな楽園をいまだ閉じ込めたままの、小屋の外では、嵐に耐えた梅の花が、水滴を煌かせ、硬く閉じていた蕾を開こうとしていた。

END