梓弓
月は窓辺を照らしている。
十三夜の月は満月に劣らぬほど、明るく下界を照らす。
重く熱い息を吐いている彼の横顔も、蒼い月の光を受けて、白く浮かび上がって見えた。
血の気の失せた唇を噛み締め、額に汗が滲む。
寄せられた眉を伝って、汗が頬に流れるのを、そっと布で拭き取る。
額に当てられた布は、僅かの間にすっかりぬるくなっていた。
冷水に浸し、軽く絞ると、そっと額に戻す。
冷たさに一瞬顔がゆがめられたが、彼を捉えた悪夢からは解放されず、再び荒い息が吐き出される。
どれだけの時間をこうしているのだろう?
シルフィスは、キールに聞こえないよう気をつけながら、震える息を吐き出した。
暗い部屋の中で、自分の両肩を抱きしめてみる。
不安だけが膨らんでいく。
目を上げ、室内を見回しても、闇に沈み、月明かりに幽かな影を浮かばせる部屋の中は、自分には馴染みの無い物ばかり。
それが余計に心細さを掻きたてる。
それでも、キールが住処にしていた院での部屋との共通点がないわけではない。
机や窓辺にさえも、本棚からあふれた本が積み上げられている。
双子が王都に行く時に、置いていった分だけでこれだと、兄弟の母親は笑って見せた。
そう、ここは双子が育った部屋。
彼と兄が共に本に埋まり、夢を紡いできた部屋。
シルフィスはキールと共に彼の実家にやって来ていた。
希望と、不安が混じりあった不安定な心のまま……
長い馬車の旅は、重症の身にはきつ過ぎた。
長く揺られつづけた事で、馬車酔いと傷の悪化を招き、故郷に到着した日、キールは夜半から高い熱を出した。
シルフィスとともに付き添っていたアイシュと、事前に知らせを受け、子供達を待っていた母の介添えで、どうにかキールを寝室に寝かせたものの、彼の熱はいっかな下がらず、既に三日、熱に浮かされ、悪夢と現の間を彷徨 い続けている。
「もどれ……戻るんだ……」
悪夢の中で、彼は何度も呪文を唱 え、ドラゴンの炎に焼かれ悲鳴をあげる。
それでも尚、意思に反して召還され、怒り狂うドラゴンへ、慈悲の心を向けることを止めない。
強い意志と責任感。そして深い慈悲。
夢の中で彼を支えるのは、それだけなのだろう。
十の月の初め。魔法研究院で行われた召喚魔法の実験は、緋色の魔導士への悪質な悪戯によって失敗に終わった。
ただの失敗ではない。
書き換えられた魔方陣は、凶暴なドラゴンを呼び寄せた。
巨大で獰猛な化け物は、半ば魔方陣に引っ掛る形で、次元の狭間に半身を置きながら、突然己に降りかかった奇怪な現象に錯乱し、爪を振り立てて炎を吐く。
もし、完全に魔方陣から解放されれば、実験ホールを飛び出し、王都に被害が出るに違いなかった。
実験の責任者であったキールは、仲間を守る事とドラゴンへの哀れみから、皆を庇いつつ、大惨事を防いで見せた。
ドラゴンの攻撃の矢面に立ち、体の半分を炎に焼かれ、爪で切り裂かれながら、それでもドラゴンを殺す事無く、命がけであの化け物を還したのだ。
当然その直後、彼は危篤 に陥った。
どれほどの使い手が治癒魔法をかけても、焼け石に水といった有様であったらしい。
それでもキールは、実験の失敗を、自分一人の責任として、誰も避難はしなかった。
魔法院の先輩であり、クラインの筆頭魔導士を勤めるシオン・カイナスは、彼のような寛大さは持ち合わせていなかった。
この悪戯が、以前キールへ向けた中傷を、当人に切り返された意趣返しと聞くや、即座に犯人達を拘束し、筆頭魔導士の権限を以って彼らの魔導士としての資格を剥奪した。
挙句、家に送り返し、十分な看視が必要だと言い添えたので、名家であった家々は、みな一様に、彼らを家から出さなぬよう半ば幽閉しているらしい。
シオン・カイナスの怒りを、真っ向から受け止められるほど、度胸のある家は滅多に無いのだ。
キールにもしものことがあれば、何か理由を捏造 しても、王宮の地下牢に放り込んだはずだ、と笑っていたのは、筆頭魔導士から、直に情報と本音を引き出せる類稀な少女。
彼女もまた、あの犯人たちに、荒れ果てた実験ホールの後始末をさせたりもしていたのだが、どうやらやっと溜飲が下がったらしい。
シルフィスにしても、卑小な妬み根性から道を誤った連中へ、同情する気は更々無い。
そんなつもりは無かった、などという言い訳が通るような事件ではないのだ。
彼らの浅はかさが、今確実に、一人の青年の命を危うくしているのだから。
本来なら、国内の医療の最先端が集まり、その恩恵を受ける事ができるはずの王都は、その代わり人が集まりすぎ、キールのように魔力の高い者が深い傷を癒すには、不向きな場所であった。
数多くの人々が内包する僅かな魔力が折り重なり、魔力に敏感な魔導士に多大な影響を与え、自然が与える癒しの力を阻害するのだ。
ましてや不安定な魔法の実験などが頻繁に行われる研究院では、負の力が強くなりすぎ、傷を更に蝕んでいく。
アイシュとシオンは、即座にキールを故郷に帰すべきだと判断した。
実のところ、名のある魔法療法士は、業と王都から離れた場所に居を定めている。
蝸牛 の殻の如く、魔力の混乱する王都よりも、より自然の力を受け入れやすい地を選ぶからだ。
その一人が、双子の母親であった。
彼女の下へ帰れば、キールの命は永らえるはずだ。
頑なに帰郷を拒む弟に、兄はそう言って懇願していた。
キールの怪我を気にかけつつも、ダリス潜入という任務に赴いていたシルフィスが、王都に戻って真っ先に見舞いに駆けつけた時、図らずも出くわしたのは、そんな押し問答の現場。
その理由が、自分にあっったとは、本当に以外であった。なんとなれば、キールの視線の先に居る者は、彼の保護する少女であると、ずっと諦めていたから……
「シ……ルフィス……逃げろ…」
食いしばった歯の間から、掠れた声が搾り出される。
あの時、ドラゴンを還す呪文を紡ぐ青年を助けて、シルフィスは囮を買って出た。繰り返される悪夢の中で、彼は自分を案じてくれている。
包帯に覆われた熱の篭る手を、そっと両手で包み込んで、唇を耳元に寄せる。
「私は此処に居ます……貴方の側に…います」
囁いた言葉に、長いまつげが揺れ、若草色の瞳が僅かに開かれた。
「キール…」
高熱に朦朧とした視線が、ぼんやりと見詰め返してくる。白い唇に、うっすらと微笑が浮かび、シルフィスは、どきりとした。
「…………無事か……?」
まだ夢の中にいるのだろう、安否を問う青年へ、シルフィスもまた、微笑んで頷き返す。
「私は大丈夫です。もうドラゴンもいません。貴方はやり遂げたんです」
だからもう、悪夢なんて見ないで。
ゆっくりと、何度も繰り返している言葉を囁く。
そのたびに彼は、微笑を深くするのだ。儚い、今にも消えてしまいそうな、淡い微笑を…
「……そうか…」
包み込んだ指が幽かに動き、シルフィスに指を絡める。
「お前は、此処に居るんだな…」
ほうっと息を吐き、再び若草色の双眸が閉じていく。
隠された瞳を追いかけるように、シルフィスは再び耳元に唇を寄せた。
「貴方の側にいるのが、私の望みです」
答えるように力が込められる指の感触に、ほんの僅か励まされて、熱い頬に唇を寄せる。
伝わる熱が、更なる不安を掻き立てて、同時に心の奥から切望が湧き上がる。
==死なないで――生きていて欲しい。どんな姿になったとしても……
口に上らせるには、あまりにも不吉な言葉。
言い放った瞬間に、現実のものになりそうで、ただ、胸の奥を震えさせるしかできない。
失ってしまうのだろうか?
このまま?
愛しいと想う相手と、心を通わせる。相手に望まれ、求められる。そんな喜びを知ったばかりだというのに…
こみ上げてくる涙と、絶望を無理やり飲み込んで、シルフィスは枕もとに置かれたサイドテーブルに手を伸ばした。
薬湯を入れた吸い口を取り、口元に持っていく。
「キール、お薬です。飲んでください」
しかし、半ば悪夢の中に戻りかけていた青年は、顔を背けて首を振る。
苦い薬を嫌がるのは何時もの事、シルフィスはそのまま吸い口を咥えると薬湯を口に含み、躊躇いも無く青年の唇に重ねた。
諦めたように、肉の削げ落ちた喉がこくりと動く。
顰められていてた眉が次第に緩み、薬の助けを借りて、悪夢すら追っていけない深い眠りの中へと沈んでいく。
やつれた頬を撫ぜ、濡れた唇を指で拭ってやりながら、シルフィスは再び震える息を吐き出した。
月が天頂を過ぎる頃、シルフィスは音を立てないように注意しながら、新しい布と薬液を入れた甕 、そして小さな盥 を運び込む。
寝る前に、双子の母が用意してくれるものだ。
日中は母や兄が交代で看病についてくれている。おかげでシルフィスは、夜の間の付き添いに専念する事ができた。
今は二人とも眠っている。
夜半にこそ高くなる熱を、二人は心配してくれるのだが、せめて夜の間だけは、側に居たいと思うのだ。
準備したものを並べ、腕のいい魔法療法士に教わった手順に従って、まずは、腕から包帯を解いていく。
宛がわれていた布を取ると、腫れ上がった傷口が露になる。
魔法治療でも功を奏さないほど切り裂かれた傷は、外科的な処置を施され、絹糸で縫い合わせられていた。
それらはいまだ塞がる事無く、高熱のためにじくじくと体液を滲ませている。
腕の下に盥 を置き、傷口を薬液で洗い流す。
キールが小さくうめく。
深い眠りの中にあっても、この作業は激痛を与える。
すまないと思いつつ、それでも手は休めずに、清潔な布で濡れた腕を拭き、たっぷりと練り薬を塗りこんだ布を宛がい、新しい包帯を巻きつけていく。
次に背中から腰にかけて、同じ手順を繰り返す。
夜着を肌蹴、包帯を解き、露になっていく青年の裸身に、初めの内こそ羞恥で目を逸らしたが、今ではただ愛おしい。
背から腰にかけての洗浄は、一人でするにはかなりの重労働である。しかし、夜、二人きりになれるこの仕事を、誰にも譲りたいとは思わない。
確実にキールが生きていると、確認できるこの瞬間。
少しでも未来に向かって進んでいるのだと思える時間を、シルフィスは大切にしていた。
背を洗いながら、月明かりに状態を確認する。
日に数度繰り返される処方は、焼け爛れた背中には多少の効力を見せているらしく、昨夜よりも腫れが引いているのに安堵する。
包帯を巻き終え、肌蹴た夜着を元に戻しながら、ほんの一瞬だけ、青年の体を抱きしめた。
せめてこうする事で、自分の命の半分でも、彼に与える事ができたら…
魔力の使えないアンヘル。
変り種の自分が、殊更に悔しい。
しかし、だからといって嘆いているだけではキールは助からない。
自分を叱咤しながら、作業は足に移る。
切り裂かれ、炎に炙られた足は、他の何処よりも酷い有様である。
焼け爛れた足は深く肉が削ぎ取られ、縫い合わせる事もかなわぬほどで、しかもその傷は濁った膿 を吐き出し、壊死 が始まっている。
鼻を突く膿の臭いは、不安を増長させるが、シルフィスは手を止めはしなかった。
よく焼いた小刀で壊死している部分を削ぎ取る。手早くやってもやはり鮮血が滲み出す。それを薬液で洗い流し、薬草をすりつぶした特別な薬をたっぷりと盛り上げて、布で覆う。
自分が騎士を目指して訓練を積んでいた事を有難く思う。
血を見ても怯まずにすむのは、あの日々のお陰なのだから。
作業を終え、後片付けをするシルフィスを、そっと伸ばされたキールの腕が捉えた。
「キール?目が醒めたんですか……すみません、痛かったでしょう?」
ぼんやりと見上げてくる若草色の瞳に、シルフィスは微かに頬を染めた。
たとえ朦朧としていても、キールの視線は相変わらず真っ直ぐに自分を捕らえる。
居た堪れないような羞恥に苛まれながらも、その視線を何時までも受けていたいと思う。
特にこの数日間、彼が目を開いている事は稀なのだ。
治療の痛みで目を覚ましたらしい青年は、月明かりに浮かび上がるシルフィスを、不思議そうに眺めていた。そして僅かに眉を寄せる。
「いいのか……?」
奇妙な問である。
「何がです?」
問い返すと、彼は更に眉を寄せた。
「こんな遅くまで居てもいいのか?門限は過ぎているだろう?」
更に奇妙な言葉に、シルフィスはゆっくりと微笑んだ。
高熱の為に、記憶に混乱が出るだろう、というのを、事前に聞かされていたからだ。
むしろ、はっきりとした言葉を口にしているのを、喜ばしく思う。
「騎士団には帰りません」
返された言葉に、キールは僅かに目を見開き、ついで再び眉を寄せた。
「……そう……だったな……」
意識の覚醒と共に、記憶が戻っていく。
薬液での洗浄の後は、多少なりとも熱が下がる。
そのお陰で、キールの意識はだいぶはっきりしてきた。
「ここは、俺の部屋か?」
見慣れているような、見慣れないような、奇妙な気持ちで、部屋を見渡す。
「そうですよ。貴方の家の、貴方の部屋です」
ゆっくりと語り掛けるシルフィスへ、キールは苦笑を浮かべる。
「馬車に乗っていた途中から、記憶が曖昧 なんだ……熱……だしてたのか?俺は」
「はい」
「そうか……」
小さく頷いて、また目を閉じる。
再び沈黙か戻ってきた。キールはまた眠ったらしい、シルフィスは片づけをはじめた。
薬を所定の位置に戻し、部屋に戻る。
枕もとに引き寄せた椅子に座り、ぬるくなった布を取り替え、そっと額に戻す。
「手間…かけるな……」
不意に、目を閉じたまま、キールが詫びを言った。
眠っては居なかったらしく、その声ははっきりしたままだった。
「故郷に帰れば、すぐに治るような事を言っといて、結局はこのザマだ」
自嘲気味に呟く横顔に、今までの不安が更に湧き上がる。
「そんなこと言わないでください…私は、貴方の世話ができて嬉しいです。観察相手よりも役に立っているような気がしますから」
心の中の闇を吹き払うように、シルフィスは殊更軽い口調で首を振った。
途端にキールが小さく唸る。
そもそも初対面から、研究材料の為に観察させろと言ったのはキールである。人間相手に言う台詞ではない。
つまり、初対面の印象は最悪といえた。
「……あの時は……」
「良いんですよ。貴方が研究熱心なのは良く知っています。それに、私は、何でか、嫌じゃなかったんです」
性別の無い、未分化のアンヘルへ遣される、好奇の視線は数多くあった。真っ向から研究対象と言い放ったキールは、普通に考えればその筆頭に位置するはずだったのに、なぜか自分は彼を疎ましくは思わなかった。
故郷の森に似ている王都近郊の森の中で、ひっそりと溶け込むように佇む魔導士を見つけた時、森の緑が、よりいっそう鮮やかになったような気がしたのはなぜか?
書庫の中で本に埋まって、他人など目にはいらないような姿に微笑んだのは何故なのか?
まるで教科を受けるように、研究室のドアを自分から開けて入っていったのは、どうしてなのか?
会話する度に皮肉しか返ってこないはずなのに、言われた通りに渡された絵本を写本し、訊ねられた問いに真摯に答えつつ、自分の行動にも首をひねった。
酔いつぶれたキールを送っていった時、ふと漏らされた、『気になる相手』に、強い焦燥を感じ、自分が彼に、そもそもの初めから好意を持っていたことに気がついた。
判ってしまえばすべての答えが見つけられた。
捕らわれたのだ。
常に真っ直ぐに自分を見詰める若草色の瞳に。
たとえ口ではアンヘルの生態観測のような事を言いながら、キールが自分を、シルフィス・カストリーズを見ていてくれると理解していたからだと。
だからこそ、瀕死の床から自分を求めるキールに、即座に返事をすることができた。
躊躇いも無く騎士団を辞し、ここまでついてこれたのだ。
「私は貴方の世話をする為に居るんです。手間をかけるなんて……私の仕事を取らないでください」
今も真っ直ぐに見詰めてくるキールの瞳に、シルフィスは笑って見せた。
死なないで欲しい。心が叫ぶ懇願を飲み込んで……
「変な奴……」
必死で不安を飲み込もうとしているシルフィスへ返されたのは、そんな台詞である。
何時もながら、実も蓋もない切り返しであるが、実にキールらしい言い方に、心が少しだけ軽くなる。
「変ですか?」
小首を傾げると、金の髪がさらりと音を立てて肩を流れ落ちる。キールは月明かりに浮かび上がるその姿に、少しだけ目を細めた。
「お前が……変な奴でよかったよ……」
「え?」
比較的動く方の手で、零れ落ちる髪を絡めて軽く引く。
「いいか……・俺は今、熱で頭が煮えている。一度しか言わないからな。よく聞いとけよ」
相変わらず自分のペースで話し続ける青年に、首を傾げながら頷いた。
「はい……」
ふわりと、柔らかな微笑が浮かべられる。
「俺は死なない……死ぬはずがない。お前が護ってくれているからな」
不意打ちの微笑によるものか、それとも心の中を言い当てられた所為なのか、シルフィスは顔を赤らめて息を飲んだ。
「キール…」
血の気の失せていたキールの頬も微かに色を取り戻す。かなり照れているらしいが、淡々とした口調で、そのまま言葉が流れてくる。
「夢の中で、俺はずっと、お前の背中を見ていた……俺の為に、ドラゴンの前に囮になるお前の姿を……お前はそうやって、誰かを護る為に自分を放り出す。そんなお前を、俺は背中しか見ることができない。だけどな、俺はお前の背中でも良いから見続けて、倒れそうになったら支えたいと思った……前を突っ走っていくお前に、置いていかれないように必死になってついて行く……情けないけど、それが俺の、守り方だと思った……」
微笑は苦笑に変わり、若草色の瞳は、相変わらず真っ直ぐシルフィスを見詰めてた。
「だがな、目が醒めたら、お前は俺の横にいて、俺を見ている。危険な任務をして、せっかく騎士になったのに、そんなものも放り出して俺の横にいる……怪我を理由に、お前の優しさに付け入った、こんな男の横にいて、泣きそうな顔してるんだ……本当に、変な奴だよ」
自分の心に絡 み付いた、死への恐怖を、キールは相変わらずすぐに看破してしまったのだ。
シルフィスがいるから、死なないと、はっきりと言い切る青年に、やっと心から微笑が浮かんでくる。
「はい……私は貴方だけの騎士になりましたから……騎士としても変り種ですね」
「変り種じゃなけりゃ、俺の側にはいないだろう?」
顔を見合わせて、お互いクスクスと笑い出す。
キールの手が伸ばされて、指でシルフィスの輪郭をなぞる。まだ熱は高く、その指は熱かったが、彼の双眸には、強い生命の光が戻ってきていた。
それが嬉しい。
今なら、はっきりと未来を信じられる。
頬を撫ぜる手に、自分の手を重ねてそっと押さえてみた。キールの笑みが深くなる。
「早く傷を治して、王都に帰ろう……お前は騎士団に復帰するといい」
意外な言葉に、シルフィスは目を瞠った。
「私は……騎士団を辞めたんですよ」
キールの首がゆっくりと振られる。笑みは少しだけ悪戯っぽい者に変わっていた。
「お前は、セイリオス殿下から直々に騎士に任命されている。そう簡単には辞めさせてもらえないんだぜ」
「でも……」
「出発の直前に、シオン様とクレベール大尉へ俺から話は通してある。俺が魔法院で休職になっているのと同じように、お前もまた、最大二年の休職扱いになっている。知らなかったのか?」
初耳であった。
ただ瞬きを繰り返す恋人へ、キールは小さく声を出して笑い、頬を撫ぜていた手をシルフィスの首の後ろに回して、力が込められる。
「休職は殿下のお声掛りでもある。お二人とも、お前の力量を買っているんだ……だが……」
首を押さえた手の力が強くなり、不意に迫ってきたキールの顔に、シルフィスは咄嗟に目を閉じた。
暖かい感触が唇に触れる。
たとえ薬を飲ませる為の口移しで、何時も触れている感触であるとしても、相手から求められて唇を重ねるのは初めてである。
体が硬直し、全神経が唇に集中するような錯覚を覚え、シルフィスはじっと口付けを受けていた。
長い時間に感じられたが、ほんの数秒だったのかも知れない。
唇が離れ、押さえていた手も離される。
シルフィスはゆっくりと目を開けた。
「もう暫くは……俺だけの騎士でいてくれ……」
再び前に戻された手が、そっと頬を包み込む。
学者らしい長い指の感触を楽しみながら、シルフィスは微笑んで頷いた。
「勿論です」
再び頬の手に自分の手を重ねながら、微笑を深くする。
先刻とは比べ物にならないほど、心が軽い。
自分がどれほどキールに支えられているのか、思い知った気分だった。
ふと、窓の外に月が見えた。
月の位置はかなり傾いて、もう暫くすれば夜明けが訪れるだろう。
「そうだ……キール。今日は何の日か、覚えてますか?」
訊ねられて首を傾げる青年の指に、シルフィスは自分の指を絡めて、痛くないと思える程度に軽く握った。
「お誕生日、おめでとう。キール」
暫く、何を言われているのか判らなかったらしい。
青年はきょとんとしたままシルフィスを見詰めていたが、視線を泳がせると眉を寄せた。
「そうか……もうそんなに時間がたっているのか」
無理もない、怪我による昏睡を繰り返していては、時間感覚など無くなるだろう。
「はい……でもすみません。プレゼント、用意していないんです……」
実のところ、誕生日を聞いたのは、つい先日の馬車の中でなのだ。朦朧としかけた弟に、アイシュが誕生日を揃って実家で迎えられると話しかけていたのを聞いて、初めて知ったのである。
その後はそのまま看病に雪崩込み、昼も夜もない生活だった。誕生日なんて、気にかけている場合ではなかったのである。
それでもこうして話ができるようになると、気が回らなかった自分が悔まれる。
すまなそうに俯いてしまったシルフィスの手を、絡めたキールの指が軽く握り返してきた。
顔を上げると、やはり真っ直ぐ自分を見詰めている若草色の瞳。不安が苛むのとはまったく違う、甘い痛みを伴った動悸で、頬が赤くなるのを自覚する。
「シルフィス、プレゼントの代わりに、一つ約束してくれないか?」
「どんな?」
小首を傾げるシルフィスがどれだけ可憐に見えることか。キールはシルフィスの手をほんの少しだけ強く握ってみた。
「あのな……来年も、一番最初に、おめでとうと言ってくれ。そのときお前が、男になっていようが、女になっていようが構わない。一番最初に言えるように、俺の隣にいてくれ……」
暫く目を見開いていたシルフィスは、にっこりと笑って強く頷いた。
「はい。かならず」
嬉しそうに笑う恋人を見ながら、再びキールが苦笑をもらした。
「……やっぱり頭が煮えてるな……思った事をそのまま口に出している……」
照れているらしい。
今度はシルフィスが悪戯な笑みを浮かべて見せた。
「熱の所為だから忘れろって言われても、もう駄目ですよ」
ばつが悪そうに眉が寄せられたが、彼は肩を竦めて見せただけだった。
「構わんさ、全部本心だ。……こういうのが口に出せるだけ、俺も変われてきているのかもな……」
そう言いながら笑う青年の姿に、なんだか泣きたくなるほど嬉しくなって、シルフィスは傷に触らないように、そっとキールの胸に顔をうずめた。
取り替えたばかりの薬の匂いがした。そしてキールの鼓動が聞こえてくる。
もう大丈夫だ。
これからは、きっと良い方に進んでいくに違いない。
確信のような予感がして、滲んできた涙を隠すように、更に顔を擦り付ける。
キールの腕が、背中を優しく撫ぜてくれる。
「シルフィス……」
少しだけ、切ないような響きを含んだ声が落ちてきて、促されるように顔を上げ、声と同じように少し切ないような光を湛えた瞳にぶつかった。
どちらが動いたのかは判らない。
月明かりの中で、二人の影が一つに重なった。
傷を癒したキールが、シルフィスを伴って王都に戻ったのは、数ヵ月後の事である。
そして物語は再び進んでいく。
了