木漏れ日



 クライン暦1028
  2年に及んだダリス対諸連合国の戦争は終わりを告げた。
 戦後処理を済ませた新ダリス国王アルムレディン・レイノルド・ダリスが隣国クラインを訪れたのは、まだ残暑も残る秋の始め。
 戦争終結から、既に二年が過ぎようとしていた。
 国内体制の建て直しにある程度の見通しがついたことと、近隣諸国からの援助への返礼、更なる同盟の締結を果たす為である。
 ダリス戦役の時。諸国連合の筆頭として多国籍軍を纏め上げ、英雄王と囁かれる程、伝説的な戦いを繰り広げて見せたクラインの皇太子は、同時に戦後の復興にもっとも助力を惜しまず、他の国々へも働き掛けてくれた恩人でもある。
   国王自身による返礼の訪問は、その恩義へ最大の感謝を表明していた。
 明るい空を思わせる髪を戴く美貌の皇太子セイリオスは、礼節と友情を以ってダリス王を迎え、ここに、ダリスとクライン両国は、本当の終戦を迎えたのである。
 
 
 
 早朝、3騎の馬が草原を駆ける。
 一人は昇り始めた朝日の如き流れる金褐色。
 一人は消えゆく夜を纏う暗蒼色
 一人は精悍な黒い短髪。
 アルムレディンは、前を駆け抜けていくクラインの筆頭魔導師に、(いぶか)しげな目を向けていた。
 無言で付き従う騎士がかなりの手練(てだ)れなのは良く知っている。筆頭魔導師も護衛だといった。
 しかし、何故。こんなところまで自分を連れ出すのだろう?
 夜明け前、部屋を訪れた彼に促されて、供も連れずに城を抜け出した。
 シオン・カイナス。
 夜空色の髪を持つ、クライン皇太子の懐刀。策謀の天才。
 対ダリス戦役において、彼は期に乗じて暗躍し、皇太子の政敵をどれほど闇に葬ったものか…おそらくクラインにおいて、最も信用の置けない人物のはずである。
 そう考えて苦笑する。
 ならば何故、自分はついて来たのか。強制されたわけでも、ましてや拉致されたわけでもない。紛れもなく自分の判断で同行しているのだから。
 傲岸不遜(ごうがんふそん)な筆頭魔導師だが、時折その琥珀の瞳に真摯な光が(かす)めることがある。
 それが、皇太子への忠誠の現れだと直感したのは、あながち見当外れではないだろう。今朝もそんな光が、彼の目の中に垣間見えた。同行を承諾したのはその為である。
 反乱軍を指揮して立ち上った時、初めてこの男と真近で言葉を交わした。その才気の片鱗を目にし、心の底から欲しいと思った。
 自分の右腕として、腹心として。
 この男の強さと頭脳を渇望した。
 判ってはいるのだ、シオン・カイナスが決して手に入らないことは。
 皇太子セイリオス以外には、たとえ国王に対しても膝は折らない。ましてや、請われたからといって、他国に鞍替えなどするはずはない。それならば、いっそ流浪の道を選ぶだろう。
 何者にも囚われない、全てを従え己が道を行く。夜を制することができるのは、昼の光だけなのだ。
 まさに、今、目の前で展開している朝の光景のように。


 薄れ掛けた朝焼けが、もう一人の日の光を思い出させた。
 ダリス戦役の影の功労者である、悲劇の王女(おうじょ)ディアーナ。
 戦争回避の為に、16歳で前ダリス国王に嫁した姫君。
 彼女がもたらした、わずか半年の平和は、それでも大国ダリスに対して、近隣諸国が態勢を整えるのに十分な猶予であった。
 これがなければ、戦争はもっと早く終っていたか、それともまだ続いていたか…どちらにせよ、残るのは焦土のみであっただろう。
 もちろん、自分が、ダリスの王位を取り戻す機会もなかったはずだ。
 反乱軍が勝利を勝ち取ったのも、やはりクラインの後ろ盾がなければありえなかったのだから。
 そして、嫁した国と、母国との開戦という、板挟みにされた姫君は、身重でありながら、監獄塔に幽閉された。敵対国への人質として。
 そういえば、あの牢獄からディアーナを取り戻したのも、この顔ぶれであった。
 剣に長けた聖騎士。魔法と破壊工作を(むね)とする魔導師。地の利を持つ自分。
 魔導師は、皇女救出の他、女神の大樹破壊の別働隊を指揮し、見事、王女を取り戻し、なおかつダリスの国力を削いで見せた。
 それでも、停戦までに一年半を要したが…
 帰国した王女は、北の離宮という館に引き篭り、そこで女児を産んだと伝え聞く。
 かつて、女神の樹の下で泣いていた女の子。自分にとって、幸福であった時の象徴。
 輿入(こしい)れの馬車を奪ったほんの僅かな時間の間に、何とかその事を伝えることが出来た。
――まあ、貴方があの時の王子様でいらしたのね…
――いつか必ず、貴女を迎えに行こうと思っていました。その気持ちは変わりません。
――嬉しいわ。でも…もう、よろしくてよ…わたくしのことはお捨て置きください…
――出来ません、私と供に未来を歩いてください。
 だが、王女は気品と誇りを持って首を振った。
――わたくしは行かねばなりません。クラインの未来の為に。
 監獄塔からの救出後は、衰弱の為に熱を出し、昏睡して眠る傍らに付き添った。最後に聞いたのは絶望に打ちのめされた卑下の言葉。
――こんな穢れた女の事など、お忘れになって…
 忘れられるはずがない。
 ディアーナには幸福になって欲しかった。
 ダリスの犠牲になった彼女を、できれば自分の手で幸せにしてやりたい。第一、彼女が産んだ娘は、ダリスの王族の血を受けているのだから。
 勿論アルムレディンは非公式であるものの、書簡において再三ディアーナ姫のダリス帰国を要請していた。
 前王は婚姻を解消しないまま兇刃に倒れた。故に未亡人であるディアーナが、亡夫の国で暮らすのはおかしな事ではない。そして、再婚もできる。
 先日は、皇太子に直接ディアーナを妻に望む申し出もしたのだ。
 だが、セイリオスから返ってきた言葉は、芳しいものではなかった。
――1度は捨て駒にした妹です。もう、静かに暮らさせてやりたい。あれの事はお忘れ下さい。
 出戻りの後家が、再び幸せな花嫁になれるとは思えない。このまま北の離宮で隠棲(いんせい)させるつもりであると。
 きっぱりと言い渡されてはもう術はない。ただ、少しだけ悪足掻(わるあが)きをしてみる事にした。
 1度で良い、ディアーナ姫と会いたい。
――考えておきましょう。
 そのまま明確な答えは得られず、立て続けに盛り込まれる公式行事にまぎれてしまっていた。
 しかし、草原の前方、こんもりとした森に寄り添う瀟洒(しょうしゃ)な館が見えた時、アルムレディンは、これが答なのだと確信していた。前を走る魔導師に声をかける。
「これは殿下の御計(おはか)らいか?」
 首だけで振り返った魔導師は、何も答えず、ただ何時もの人の悪い笑みを浮かべるだけである。
 聖騎士の無口さ加減は判っているので、ダリス王は黙って馬を走らせ続けた。
 心の中に湧き上がる、痺れるように甘美で淡い期待を抱きながら。


「おやまぁ、朝っぱらから元気ねぇ」
 門番の誰何(すいか)を視線だけで黙らせた魔導師に、明るい女の声がかかる。
 走り出てきた厩番(うまやばん)(くつわ)を預け声のほうを向くと、二階の窓から茶色の頭が突き出ていた。礼儀の欠片もない振る舞いである。
 まだあどけなく感じるほど幼い顔立ちの若い女。見覚えがある。ダリス戦役での別働隊。女神の大樹破壊の工作員。クラインでも三指に入る実力を誇る、緋色の女魔導師。メイ・フジワラ。正式な名前は、メイ・フジワラ・セリアン・カイナス。そう、シオン・カイナスの奥方である。
 ならば此処はカイナス廷なのだろうか?確かに、記憶にある北の離宮とは違う。軽い落胆を憶える。
 城を後にしてこっち、珍しいほどの沈黙を(かこ)っていた魔導師が、妻に笑いかけた。
「腹が減った、用意は出来ているか?」
「うん。大丈夫」
 呆れるほどに日常的な夫婦の会話。どうやら、遠乗りのついでに、朝食を振舞ってくれるらしい。
「じゃ、待ってるね」
 そのまま首を引っ込め屋内に消える。
 釈然としないまま、その有様を眺めていた青年王を魔導師が(うなが)す。
「こちらです」
 口調は丁寧だが、彼が口先だけの礼儀をとっていることはよく判る。一言声をかけると、そのまま入り口へ向って歩いていくのだから。
 辛抱強く後ろを守る聖騎士も、軽く頭を下げて歩くよう催促してきた。仕方なく、筆頭魔導師の黒尽くめの背中を追った。

 食事はもっぱら女主人と当主との軽口の叩きあいに終始した。その中で、事前に報告を受けていた、セイリオスの第一子の話が出た。
 妻を娶る事を頑なに拒否し続けている皇太子は、意外にも、微行(びこう)で訪れたカイナス家の侍女に御執心で、この度お手つきの侍女が王子を産んだらしい。
 王子はアークリオスと名付けられた。
 まだ母子共に微妙な時期なので、正式に側室として認められたものの、王宮には上がらずにカイナス家に預けられている。
 『お方様』と今は呼ばれる側室は、朝が弱いらしく、列席はしていない。
 シオン・カイナスの庇護下にあれば、虎視眈々(こしたんたん)と狙う(その中にはシオンの実家であるカイナスの本家も含まれるのだが)諸貴族達の誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)や、実力行使からも守られる。
 よい対策であろうと、特に何の感慨も持たずに聞き流していた。
「あの子とアスターが一緒に育てば、きっと殿下とシオンみたいになるわね。丁度いい喧嘩相手だね」
 仮にも王子をあの子呼ばわりして、カイナス夫人は会話を締めくくる。
 半年ほど前に彼女が産んだ双子。カイナス家の長男アスター・カイナスと長女ミカエル・デイジー・カイナス。父親と同じ花の名前で、その別称であると言う。経歴に謎の多い女魔導師の故郷の言葉らしかった。
 食事が終ると、子供達を見てくると言い置いて、彼女はそそくさと席を立った。その後ろ姿を見送り、魔導師が初めてまっすぐ見つめて来る。
「閣下、セイリオス殿下から、先日の申し出への回答を預かっています」
 改まった口調でそう通達する。思わず手が震え、紅茶の入ったカップを皿にぶつける。
 清んだ音が小さく響いた。
「そうか。それで?殿下は如何申された?」
 (はや)る心を抑え、勤めて平静な声を出す。しかし、次の言葉でその虚勢は打ち砕かれた。
「ディアーナ様はご病気であられます。少々重い病にて、ご面会は差し控えさせて戴きたい、との仰せです」
「な…ならば尚更お会いしたい!!シオン殿、今一度、殿下にお願いしていただきたい」
 日陰の身となり、あまつさえ病を受けているとは…不幸の重なりに耐え切れない思いが胸を焦がす。
 我知らず椅子を蹴り、身を乗り出していた。
 しかし、筆頭魔導師は首を振る。
「無理でしょう。殿下の心は既に決まっています。諦めて下さい」
 アルムレディンは大きく首を振った。テーブルに乗せられた拳が、白くなるほど握り締められている。
「承服できかねる。シオン殿、重ねてお願いしたい。ただ、姫を慕う者として、今一度(いまひとたび)あのお方にお会いしたいのだ。貴方からも口添えして貰えないだろうか?」
 王が他国の臣下に頭を下げる。普段であれば在り得ない光景である。だが今、自分の供は一人もいない。だからこそ、心からの懇願を口に出来た。
 琥珀(こはく)の瞳が、まっすぐに見つめてくる。探るように、または値踏みするように。
 じわりと、魔導師の後ろから闇が湧き立つような気がした。背中を冷たい戦慄が走り、思わずゴクリと喉を鳴らす。
 全身に、魔導士の気迫が叩きつけられる。
 これがこの男の本質に違いなかった。闇を(まと)い、闇を引き連れ、真実の光を暴き出す。この闇に負けることは、すなわち死を意味する。
 低く静かな、それでいて斬りつけるような声が、問いを紡ぐ。
「それは、ダリス王としてのお言葉か?」
 朝の光に溢れているはずの室内が、にわかに暗くなる。
 得体の知れない闇の圧力に気圧されないように、アルムレディンはゆっくりと腹に力を込めた。
「私の身分などは関係ない。ただの男として。かつて、ともに剣を持ち並んで戦った(とも)として、貴方にお願いしている」
 強い視線がふと和む。端正な顔に何時もの人の悪い笑が浮かんだ。
「まぁな、こと姫さんに関しちゃあ、セイルの石頭はかわらねぇんだがね…」
 不意に口調を崩し、皇太子を愛称で呼び捨てながら、前髪を掻き上げてため息をつく。
「会ったところで、セイルが姫さんを手放すはずは無い。それこそ天地がひっくり返っても無理な相談だ。それでも会いたいのかい?」
 更に闇が濃さを増し、身体に纏わりついてくる。闇の向こうで、再び射るような光を宿して見据える魔導士の瞳を、真正面から見つめ返した。この男の関門を通らねば、姫に会う道は無い。
「無論だ」
「会って、姫さんがお前さんと一緒に行くって言えば、あいつも反対できねぇからな」
 野卑(やひ)た言い方に眉を寄せる。
「そんなあさましい事は考えていない。ただお会いして、お心をお慰めできればそれでよい」
 鋭い刃物のような目が閉じられる。途端に纏わりつく闇が霧散し、室内は何事も無いかのような朝日に満たされた。
「判った…ただ、会ったところで、何も変わらない。むしろお前さんには酷なことかもしれん。それだけは、承知してくれ」
 朋としての忠告だと、今度は悪戯っぽい声で笑う。その笑や声の何処にも、最前の闇の片鱗すら残っていない。
 アルムレディンはやっと肩から力を抜いた。礼を言い腰を下ろす。
「しかしなぁ、セイルもお前さんもどうしてこう、姫さんに執着するのかねぇ?倉に仕舞って置けるようなもんでもないだろうに」
 笑いながら首を捻る魔導士は、戦役時、最愛の恋人を死地に赴かせた。王女救出と大樹の破壊。どちらが失敗しても共倒れの作戦であった。
 最も愛する者をこそ甘やかしはしない。突き放し、肩を並べて戦うことを選ばせた。厳しい愛し方である。
 無論上首尾であったからこそ、一粒種をもうける事も出来たのだが…
 ダリス王は、今でも忘れられない光景がある。
  破壊された大樹の元、混乱する城下の只中で、必死の形相で一人の少女を探す魔導士の姿。
 本心など曖気(おくび)にも出さないのが常な男の、紛れも無い本音と恐怖。
 あの姿を見ていなければ、自分は此処までこの男を信頼しなかっただろう。
 クライン一信用の置けない男。だが、彼の信頼と友情を勝ち得れば、これ以上心強い味方は居ない。あらためて、この男の忠誠まで掌中にしたセイリオスを羨ましいと思う。


 城に戻るまで、多少の準備が要る、と魔導士は言った。それまで庭でも散策してはどうか?と。
「ここの花も、貴方が丹精されたのか?」
 宮廷庭師を自称する筆頭魔導師は、自慢の花の話題に相好を崩した。
「勿論。そのためにここを選んで家を作ったんだ。ここは土が良くてね。飛び切りの華が咲く」
 眩しそうに庭を見やる視線の先には、小さな少女と遊ぶ女魔導士が居た。
 茶色の髪が日に透けてきらきらと輝く。満面の笑顔と相まって、向日葵(ひまわり)の花を思い起こさせる。
 筆頭魔導師の至宝の華。
 この男に、こんな穏やかな憩いの場があるとは意外な気がする。
 それも、あの女魔導師が彼の片腕であり、夫にも負けないほどの才気と実力を持っているからこその平穏なのだろう。
 ワーランドでも長い歴史を持つクライン王家には、まだまだ(わだかま)る闇がある。彼ら夫婦は、セイリオスを建ててその闇を払拭するため、今も戦う戦友同士でもあるのだ。
 まあ、そんな詮索を他国の人間である自分がするのは、お門違いかもしれないが。
 庭の入り口には、豪奢な黄金の髪をした女騎士が立っていた。
 騎士の略装が華やかなドレスに見えるほどの美貌の女騎士も、青年王には見知った顔だった。大樹破壊のもう一人の要員である。
 傍らに立つ聖騎士が、軽く頷きかけると、柔らかな微笑で返している。
 副筆頭魔導士キール・セリアンの奥方であると、魔導士に聞いた。
 クライン初の女騎士である。
 彼女は側室の警備の為に、カイナス廷に派遣されていた。
 だから自宅に帰るときは、彼も連れてこないと妻から嫌味を言われる、と、魔導師は苦笑した。


 妻に歩み寄る筆頭魔導師と別れ、青年王は庭に足を下ろした。ふと、魔導士夫妻に挟まれた幼女の淡い紫の髪が気になったが、そのままゆっくりと花壇を眺めつつ散策を始める。
 魔導士が自慢するだけあって、見事な花々が揺れている。
 花は花壇だけではなく、煉瓦を敷き詰めた小道の両側にも咲き誇り、そのまま林の中へと続いていた。
 花に見蕩れつつ歩を進める。梢を縫って降り注ぐ木漏れ日の中で、ひっそりと建つ小さな四阿(あずまや)に気がついた。そこに、誰かが居るのが見える。
 ゆっくり近づくと、どうやら四阿(あずまや)の周囲に咲く花の手入れをしているらしい。木漏れ日を受けて、薄紅(うすくれない)の髪が揺れている。
 一瞬心臓が跳ねた。
 もしやと思い、まさかと首を振る。
 ()の人は、北の離宮で臥している筈だから。
 それでも、戸惑いつつ歩み寄る。
 近づくにつれ小さな呟きが聞こえてくる。
「うーん、こうかしら?駄目ですわ、シオンのようには出来ませんわ…」
 もう足を止めることは出来なかった、早足で四阿に飛び込み声をかける。
「ディアーナ」
 しゃがみ込んでいた人物は、小さな悲鳴をあげて尻餅をついた。
「いったぁい」
「あ…大丈夫ですか?…済みません」
 思わず謝罪の言葉を述べる。薄紅の髪が揺れて、小さな顔が振り向いた。
「もう…セイル驚かせないで…まぁ…アルムレディン殿下…?」
 深い紫の瞳が大きく見開かれる。この三年間、片時も忘れることの出来なかった愛しい少女が、少し大人びた姿で目の前に居た。
 引き寄せられるように側に寄り、立ち上がろうと慌てる腕を取って助け起こす。そしてそのまま腕の中に包み込んだ。
「姫…会いたかった。この三年間、いいえ、あの幼い日よりずっと…」
 腕の中の華奢な身体は、じっと身を固くしていた。やがて、幽かな震える声が聞こえる。
「…あの…殿下?」
 当惑した声を聞き、はたと理性が戻る。あまりにも突然の再会。我を忘れて抱きしめた事に、今更ながら気がついた青年王は、慌てて腕を解き一歩退いた。ただ、その両手は想い人の肩に添えられたままであった。
「すみません、しかし信じられない。こんなところでお会いできるとは…望外の喜びです。幻ではありませんね、ディアーナ姫」
 現実を確かめるように、彼女の瞳を覗き込む。肩に添えた手は、細いがしっかりした感触を伝えて、アルムレディンに更なる喜びを実感させる。
「病に臥していると聞き、心配していたのです。逢えて良かった」
 穏やかに微笑み返してくる王女を見ていると、どうにももう一度抱きしめたい衝動に駆られる。納まりのつかない感情を持て余し、肩に置いた手を離せずに居ると、今度はディアーナが一歩後ろに下がり手の中から抜け出した。そのまま優雅に礼を執る。
「お久しぶりでございますわ、アルムレディン殿下…いえ、もう陛下であらせられましたわね」
 流れるような動作に目を奪われる。だが、心のどこかに違和感を感じた。それが、溢れかえりそうな激情に水を差す。
 自分が知っているディアーナとは、何かが確実に違っている。これは、1児の母となったゆえの変化なのだろうか?それとも、不遇の境遇に耐えているからなのだろうか?
 戸惑う青年王に、再び微笑みながら向き直った薄紅の貴婦人は、四阿(あずまや)の中に設えた椅子を示した。
「お座りになられませんか?少しお話いたしましょう」
 促されるまま小さなテーブルを挟んで腰を下ろす。見ればテーブルにはボットと何客かのカップが置かれていた。
「ここで何時も、お友達とお茶を楽しみますの。陛下も如何ですか?」
 手馴れた仕種で茶を注ぎ、にっこりと差し出してくる。
「では、お言葉に甘えて」
 誘いに応じて茶を受け取る。馥郁(ふくいく)たる香りが、ゆっくりと気持ちを鎮めてくれた。
「驚きましたわ…どうして此処へ?」
 小さく首を傾げて、愛らしく問い掛ける。その動作の一つ一つに、落ち着いた気品が備わっていた。ダリス王のなかで、一連の出来事に対する疑問が氷解していく。
――そういう事か…――
「シオン殿の悪戯です。いや…セイリオス殿下の最後通告かな?」
 不思議そうに見開かれる紫の瞳に、アルムレディンは苦笑して見せた。彼とても愚鈍な男ではない。皇太子が(はか)り魔導士が仕掛けたこの邂逅(かいこう)の意味を、既に理解していた。
「実はね。貴女にお会いするまでに、かなりの関所が有りましてね、なぜそうなのか不思議だったのですよ」
「そうだったんですの」
 至極真面目な返答に、再び苦笑がもれる。
「ええ、それはもう大変でしたよ。なにしろ、最後の関所は、シオン殿その人でしたからね」
 わざとおどけた言い方をしてみせると、小鳥が(さえず)るような笑い声がはじける。
「まあ、それは大変でしたのね。シオンは男の方に容赦が無いから」
「はい、猛獣と睨み合った気がします」
 どちらともなく笑い合い、薄紅の貴婦人は、再び首を傾げた。
「でも、なぜ、そうまでして、わたくしと会おうとしてくださいましたの?」
 屈託の無い微笑みに、微かに胸の奥が痛む。
 アルムレディンは再度苦笑する。
「私の中で、貴女はずっと泣いていたんです。三年前からずっと…その涙を止めて差し上げたかった。昔、女神の樹の下で、貴女に笑っていただいたようにね」
 長い睫にひとみが霞み、懐かしげな眼差しが、木漏れ日に揺れる木々へ向けられる。
「よく憶えています。あの時、わたくしには貴方が夢の王子様に見えましたのよ。あの時のお約束は、ずっと大切な宝物でした、でも…」
 形の良い眉が、困ったように寄せられるのを見て、言うべき言葉を口にする。
「貴女の涙を止めたのは、私ではなかった。という事ですね、姫。いいえ、お方様」
 穏やかな視線が、自分に戻ってきたのを確認し、微笑で返す。
「今、私がお会いしているのは、ディアーナ姫ではなく、セイリオス殿下のご側室。ディアーナ姫はやはり、北の離宮で、重い病に臥しておられるらしい」
「ええ、実はそうですのよ」<
 青年王の言葉に薄紅の貴婦人は悪戯っぽく肩を竦める。こんな仕種は、少女の頃と変わらない。しかし、そこはかとなく立ち昇る艶やかさは、愛する者を得、愛されることを知った一人の女性の美しさである。
 完敗だった。
 彼女の微笑みはセイリオスによって育まれ、確固たる力強さを持っている。自分が介入する隙は、どこにもなさそうだ。
 皇太子の難色。魔導士の気迫。全ての理由はここにあった。
 要は王女との面会ではなかったのだ。
 王家の血を持たぬ騙者(だまりもの)……現皇太子の血筋への不穏な噂と、新たに誕生した次代の世継ぎの出生の秘密。クラインの国家機密の真っ只中に、ディアーナが居る。
 これでは、会わせてくださいはいそうですか、となるわけが無い。
 先刻の魔導士との対決は、正に最大の関門だったのだ。この秘密を、知るに足る人物かどうか、あの闇によって、己の中の真実を暴かれた。そして魔導士の試練に、どうにか合格したらしい。
 ただ場を設えての会談であったのなら、おそらく、ディアーナを手に入れたいという思いは膨れ上がるだけだったろう。
 今までだって、王女自身からも拒否の言葉を受けている、にもかかわらす未練を捨てられずにいた。
 全ての真実を目の前に突きつけられない限り、前ダリス王よりも、愚かな行為に走ったかもしれない。もはや居ない少女の為に。
 長く胸に秘め、求め続けた乙女を失ったというのに、アルムレディンの心は、不思議なほど晴れていた。
 他国の王である自分が、あの二人の朋としての信頼を勝ち得ることが出来た。これは、何よりも得難い事ではないのだろうか。
 満足と落胆。この相反する感情に、青年王は小さく溜息をもらす。
「どうなさいまして?」
 じっと見詰める青い瞳に、居心地の悪さを覚えたのか、薄紅の貴婦人は僅かに頬を染めていた。
 愛しいディアーナ。しかし、甘美な思いは幼い日の記憶と相まって、遠い春の日差しのように隔たって見える。
「いえ…あなたが笑っておいでなのが、嬉しいと思ったのですよ」
 心からそう言えた。何よりも見たかった笑顔が此処にある。もう、それで良い。
「もう、何も、心に残る物はありません。会えて本当に良かった」
「わたくしも嬉しいですわ…」
 幼馴染同士の会話は、取り留めの無い話題に移っていった。
 静かなさざめきが林の中に流れていく。


 ひとしきり笑いあった後、あの幼い少女が帰還の準備ができたと教えにきた。
 淡い紫の髪が、祖父の髪を思い起こさせて、少女が自分の血に連なる物と確信した。はたしてディアーナは、静かに頷く。
「前ダリス王の娘。第七王女にあたる。セラフィムですわ。メイの世界の、天使の名前ですのよ」
 愛しげに髪を撫ぜる仕種に、前王が残した傷は、全て癒されたのだと安堵する。
「では、セラフィム姫。これからは、貴女が我が国とクラインの掛け橋となられるのですね。どうぞ貴女に女神の祝福がありますように」
 貴婦人にするように手の甲へ口付けると、可愛らしい顔でにっこりと笑ってみせる。愛情に包まれて育っている子供の首に、アルムレディンは、携えていた細い首飾りを掛けた。
 飾り細工の鎖に、金色の指輪が通してある。かつてディアーナに送られ、婚儀の前、決別の時に返された、約束の指輪。
 本当はもう一度王女に渡す為に持っていたものだ。だが、もうその必要は無い。ならば、我が血に連なる姫に一族の品を持っていてもらいたかった。
 不思議そうに鎖をいじる姿に微笑んで、その母親に向き直る。
「何時か…姫と共にダリスへ遊びに来てください。その時は、私も子供とお出迎えできるでしょう」
 貴婦人が頷く。
「はい、陛下もまた、遊びに来てくださいね。お待ちしていますわ」
「お方様にですか?それとも、ディアーナ姫に?」
 悪戯心を起こして聞いてみる。王女は無邪気に肩を竦めた。
「ディアーナにですわ。もうすぐ本復いたしますの」
 ならば『お方様』は消えるのだろう。いずれにせよ、北の離宮は皇太子の宝物庫となるらしい。
「最後に一つだけ、お伺いしても良いでしょうか?」
 青い瞳が、まっすぐに紫の瞳を見詰める。
「貴女は今、お幸せですか?」
 穏やかな微笑がゆっくりと頷いた。
「はい」
 愛する者がいて愛される喜びに包まれ。得難い友に囲まれる。こんな人生が不幸せなはずが無い。そう物語る微笑である。
 シオン・カイナスの言った、飛び切りの華の意味が、やっと判った。
「それならば…私も幸せです…」
 別れを告げ四阿(あずまや)を後にする。最後に振り返ったとき、薄紅の貴婦人は、木漏れ日の中で微笑んでいた。
 もう、涙に暮れる彼女を思い出すことは無い。アルムレディンの中で、ある時期が終り、新しい時が刻まれ始めた。


 クライン、ダリス間の和平と共闘の条約は締結され、ここに、新たな平和の時が訪れた。
「戦いの時代は終り、これよりは我等が平和の礎となろう」
 結ばれた条約へ、ダリス王はそう宣言した。
 かくて、ワーランドで蜜月と呼ばれるほどの平和を分かち合う、二国が誕生した。両国の同盟は、次の世代にも受け継がれ、二つの王族の血を引く王女は、ダリスへ嫁し、賢夫人の誉れを受けたという。

 しかし、それはまた別の物語として語られる。

終劇