たとえば、こんな日常

 セイリオスとディアーナのお供で、クラインを出立して、ほぼ一月。旅にも慣れ、一行は、とある国境の、森の中にある宿に足を休めている。
「ですから、メイはわたくしと一緒の部屋ですの!!」
「なあ、そりゃね〜んじゃねぇか?お前さん、ずっと嬢ちゃん独占してるじゃね〜か」
 ディアーナの宣言に、異議申し立てをするシオン。彼が居る時、必ず繰り返されるやり取りである。
「それが何ですの?当り前のことじゃありませんの?」
 ふん、と鼻息も荒く、ディアーナは一歩も引くつもりはないらしい。
「あのなぁ……」
 ほとほと口論に疲れきって、シオンが肩を落とす。その隙をディアーナは見逃さなかった。
「これで決定ですわね。シオンはお兄様とご一緒してくださいませ」
 苦笑するセイリオスと、憮然としたシオンを残して、戦利品となった親友の腕を取ると、ディアーナは意気揚揚と自室へと去っていった。
「セイル・・・お前さん、ひ・・・じゃない、ディアに甘すぎるぜ」
 獲物を獲り損ねて、シオンは親友に噛み付いた。
「良いじゃないか、あんなにのびのびしているんだ、今が楽しくてしょうがないんだよ」
 一行のリーダーは微笑んでグラスを傾ける。この旅が始まってからの、彼の日課となりつつある晩酌に、憮然として付き合うシオンは、宿の安酒さえ高級品に見せてしまう優雅な仕草に、鼻白んで見せる。
「そりゃあ、いつも耳胼胝に『勉強勉強』って言われてたのが、この旅じゃあ全然いわれね〜からだろ〜ぜ」
 セイリオスは、ゆっくりと首を振った。
「良いのさ、私は、あれが嬉しそうに笑ってくれているだけで、幸せなんだ」
「何甘いこと言ってんだよ、お前さん、女房の手綱緩めすぎだぞ」
 シオンの『女房』という言葉に、セイリオスの手が微かに揺れる。
 その様を見逃さず、シオンはこっそりと眉をしかめた。
「・・・シオン」
「なんだ?」
「お前には・・・・感謝している」
 不意の礼に、大袈裟にしかめっ面で答えてやる。
「聞きたかね〜ぜ、んな科白」
「そうだな・・・」
 瞳の奥に思い詰めた光りを隠しながら、セイリオスは親友の屈折した励ましに、苦笑で返した。

 



 明日は国境越え、休まねば身体がつらい、だが、なんとなく寝付けず、シルフィスは森の中を散策していた。
 森の奥に、古い(ほこら)があった。その中から、小さな悲鳴が聞こえた気がして、シルフィスは咄嗟(とっさ)に剣帯へ手を伸ばし、気配を殺しつつ近寄っていく。
 野党が出る、という話は聞いていない、しかし、あの悲鳴は、明らかに、女性が発したものだ。
 祠の壁にたどり着くと、はたして、ひそやかな声が()れてくる。
「ちょっ・・・やぁっ・・・放してよ、何時だと思ってるの?こんなとこまで連れてきて・・・」
 それは、とても聞き慣れた、仲間の声。
「・・・メイ」
 対して発された声もやはり同じく、よく知る声であるが、その響きは何とも初めて聞くような、奇妙なあせりが現れている。
 シルフィスは、その声に、どこか危険な気配を感じ、ごくりと喉を鳴らす。
 何が起こっているのか?メイを助けに入った方が良いのだろうか?
「だって、ディアも寝ているし・・・」
「寝てるんだろう?だったら気にするこた、ねーじゃねぇか?」
 ひそやかな抗議に、やはりひそやかな答えが返る。
「セイルの奴も寝ているよ。この森は平和そのものだ。起きているのは俺達ぐらいたぜ」
「じゃあ、寝ましょうよ。明日しんどいの嫌よ」
 対するメイの声は、あくまでも不満げだ。
「つれねぇこと言うなって・・・」
 ため息混じりの男の声。
 シルフィスには、なんだか嫌な予感がしてきた。
「ちょっと、シオン・・・・どこ触ってるのよ!!」
 メイの声が小さく跳ね上がる。
「・・・メイ・・・良いだろう?もう、10日もお前に触ってない・・・限界だ・・・」
 切なげなシオンの声に、シルフィスの心臓が跳ね上がる。
「シオン・・・駄目よ・・・こん・・・な、ところで・・・それに、いっつも・・・抱き・・・ついてく・・るじゃないの・・・」
 切れ切れのメイの声も(つや)を帯び、シルフィスの鼓動が早くなる。
「あんなのが、お前に触った事になるかよ・・・」
 どうしたら良いのだろう?これは(すで)に、睦言(むつごと)という会話なのではなかろか?
 いけない、このままではただの出歯亀(でばがめ)である。
 しかし、ひっそりとした森の奥は、風すらも()ぎ、しんと静まり返っている。ここで自分が動いたら、目聡(めざと)い二人のことだ、確実にばれてしまう。いや、別に他意は無かったのだし、ばれた所で構わない筈なのだが、場面が場面だけに、なんとも気恥ずかしい。しかし、このままでは、さらに恥ずかしい事態が、待ち受けているのではないだろうか?だが、果たして、此処で音を立てて、二人の邪魔をして良いものかどうか、第一、自分が盗み聞きしていたなんて、二人に知られたくない・・・
 思考すらも堂々巡(どうどうめぐ)りとなり、シルフィスはその場に固まった。
 男女の会話は進んでいる。
「ぁ・・・ン・・・この……スケベ・・・」
「当たり前だぜ・・・俺は、お前に溺れてるんだ・・・」
 しばしの沈黙・・・いや、二人の早まった呼吸だけが耳朶を打つ。
「・・・やっぱり、お前は甘いな・・・甘くて美味(うま)い・・・」
 ぞくりとするほど艶っぽい男の(ささや)き。
「ばか・・・こんなとこで・・・殿下はディアに何もしないのに・・・あたし達だけなんて・・・ン・・・」
 震えるような幽かな声には、もう抗議の色は無くなっている。
 男が小さく笑う。
「あいつもな・・・この旅の間に、餓鬼の一人でも仕込んどきゃいいのによ」
「なんで?」
 確かに、妙な言葉である。何事もないようにと、自分達はお守りしているのに・・・
 展開が変わって、少しだけ肩の力を抜く。
「先に、既成事実作っといた方が、後がやりやすいんだ。物事は、やっちまったもん勝ちって時もあるんだぜ」
 怜悧(れいり)な政治家が、何を考えているのか、シルフィスには及びもつかない。ただ、シオンが王子と王女の未来を、閉ざすことだけは無いと信じられる。
 この、一年の猶予をもたらしたのも、彼なのだから。
 くくっという忍び笑いが聞こえた。
「お前が消えたのを見計らって・・・今ごろ忍んで行ってるかもな・・・」
「んなわけ、ないっしょ・・・ぁっ・・・」
 声は再び艶を帯び始める。
「わかんねぇぜ・・・・あいつも、俺も、男だからな・・・御馳走目の前にして、我慢しろってのは、(こく)だぜ・・・」
一括(ひとくく)りにしないで……よ・・・・あっふぁっ・・・」
 急に上がった嬌声(きょうせい)に、シルフィスの肩が強張る。
 およそ日頃の彼女からは、想像も出来ないような色めいた声。
 シルフィスの背を冷たい汗が流れていく。こんな声を聞いていいのは、共にいる魔導士だけである筈なのに、なぜ自分は此処に居るのだろう。
 騎士としての条件反射が悔やまれる。
 シオンの含み笑いが聞こえる。
「お前の体だって、俺を待ってるじゃねぇか・・・ほら、こんなに・・・」
「ば・・か・・・」
 何が行われているか、知識としては知っている。しかし、分化前の自分には想像もつかなくて、耳を塞ぎたくても、衣擦(きぬず)れを立てることさえ(はばか)られ、ただひたすら、音を立てないように縮こまるしかない。
 地獄の責め苦にあえぐ、アンヘル族を尻目に、艶やかな嬌声がひとしきり漏れ、濡れた声が男の名を呼ぶ。
「シオン・・・」
「・・・メイ・・・くっ・・・メイ・・・」
 男の声音が変わる。今度はメイが含み笑いを漏らした。
「お返し・・・」
 何かを口に含んだような、くぐもった声。
「・・・く・・・うっ・・・メイ・・・ああ、すげぇ・・・いい・・・」
「・・・んふ・・・・」
 (あえ)ぎ混じりに男の呼吸音が早まっていく。
 耳を(ふさ)ぎたい、逃げ出したい、第一、友人のこんな事を、聞いていていいはずが無い。どうしたらいいんだろう。
 顔は燃えるように熱くなり、勤めて殺している呼吸も、気を抜くと大きくなりそうだ。純真なシルフィスは、強すぎる刺激に目が(うる)み、笑いそうになる膝を必死で支えていた。
 とにかく、他の事を考えようとしたが、無慈悲にも、男のうめき声が追い討ちをかける。
「くうっ・・・ああ・・・メイ・・!!・・」
 切なげに(かす)れた声が吐き出された。
―――キール。助けてください!!
 やっぱり最後の心の支え。想い人に助けを求める。
 必死の祈りが天に通じたか、不意に突風が吹き荒れた。
 機を逃さず、シルフィスは脱兎のごとく走り出す。咄嗟(とっさ)に体が動いたのは、日頃の鍛錬の賜物(たまもの)といえた。俊足を誇るアンヘルの若者は、瞬く間に森の奥へと消えていく。
 だから、荒い息を整えながら漏らされた、筆頭魔導士の言葉は聞かずにすんだ。
「すげぇ風だな・・・鹿が逃げていった・・・」
「いまの風、魔法の匂いがする・・・」
 後始末に、なおも舌を這わせながら、メイが呟いた。
「ああ、どっかの過保護が、魔法の実験でもしたんだろうさ・・・」
「何それ?」
 怪訝な顔をする恋人を、腕の中に引き込んで、軽く唇を合わせる。
「どうでもいいさ、それより、今度は俺の番だぜ」
 熱を帯びた琥珀の瞳に、鮮やかな笑みが返される。
「負けず嫌い」
「ったりめぇだ。やられっぱなしは性に合わねぇ」
 くすくすと笑う白磁(はくじ)の肌に唇を落とし、男が囁く。
 恋人達の時間は、始まったばかりであるらしい。


 窮地(きゅうち)を逃れ、かなり祠から遠ざかったと確信して、シルフィスはやっと足を止めた。
 止まった途端に、全身から汗が噴出す。
「はぁ・・・助かった・・」
 一息ついて一人ごちる。
「それにしても・・・あんなところで逢い・・・」
 逢引(あいびき)という、言葉すらも恥ずかしい。シルフィスの頬が再び赤くなる。
「もう、寝よう・・・」
 眠れるかどうかは判らないが、とにかく横になろう。
 明るいうちに見回っていたので、宿の方向は把握(はあく)している。
 ニ・三歩歩き出して、その足がまた止まる。
 恐ろしい言葉を思い出した。
====今ごろ忍んで行ってるかもな========
 冗談ではない。宿に戻り、もしそんなことになって居たら、どうしたらいいのだろう・・・
 自分の部屋は、ディアーナやメイの隣なのだ。
 再び汗が噴き出してくる。
 筆頭魔導士ではあるまいに、いくらなんでも、あの殿下が夜這(よば)いなどするはずが・・・
=====あいつも俺も、男だからな======
 まあ、確かにこの旅の間は、ご夫婦となっているのだし、宿帳にも「ダリス香料商 セイルと妻ディア」となっている。そもそも旅自体が、二人の駆け落ちから、形を変えたものなのだし、自分だって他人にディアーナを聞かれれば、『若奥様』と答えていた。そう、二人を縛る制約は、旅の下には無いのである。
 よしんば、明日の朝、二人が(そろ)って同じ部屋から出てきたところで、誰が文句をつけられるわけでもない。(まあ、キールとレオニスは渋い顔をするだろうが・・・)
 そもそも、ディアーナがメイを離さないから、別々の部屋になっているだけで、はじめから同室でも、何の問題も無いのである。
 ただ、朝に揃った姿を見るのは(やぶさ)かではないが、夜中隣で聞きたくはない・・・
 がっくりとうなだれ、シルフィスは額の汗を拭った。
 もはや、宿に戻る勇気も無い。
 汗で体中がべたべたして気持ちが悪かった。
 そういえば、もう少し先に、小さな泉があった。そこで、汗を落とそう。
 (きびす)を返し、シルフィスは歩き出した。


 月に照らされた森の中は、しん、と静まり返り、先ほどの突風が嘘のようであった。
 (こずえ)から漏れ落ちる月光を眺めつつ、木立を抜ける。
 パシャン・・・
 (かす)かな水音に眉を寄せ、用心しながら泉へ近づく。
 岩の間に()き出る、小さな湧き水に、誰かが屈み込んでいた。
 月明かりに白く背が浮かび上がり、妙な事を考えさせられていたシルフィスの心臓を跳ね上げる。
 水を絞る音と共に、亜麻色(あまいろ)の髪が起き上がり、露わになった上半身に、濡れた布が宛がわれる。軽い吐息がもらされ、どうやら体を拭いているらしい。
 目が離せない。
 意外に広い肩幅。華奢(きゃしゃ)ではないがほっそりとした首筋。鍛えているわけではないのに、無駄な肉の付いていない胸板。滑らかな肌は、白く月光に浮かび上がる。
 普段は黒い魔導士の衣装に隠されているだけに、その姿は扇情的(せんじょうてき)とも言えた。
 騎士団で、男のもろ肌脱ぎなど見慣れている筈なのに、彼のこんな姿だって、はじめて見た訳でもないのに、どんどん動悸が早くなっていく。なんだか、自分が不埒(ふらち)(やから)に思えて来て、シルフィスは再び固まってしまった。
 しかし、彼が背中を拭こうと身を(ひね)った時、その広い背中に浮び上がった、傷跡が、シルフィスの心臓に、別の動きを与える。
 白い肌よりもなお白く浮び上がる、少し引きつった傷跡。
 二度目の召還実験を悪質な悪戯(いたずら)によって失敗させられ、呼び足されたドラゴンが、彼に与えた炎の舌と爪の(あと)・・・
 瀕死(ひんし)の重傷を負いながらも、仲間やシルフィスを(かば)い、さらにドラゴンにさえ慈悲(じひ)を向けて、彼は事態を収拾した。責任感の象徴。
 あの傷は背を(おお)い、更に足にまで達している。
 一度は彼の命を奪いかけた傷は、逆に自分と彼を結び付けてくれた。
 しかし、心臓は、痛みすら伴って激しく打ち付ける。
 良いのだろうか?静養の為に付いて行った田舎ですら、自分は分化しなかった。存外(ぞんがい)短く終わった静養期間の後、共に王都に帰ってきて、この旅に参加したのだが、やはり分化の兆候(きざし)は現れない。
 良いのだろうか?このまま想いつづけても。
 彼は待つと言ってくれている。変化を見ることが大切だからと。だが、だからこそ、自分が彼を縛っているのではないだろうか?もっと他に、もっと色々な事ができる筈の人なのだから・・・
 だが、今の自分では、メイがシオンを受け入れるように、彼のすべてを受け入れることは出来ない・・・
 なんだか泣きたいような気分で、シルフィスは一歩踏み出した。
 草を踏み分ける音に気が付いて、キールは顔を上げた。月光に浮び上がる金髪が目に入り、慌てて背を向ける。
「シル!?おま・・・宿に帰ったんじゃ・・・」
 うろたえ気味の声には構わずに、足を速めたシルフィスは、慌てて上着を引きあげようとする背中に、ふわりとその身を投げかけた。
「シル・・・?」
 白い傷跡に頬を寄せて、ケロイドになっている部分へ唇を落とす。
「・・・!・・・」
 青年の背が(おのの)きに震える。
「すみません・・・キール・・・」
 涙に(うる)んだ声が聞こえ、青年は動きを止めた。
「どうしたんだ?」
「なんでもないんです・・・少しだけこのままで・・・」
 やせた腰に腕が回される。その腕に、青年の長い指が重ねられる。
 ただ重ねただけの手から、暖かなぬくもりが伝わってくる。二人でいる時にだけ見せてくれるようになった、優しい仕種。言葉でいわれる事は滅多に無いけれど、青年がシルフィスを大切に想ってくれていることが痛いほど解かる。
 肌に合わせた耳に、少し早い目の鼓動が聞こえてくる。キールが生きている(あかし)
 やっと、気持ちが落ち着いてきた。
 あせる必要は無い。彼もまた、急かす事はしない。
 二人で共に変わっていこうと言ってくれた言葉を、あらためて噛み締める。
 月明りの下、二人は互いのぬくもりを感じあって、(たたず)んでいた。


 キールが小さくくしゃみをした。
 はたと我に返ったシルフィスは、どんな姿の青年にしがみ付いていたのか、やっと認識した。
「あっ・・・すみません!!」
 真っ赤になって飛び離れるぬくもりを惜しみながら、やはり現実に立ち返って赤くなった青年が、上着を引き上げる。傷は隠れ、何時もの魔導士がそこに立つ。
 ただ、その表情は穏やかだった。
「いいのか、寝なくて?明日は国境越えだぞ」
 いつも通りに愛想の無い口調だが、その声は優しい。
 シルフィスは小さく肩をすくめた。
「寝付かれなくて・・・キールこそどうして此処に?」
 その言葉に、ほんのりと赤かった青年の頬が、更に赤くなったのを、月光が誤魔化(ごまか)してくれる。
「いや・・・俺も、寝つけなくてな、それなら、前から考えていた魔法の実験でもと思ってな、ちょっと試したんだ。そうしたら汗だくになったんで、ここに来た・・・」
 いつになく歯切れの悪い青年には気がつかずに、シルフィスはあの突風を思い出した。
「あの風・・・キールがおこしたんですか?」
 なんだか嬉しい、偶然にせよ、心の中で叫んだ助けを求める声が、想い人に伝わったような気がした。
「少し、困っていたんで、あの風で助かりました。ありがとうございます」
 にっこりと笑う屈託(くったく)の無い笑顔に引き込まれて、今度は魔導士が、華奢な体を抱きしめていた。
「き・・・キール?」
「悪い、ちょっとだけ、このままでいてくれ」
「はい・・・」
 実のところ、キールは見ていたのだ。
 寝付けなかった彼は、森の散策を楽しんでいた。そこで、祠の中へシオンがメイを引きずり込むのを見たのだが、まあ、何時もの事かと立ち去ろうとした。人の恋路を邪魔すれば、馬に蹴られるどころか、シオンに(のろ)われかねない。だが、祠に引き込まれる時にメイが出した小さな悲鳴を聞きつけて、シルフィスが走ってくるのが見えた。
 例によって、厄介(やっかい)ごとにうっかり首を突っ込む特技が発揮されたらしい。案の定、その場で固まってしまった恋人の姿を見かねて、キールは実験途中の呪文を組み立てていった。
 未完成ながら、どうにか成功した魔法は、シルフィスに脱出のチャンスを与え、彼は大いに満足したのである。
 そして今、目の前で嬉しげに見つめてくる笑顔を、自分が守ったような気がして、気が付いたら、腕の中に引き込んでいた。
 冷えた体に、暖かなぬくもりが心地良い。
「・・・あの風、もうちょっと考えないといけないな・・・」
 満足と安堵と愛おしさに浸りながら、口から出てくるのは結局そんな言葉である。
「まだ未完成なんですか?とても強力な術ですね」
 腕の中から、生真面目な答えが返ってくる。
「ああ、目晦(めくら)ましに考えてるんだが、威力が無いくせに、余計な魔力を使っちまう。もっと簡潔にしないと、咄嗟(とっさ)のときに使えないだろうな」
「キールは、何時も考えてるんですね。研究の事や、殿下達をお護りする事や・・・」
「そうでもないさ・・・今は魔法にかかってる・・・」
 妙な言葉に、シルフィスが身じろいだ。キールの腕が動くことを許さずに、少しだけ力が(こも)る。
「月の光の魔法だ。ちょっと強力でな、もうしばらく、このままでいてくれ・・・」
「キール・・・なんですか、それは?」
 聞き慣れない魔法に、シルフィスは首を傾げた。耳元で、キールの含み笑いが聞こえる。
「いつか・・・お前が分化したら、教えてやるよ・・・」
「え?」
 抱きしめる腕にもう少しだけ力が篭る。
「焦るな、ゆっくりで良い、俺に見せてくれ。お前が変わっていくのを・・・」
「はい・・・」
 二種類の金の髪が、月光に解け、恋人達の時間は、ここでも始まったようである。


 翌朝。一行は元気よく出立した。
 仏頂面(ぶっちょうずら)のレオニスが、跳ね回るガゼルと共に先導を勤め、相変わらず元気全開のディアーナと、それを見守るセイリオス。少し疲れた顔をしながら、それでも元気なメイがはしゃぐ。そのメイから、なんとなく視線を外してしまったシルフィスが、キールと視線だけで会話を交わす。
 何時もと変わらぬ旅の一行であった。
 ただ特筆すべきは、次の街で落ち合おうと、一旦クラインへ戻る筆頭魔導士が、妙に生彩(せいさい)を欠いていた事である。
 宿の前で見送る魔導士を見ながら、セイリオスが『どうしたのか?』と首を傾げた。それに対して、メイはあっけらかんと答えたものである。
「さあ?年なんじゃない?」
 それを聞いて、シルフィスが真っ赤になった訳は、昨夜の月の光と、キールの胸の内に仕舞われていた。

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