蒼の刻
その姿は、まるで白い羽を広げているかのように、メイには見えた。
夏の日差しに照り映える川の中州に立ち、背に自分を庇って、シオンは風魔法を唱える。
二人の周りを風が取り巻き、川水を巻き上げて風と水の防壁を展開していく。自分達を狙って放たれた矢は、まるで雲霞の如く降り注ぐのに、半透明の壁がすべてを拭い去る。
巻き上がる風に、シオンの蒼い髪が踊る。結い紐を失ったそれは、白い飛沫を受けて、なお鮮やかに浮き上がっていた。
激化するダリスとの戦闘は、クラインとの国境線でなんとか持ち堪えているといった状況である。
クラインと近隣諸国の連合軍は、一枚岩とは言えなかったし、クライン自体にも、優秀な騎士団があるとはいえど、軍事国家の様相を呈したダリスには、とうてい兵力の及ぶ所ではない。
だが、皇太子セイリオスと、その懐刀である筆頭魔導士の事前の策によって、ダリスの主力であった魔法兵器の製造は、魔力の根源となっていた巨樹の焼失で停止され、今は従来兵器による戦いとなっていた。
それでも、国内の荒廃を隣国併合によって補おうとするダリスの攻撃は執拗で、連合国軍は苦戦を余儀なくされていた。
筆頭魔導士シオン・カイナスが、状況打破の切り札として導入されたのも、戦況を鑑みれば当然といえるのだが、日頃から一筋縄では行かない曲者と評判の男である。その風評通りに、彼は、えらく破天荒な作戦に出た。
街道沿いに展開していた最前線の軍を、一気に引き上げ、まるで国境への入り口を開くかのようにぽっかりと開け放したのだ。
ダリス郡の前には、何の障害も無い凱旋の道が明け渡された。
『空城の計』だと、地球での歴史を齧ったメイは連想した。父の晩酌に付き合うと、必ず聞かされた三国志、稀代の参謀、諸葛孔明の一番突拍子も無い作戦。城も砦も無いけれど、その白々しい開放振りは、あの厭味ったらしい参謀を連想させる。
こんなあからさまな誘いに乗るほど、ダリス軍に頭を使わない指揮官がいる筈も無く、当然そのエアポケットは敬遠された。
だが、攻め手一方のダリス軍が、多少侮っていたクラインに対して、得体が知れないモノへの畏怖に近い警戒心を持たせられたと、誰が気がついただろうか?
何をするのか判らない相手。
平時でさえ、そういう手合は相手にしたくないものだ。ましてや命のやり取りをする戦場でなら、自分に直接の脅威となる。
これが負け戦なら、なりふりも相手もかまってはいられないだろうが、多少なりとも有利に進んでいる戦況でなら、己の保身をどうしても考えてしまうものだ。
危ない橋は渡りたくないだろうし、無謀に切り込むのも二の足を踏む。
シオンは、『何もしない』ことによって兵を休ませ、なおかつ相手の矛先を鈍らせる、一石二鳥の方法で、主導権をクライン側に引っ張り込んだ。
無理矢理同行してきたメイは、はったりの先制攻撃をしてみせた恋人に、呆れ返った視線を惜しげも無く注いでやったものである。
街道から少し離れた山中に、少しだけ開けた川岸が広がっていた。
前後はすぐに渓谷へと形を変え、渡河に適した場所はここだけに見える。
何処にでも勇名を焦る者は居る。
ダリスの一部隊が、ここからクライン軍の横っ腹に奇襲をかけるべく、密かに展開していた。慎重に斥候をかけ、索敵を行い、相手の哨戒網を潜って、如何に効果的に一撃を加ええるか繰り返し模索して、やっとここに辿り着いたのである。
そんな連中の鼻っ先に、なんと敵軍の指揮官が、女連れで現れたのである。彼等はまったくの単独行動に見えた。
川の中州で、小柄な少女を抱えるようにして、筆頭魔導士は敵兵に向けてにやりと笑った。
思いがけない大きな獲物に色めきたった部隊が、総大将の首級を上げるべく弓を撃ち掛ける。それは風と水の防壁に、いとも簡単にいなされた。
唯一彼に届いた一本の弓が、高く結い上げた髪の結い紐を切る。
途端にばさりと広がった蒼く長い髪は、白い飛沫を飛ばす水の壁の中で風に煽られ、あたかも長身の背に広がる翼を思わせた。
蒼い翼は、白い羽根を舞い上がらせ、祈るように天を仰いで呪文を詠唱する魔導士を彩っていた。わざと目立つために纏った白い衣が、その内面とは裏腹に、彼を聖人の如く清らかで涼しげに見せる。
本当は、彼らの地獄の蓋を開く、魔王そのものであるはずなのに。
広い背を見上げ、まるで傍からは男の影で震える小娘のような素振りで様子を窺っていたメイは、ぱちんとさり気無く鳴らされた指を合図に、くるりと背を合わせて、シオンとはまた違う呪文を詠唱しはじめる。
「慈愛深き女神よ、御手に心委ね、安らぎし子等を包みたまえ・・・」
二人の魔導士は、違う呪文、違う旋律、違う音域を重ねながら、一つの魔法を紡ぎあげていく。
魔力を練り、集中を高めながら、メイはこの戦場にシオンが出陣すると聞いて、何が何でも着いて行くと言い張った時の事を、頭の隅で思い出す。
お前を守る為に行くのだと説得する魔導士に、ならば自分にもシオンを守らせろ、と啖呵を切った。それを聞いた時の、照れたような困ったような、それでいて妙に嬉しげな仏頂面がなんとも楽しかった。
彼にしては珍しく、暫く逡巡してから、業と意地の悪い笑みを浮かべて、警告するようにこう言ったのだ。
「なら、俺と一緒に血の池地獄の泥を被るか?その覚悟があるならついて来い」
戦場に出るというのは、殺されたく無いのなら殺すしかないという事である。相手の命を奪って、自分の命を繋ぐのだ。
説得や話し合いなどは、もっと遥か上の方で、チェスの駒のように戦況を見ている人たちがする事だ。
ただ離れたくない、傍に居たい。そんなヤワな考えでは耐え切れない場所。訓練も鍛錬も受けていないメイが、生き残れるかすら保証は無い。
普通なら、メイの心意気を受けて、自分が全力で守るとでも言うものだろうに、シオンはメイを甘やかさない。覚悟を決め腹を据え、自分で血路を切り開いてみろと、彼女を突き放す。
そもそも、巨樹の破壊をした時もそうだった。
シオンは常と同じく飄々とした態度を崩さず、単独でダリスに潜入する彼女を送り出してのけたのだ。その飴色の目の奥に、焼き殺さんばかりの焦燥を閉じ込めたままで。
今回も同じなのだ。
皇太子の名代として全軍を指揮する筆頭魔導士には、メイ一人にだけ注意を向けている訳にはいかない。しかも戦況は明らかにこちらの不利。いざとなれば、メイは一人で身を護らねばならない。
それでも、彼女はシオンに笑ってみせた。
「このメイ様を、見縊んないでよね!」
たとえ手を血で汚したとしても、自分の半生を捨てても得た恋人を、生まれた世界と引き換えにしたシオンを、自分が守る。
この戦争が終わった時、二人の間が致命的に変わってしまったとしても、後悔等しない。後方で、戦場から離れた王都で、ただひたすらに、無力に待つ方が絶対後悔する筈だから。
ゆっくりと二人の両腕が背中合わせのまま広げられていく。
『お揃い』などとふざけて、メイにも着せた白い衣が、夏の日差しを弾いて、見る者の目を焼いた。
「「我が望み、我が祈り。すべては我が意のままに!」」
異なる音が一つの呪を紡ぐ。
埒のあかない弓矢の攻撃に業を煮やした敵部隊が、剛剣を抜き放って突撃を仕掛けた時、『それ』は完成した。
ぐにゃりと川面が歪む。
不意に柔らかくなる足元に、兵士達は思わず目をやった。
川が増水している。既に膝まで水に浸かっている事に気がついて、彼等は目を瞬かせる。思わず顔を見交わす耳に、地を這う地鳴りのような音が聞こえてきた。
「!?」
音の方角、上流を見て驚愕する。
渓谷を半ば飲み込みながら、濁流が小山のように盛り上がって、轟音を轟かせ迫ってきていた。
膨れ上がった水の壁、それは彼らをも飲み込もうと、凄まじい勢いで流れ下る。
気がつけば辺りは闇に沈み、ただ濁流と中州の二人だけが浮かび上がって見える。あの魔導士の魔法か?自然をここまで意のままにする魔法など、どれほどのものなのだろう?ダリス兵は竦みあがり、水から逃れようと必死に走り出した。
だが、水を蹴立てて走る足は、何かに絡められ思うように上げる事すら難しくなる。
「ひぃぃ!」
一人の兵士が悲鳴をあげた。
自分の膝下に、無数の手が絡みついているのに気がついて。他の兵士達も、自由を奪われて断末魔の悲鳴をあげた。
金縛りにあったその場所へ、大量の水が叩き付けられた。
濁流の中、手に絡め取られ、必死でもがくダリス兵の目に、白い衣の魔導士が写る。そして密やかな声が流れてくる。
「死を逃れたくば、我が声に従え・・・」
その囁きは、静かに、そして絶対の響きを伴って、兵士の心をこじ開けていった。
少し気温が上がったと思う。
山中の清流の中にいても、やはり昼の日差しはきつい。
ダリス兵達は、逃げようとしたへっぴり腰のまま、ぼんやりと空を見詰めていた。
このままだと日射病になるんじゃなかろうか?メイは余計な事を心配している自分に苦笑する。
そろそろ、この術も終わるだろう。
そうしたら、この兵隊達は自分の軍に帰る。とんでもないお土産付きで。
二人が掛けた魔法は、本来は禁呪といわれる類のものだ。何故なら、人の心に作用する魔法だから。
兵士たちがどんな幻をみているのかは知らないが、多分えげつない悪夢に違いない。その死ぬほどの恐怖から逃れる為になら、悪魔にだって魂を売るだろう。そう、この蒼い髪の悪魔に。
その悪魔が、ポンと手を叩いた。
ズシャリと兵士達が倒れていく。
やがてぼんやりとした表情で起き上がると、まるでこちらには気づかぬ様子で、ふらふらともときた道を引き返していった。既に彼等はダリスの兵とはいえないかも知れない。クラインの紋章を戦場で見た瞬間から、彼等は他のダリス兵に襲い掛かるだろう。
内部霍乱の為の傀儡として、彼らの心の奥に時限爆弾を仕掛けたのだから。
―――ごめんね……
メイは心の中で、兵士たちに詫びる。
ふと、肩に暖かなものを感じて目をあげた。
何も言わず、シオンがメイの肩を抱いている。
甘やかしはしないけれど、メイが本当に辛いと思う時、この大きな手が、さり気無く支えてくれる。慰めの言葉も貰った事は無いが、この暖かさだけで、沈む心が癒される。
本当にこの男は女誑しだ。
自分をここまで捕らえてしまったのだから。
死や罪すらも厭わぬほどに。この温もりだけで、歓喜するほどに。この男に捕らえられている。
だから、メイもまた、飴色の目の奥に隠された傷に向けて、にやりと笑ってみせてやる。
「これでダリスに広まるわよ。クラインには蒼い魔王が居るってね」
常の笑みを浮かべて、シオンが受ける。
「なら、クラインの炎の魔女も同列だろうぜ」
「なによそれ〜」
途端に膨れる少女を見詰めて笑う魔導士の髪を。川風が優しく弄んでいた。
終劇