秋茜


王都はまだ、時折残暑に見舞われる秋の初め。
 山中の渓流(けいりゅう)の辺には、既に紅葉がその兆しを見せ、羽化したばかりの秋茜(あきあかね)が漂うかのように群れ飛んでいる。
 流れに乗り、銀の鱗を煌かせる魚達は、冬の備えをはじめて、幾分ふくよかな姿に見えた。
 初老の男が、渓流に釣り竿を立てて、ゆったりと岩場に体を凭せ掛け、そんな様を楽しんでいる。
 (せせら)ぎに釣り糸を垂らしながら、長閑(のどか)な景色をのんびりと眺めるのは、日ごろ激務に追い回されている彼にとっての、数少ない息抜きだった。

 穏やかな陽光の下、川風は過ごしやすい気温を保ち、彼は和やかな時間の中でうとうととまどろみ掛けていた、が、
「父上!」
不意に発された声が、彼をまどろみの中から引き戻す。
 だが、甲高く幼い声には、なにやら堪らないほどの嬉しさが込められていて、その弾んだ声に微笑みながら、彼は声の方を見た。
「ほらっ山女魚(やまめ)だよ。こんなに大きいの!」
 さぞかし激戦だったのだろう。胸の辺りをびしょぬれにした幼い少年が、まだ抵抗を続ける川魚を得意げに掲げてみせる。
 父と同じ蒼い髪が、川風と陽光の中で揺らめく。
 幼児をやっと過ぎたばかりの少年は、父親が目を離した隙に、魚と戦いつつ川の中ほどの岩に行ってしまっていた。
 足元には急流になった流れが激しく岩を叩いている。おそらく、あの下はかなり深くなっているのだろう。
 釣上げるまで自分を呼ばなかった、独立心と釣果を誉めるべきか、言い付けを守らず、危ない場所へ行ってしまった、思慮の足りなさを叱るべきか惑いながら、それでも息子の満面の笑みに、思わず顔が(ゆる)んでしまう。
 どうもいけない。彼はこの末の息子に、ついつい甘くなる。上の子供達からも、自分の時と違うと、随分言われてしまった。老いてから生まれた子は、殊更(ことさら)愛しさが増すと聞くが、実にその通りだと痛感する。
 だからこそ、今まで一人の趣味であった渓流釣りにも、この子を連れてきてしまうのだ。
 すっかり釣仲間となった息子は、馴れと本来の向こう気の強さから、険しい岩場も恐れない。頼もしいと言うべきか、危なっかしいと危ぶむべきか。何時かしっかり言い聞かせねば、どんな事故があるやも知れない。
 判ってはいるのだ。
 それでもやはり、この笑顔を見てしまうと、叱るタイミングを逸してしまう。
 苦笑しながら、父親は立ち上がった。

「よくやったな」
 父からの賛辞を聞いて、少年は更に笑みを深くする。
 上の兄弟達から、甘やかされる末息子と言われてはいても、彼の父は決して愚昧(ぐまい)な親ではない。
 叱るべき時には叱り、誉める時には誉め、善悪の区別や、物事の理すら的確に教えてくれる。
 彼にとって、父が世の中の中心だった。
 中州の岩場は危ないと縛められていても、この成果を見せたくて、獲物を諦める事が出来なかった。
 今の言葉を得たいが為に。
 叱られなかった事にほっとしながら、それでも後で釘を指されるに違いない。だが今は、父の笑顔が、幼い心を有頂天にさせていた。
「今持っていくね」
 獲物を(かか)げたまま、岸へと続く足場へ飛び移る、『迎えに行くから待て』という父の言葉は、得意の絶頂にある少年には聞こえなかった。
 行く時には細心の注意を払ったはずのぐらつく石に、何も考えずに足を下ろす。
 頃合を見計らったように、生への執着を捨てぬ獲物が、一際大きく跳ね上がった。
「あっ!?」
 小さな悲鳴を残して、小柄な体が渓流に飲み込まれていく。
「!!!」
 父の叫ぶ声が聞こえた気がしたが、すぐに急流に翻弄され、何も判らなくなる。
 飲み込んだ水の苦しさに、空気を求めて必死に水を掻くが、大人でも胸まで浸かる深みの中では、彼の体はあまりにも小さすぎた。
 指に触る岩場や、水草、岸から伸びた木の根ですらも、速い流れにたちまち奪い去られ、川底の小石のように、くるくると流れに弄ばれて、気まぐれにあちこちにぶつけられる。その都度に漏らす悲鳴は、空気を手放して水を呼び込み肺を焼く。
 そして時折、ほんのお情けのように水面に浮かび上がるのだ。
「父上!」
 助けを求める声は、自分の耳にすら届かずに、水瀬に木霊し、少年の命の儚さを際立たせる。
 川底の闇に意識が沈み込む寸前。少年の体は、力強い腕の中に引き揚げられた。
 
 川岸に横たえられ、激しく咳き込む息子の背を、父親が擦り続ける。
空者(うつけ)が、父の言いつけを守らなんだ報いじゃ」
 厳しい言葉とは裏腹に、その声音は限りなく優しく、無事に助け出せた安堵に掠れていた。
「…父…うえ…」
 咳込みながら起き上がろうとする息子を、大きな手がやんわりと押さえる。
「まだ起きるでない。山荘に帰り、医師を呼ばねばな、怪我はないか?」
 びしょ濡れの小さな頭が素直に頷く。
「説教は、その後でゆっくりするとしよう」
 細い肩が慌てて竦められるのに笑いながら、立ち上がろうとすると、足に激痛が走り体がぐらつく。
 見れば彼の(すね)は水中の岩で切っていたらしく、抉られた様な傷口がぱっくりと口を空け、血が溢れ出ていた。
「父上!?」
 父の異変を感じた少年が、悲鳴のような声をあげる。
「騒ぐでない」
 こんな事に気がつかぬほど必死になっていた自分に苦笑しつつ、冷静に傷の具合を調べる。見た目と出血に比べてさほど深い傷ではないと判断する。
 止血には何かで縛らなければならないだろうが、水に飛び込むとき、上着もスカーフも靴すらも放り出してきていた。まあ無いなら無いで何とでもなる。
 シャツの袖を破こうと手を掛けた先に、息子が自分のサッシュを解いて差し出した。
 泣き出すより先に、何が必要かを見分けられる豪胆さを持っている。息子の素養に父親は目を細めた。
 短く礼を言い、サッシュで傷を縛り上げる。きつく撒きつけたお陰でかなり楽になった。
「父上・・・ごめんなさい・・・」
 応急処置を終えて父が無事に立ち上がるのを見た安堵の為か、少年がはじめて泣き出した。
 自分の浅はかさが招いた結果に、どうして良いのか判らない、といった風情である。
「泣くでない。これしきの傷。戦場でなら当たり前の事だ」
 しゃくりあげる背中をそっと撫ぜながら、父の深い声が降りてくる。
「己の所業を悔むのなら、二度とせぬ事を心がけよ」
「父上・・・」
 唇を噛み締め、涙を飲み込もうとしている幼い息子に、愛情を込めた眼差しを向け、小さな体を抱き上げる。
「父上!?歩けるよ、大丈夫だよ」
 傷を案じる息子を、父親は構わず歩き出した。
「よいか、考えの無い行動が、どんな結果を招くか、しっかり肝に銘じておけ」
 腕の中のこどもが緊張する。
「はい・・・」
 深い飴色の瞳が、柔らかく細められる。
「今日の失敗を、忘れるで無いぞ。よいな、シオン」
「はい・・・父上・・・」
 決して甘やかす慰めなど言わない父の、厳しいがやさしい笑顔。
 少し翳り始めた秋の日差し。
 歩み去る親子の影が長くなり、秋茜はその影を縫うように、薄紅色の羽を煌かせる。
 とある日の出来事。



 高くなり始めた空は、黄昏色に染まり、長い影が石畳に寝そべる。
 風はまだ残暑の熱気を含んでいたが、それでもほんの少しだけ密やかな秋の訪れを囁いている。
 公園の噴水を眺めつつ、老人は先程から一人とぼとぼと歩いている少年を見詰めていた。
 迷子だろうか?
 不安げに辺りを見回し、すぐに項垂れて歩き始める。
 心許無いその姿に、老人は思わず腰を上げかけた。
 途端に、眩暈(めまい)が起こる。
 翳む視界で杖を探すが、手を伸ばすよりも体が傾ぐ。
 よろけて数歩前に蹈鞴(たたら)を踏み、迫ってくる石畳を口惜しく思う。
 しかし、老人の体は、何か柔らかいものに支えられた。
「ふぃ〜危機一髪」
 体の下から明るい声が発せられ、次いで力強く持ち上げられる。
「大丈夫?おじぃちゃん」
 見れば自分にしがみつく様にして、一人の少女が笑っていた。
 年の頃ならば14・5というあたりか、利発そうな茶色の目がきらきらと輝いている。
「ああ、すまんな。嬢ちゃんや、ありがとう」
 礼を言い、支えられながらベンチにもどる。腰を下ろすと我にも無く溜め息が漏れた。
「年は取りたくないもんじゃな・・・情け無いところを見せてしもうたの」
 体の衰えに気鬱(きうつ)を感じてそう漏らす。途端に背中がパンと鳴る。
 衝撃と痛みで、少女に背中をどやされたのだと判る。同時に声が弾けた。
「何言ってンのよ。おじぃちゃんおばぁちゃんは人類の宝物よ。今まで苦労したんだから、ゆっくり隠居して、長生きして頂戴よ。」
 気鬱も吹き飛ばす太陽のような笑みに、老人の頬も緩む。
「そうかの?」
 茶色い髪が肩の辺りで揺れ、少女は勢い良く頷いた。
「当たり前じゃない。あたしだって年取ったら、ゆっくり楽隠居するつもりだもん」
 あまりにも不似合いな台詞に、思わず苦笑する。
「そうか・・・嬢ちゃんも長生きするつもりか」
「そ〜よ。だから頑張って長生きしてね大先輩」
 久々に心から笑っている自分に気がつく。この少女は何者だろう?することも言う事も破天荒だが、瞬くうちに自分の心に馴染んでしまう不思議な少女だった。
「嬢ちゃんは・・・」 
 名を聞こうと口を開いた時、子供の泣き声が響いてきた。
「あちゃ〜コケタ・・・」
 少女の言葉通り、あの少年が地面に転がって泣き声を張り上げていた。迷子になった不安と、転んだ痛みで、もう我慢ができなかったのだろう。
「ちょっとごめんね」
 言い置いて少女が少年に向かって走っていく。白いケープの下に、見たこともないほど短いスカートを履いている。すんなりと伸びた足が石畳を軽快に駆け抜ける。
「おーいぼくちゃん。な〜に泣いてるのかなぁ?」
 立たせてやるのかと思いきや、少女は少年の側に立って、業とらしく声を掛けた。
「そこ、気持ち良い?」
「うるさいやい!!」
 いきなり声を浴びせられて、驚いたらしい少年は泣くのを止めて少女に不機嫌な声を返す。
「ほう・・・」
 老人は思わず目を細めた。優しく宥めるのではない少女のやり方に感心したのだ。
 確かにあのまま慰めたのなら、保護を感じた少年が泣き止まないのは明白である。業とショックを与えて、少女は彼を現実に引き戻して見せたのだ。
「なっまいき〜。でも、寝てたら怖くないもんね」
 嘲るような声に、むかっ腹を立てたらしい少年は、憮然とした顔で立ち上がった。
「えらい!」
 一声誉めて、少女が少年を抱きしめる。
「頑張ったね。さすが男だね」
 貶されていたかと思えばいきなり誉められて、少年は少女の腕の中でぽかんとしていた。
「ねえぼくちゃん。お家はどこら辺?おねぇちゃんが連れてったげるよ」
 目の高さまでしゃがみ込んで少女が尋ねる。
 すっかりあっけに取られていたらしい少年が、なにやらぼそぼそと答えている。
「おっしゃ。そこなら知ってる。行こうか?」
 頷く少年の手を握ると、少女が老人の方へ歩いてきた。
「おじぃちゃん。あたし、この子送ってくわ。おじぃちゃんはどうする?もし苦しいんなら、この子送りがてら、おじぃちゃん家にも行くよ」
 眩暈を起こした自分を案じてくれているらしい。老人は微笑みながら首を振った。
「家の者がな、迎えに来る事になっとる。心配には及ばんよ」
 普段なら、年寄り扱いをされたと腹が立つはずなのに、この少女には笑みしか浮かんでこない。
 久々に、すべての気鬱から解放された気分であった。
「嬢ちゃんも、帰り道には気をつけるんじゃぞ」
 自分にもこんな優しい声が出せたのか、と思うほど柔らかな声音が発せられ、少女はそれにしっかりと頷いて見せた。
「うん。ありがとうおじぃちゃん。じゃあね」
 手を振って踵を返す少女に、老人は先刻言いそびれた問いを掛けた。
「そう言えば、嬢ちゃんの名前を聞いてなかったの」
 くるりと振り向く小さな顔が、満面の笑みに彩られる。
「あたし?藤原芽衣。あっと・・・こっちなら、メイ・フジワラだった」
 奇妙な言い直しだったが、首を傾げる間も無く、少女は明るい別離の言葉と共に、迷子の少年を促して歩み去る。
「メイ・フジワラ・・・そうか・・・あの娘か・・・」
 思い至って、老人はゆっくりと頷いた。
 その面には、なんともいえない安堵の笑みが浮かんでいた。
 ふと、噴水の辺を飛び去る影がある。
 薄紅の羽の煌き。
 今年初めの秋茜が、やっと王都に下りて来たらしい。
 

 秋茜は、夕日を受けて更に紅く浮き上がって見える。
 だが、あの日、父の腕に抱かれて、涙に翳む目で見ていた蜻蛉(とんぼ)は、今よりもずっと鮮やかな色をしていたような気がする。
 苦心の末つい最近完成した池の出来栄えを確かめつつ、シオン・カイナスは辺に設えたベンチに腰を下ろしていた。
 水面を滑る虫の姿が、あの渓流を思い起こさせる。
「釣でもするかね・・・」
 一人ごちて、池の中に、まだ一匹の魚も放流していないのを思い出す。
 もし放ってあったとしても、王宮の池で釣などをしたら、侍従達が目くじらを立てるに違いない。
 特に、『台風の目』などと徒名のついた、王宮のトラブルメーカーがしでかす騒動に、これ幸いとねじ込んでくる輩も多いだろう。
 おそらくそれは、諦めかけた長老達よりも、虎視眈々とこちらの失態を狙っている枢機卿(すうききょう)議会の連中に違いない。
 時々は、奴らの足元を掬ってやる為に、業と火種を与えてやりもするが、別段今は必要ない。
第一、 そんな騒々しさは、今は欲しくない。
 ただこうやって、静かに昔を思い出すのが、気分に合っていると思えた。
 そう言えば、揚げ足を取りに来る筆頭にいるのが、自分の兄達だと気がついて、ふと苦笑が浮かんでくる。
 歳の離れた長兄、次兄は、揃って末弟を疎ましがっていた。幼い頃からずっと。
 父に目をかけられていた分、兄弟の情とは疎遠だったような気がする。
 まあいい。
 すべては済んだ事。
 今さら何が変わる訳でもない。
 父親との事も同じだ。
 あの日、父が負った傷を、彼は自分が治したいと思った。
 それ故に、カイナス家がかかえていた魔導士に師事を仰ぎ、魔道を学び始めたのだ。
 初めのうちは、父も手慰みの一つと考えていたらしい。
 彼もそのつもりだった。
 当時から、貴族の子弟が教養として魔道を習うのは、割合と当たり前の事であったから。
 カイナス家が多く輩出して来た軍人の中にも、魔道と剣の双方を使い、名を残した者もいた。
 折り良く王都では、国王の声掛りで魔導士達が集められ、専門の研究機関が完成しつつあった。魔法研究院の設立である。
 家名柄や年齢も近い事もあって、客員研究生となる予定の皇太子の学友として、彼が院に席を置いた時も、父は魔道も使える軍人を目指すのだと思っていたらしい。
 しかし、目の前に展開されていく新たな探求の世界は、少年であった彼の心を完全に魅了した。
 捕え様の無い自然の力を、己の意志の力で操っていく魔道は、彼の生きる道を定めるだけの魅力を備えていたのだ。
 院の中で、持ち前の強い意志と、溢れるばかりの潜在魔力によって、実力を着々と伸ばし、魔導士の資格をとり肩掛けを拝領して見せた。
 意気揚々と父に報告をし、この時初めて、彼は父との溝を思い知ったのだ。
 すぐに辞めて家に戻れと言う、当時の彼には理不尽な命令に、真っ向から反発した。
 魔導士である自分を認めさせたい一心で、数多くの戦場にも赴いた。
 しかしそこで、エスタスを失った…
 親子の相克。カイナスとローゼンベルグの確執。
 幾多の要素が絡まり合い、父は彼を切り捨てた。
 生涯相対(あいたい)する事はなし。勘当を宣言し、彼の前で重い扉が閉じられた。
 
 
 秋茜は群れとなり、茜色の濃くなった秋の終わりの陽光に煌く。
 耳元に、あの渓流の漱ぎが聞こえるような気がする。
 不思議なものだ。
 どれほどの言い争いを繰り広げたことか、もう思い出せないと言うのに、父と釣糸を垂れていたあの日々は、鮮明に思い出される。
 まるで、その後のすべてが夢の中のように・・・

「シオン?」
 そっと名前を呼ばれて、彼は顔をあげた。
「メイか・・・」
 夕日を弾いて、茶色い髪が金色に透ける。小首を傾げる姿に、彼は愛しげに目を細めた。
「な〜に黄昏てるの?」
 暢気な声に肩を竦める。
「そりゃ、夕方だしな」
 はぐらかすようなボケた返事に、盛大な溜め息が返された。
「聞くんじゃなかった」
 言いつつも、その場に佇んだまま彼を見ている。その様子が、何時もの少女とは違っていた。
「門限いいのか?キールがうるせぇぜ」
 言ってやると、僅かに動揺したように肩が揺れ、次いで思い直したらしく得意げに顎をそらせる。
「今夜はお泊り♪」
「俺のとこにか?」
「ぶん殴るよ、ボケナス」
 相変わらずの威勢のいい切り替えしに笑いながら、自分の横を軽く叩いて呼んでみる。
「ん」
 人の好意に対しては、存外素直な少女は、すとんと横に腰を下ろした。
「姫さんとお前さん。殆ど毎日だべってるのに、未だ話し足りないのか?良くネタがあるよな」
 くつくつと笑ってみせる彼に、なぜたが返事が返ってこない。
 不審に思い少女を見れば、じっと見詰めている茶水晶の双眸にぶつかった。
 釣瓶(つるべ)落しに暗くなりかけた夕日の残滓の中で、奇妙なほど神妙な顔つきをしている。
「どうした?」
「こっちの科白」
「何が?」
 眉を寄せ首をかしげる。そんな姿に、少女は小さく肩を竦めた。
「何があったの?話せない様な、仕事の事?」
 ますます妙な質問である。
「何もね〜ぜ。ダリスの動静を睨んでいる以外は、特にすることも無い」
 そう、つかの間の平和。見通しのつかない先行きに比べれば、いい時期だったのかも知れない・・・
「シオン。やっぱり変だよ・・・まだ気がつかないんだもん」
「だから、何が?」
 薄闇の中で、数を減らしていく秋茜を目で追う。
 そろそろ冬の準備をしないといけない、ぼんやりとそんなことを考えていると、低い、微かな呟きが耳に届く。
「キール・・・居ないよ。もう一月になるよ・・・」
 長い指が無造作に蒼い前髪を掻き揚げる。そのまま手が下りて端正な顔を軽く覆った。
「そう・・・だったな・・・忘れてた」
 彼の後輩。少女の保護者であった青年は、魔法実験の失敗によって重傷を負った。他ならぬ彼自身の判断で、故郷に送り返したのが一月前。彼はその事を完全に失念していた。
「今日シルフィスから手紙がきたの。キールだいぶ良くなってるんだって。だから今夜は、ディアーナと二人の話をしようって・・・」
 少女の言葉が、どこか遠くを上滑りしていく。
 自分としたことが・・・動揺なんてしていないと思っていたのに・・・
「結構きてるんだな・・・」
 苦笑する男へ、少女は覗き込むように首を伸ばした。
「シオン、やっぱすっごく変だよ。何があったの?あたしは聞いちゃいけない事?」
 彼女は聡い。
 とある事件で手駒にしてのけた魔導士の、心の闇を看破し、それすら飲み込んで、側にいると言ってくれた。
 まだ、何と無く側にいる程度に過ぎないのだろうが、それでも、彼の中の変化を敏感に察知して驚かせる。
 まあ、今のような体たらくなら、誰にでも判るのだろうが、弱っている自分を見つけたのが、この少女だった事に安堵している自分が居る。
 彼女の前でなら、彼はもっとも自然体で居られた。
「親父の言うとおりだな・・・」
 苦笑と共に呟きが漏れる。
「シオンのプライベートな事?だったらあたしは聞かない方がいいかな?」
 なにやら気を使ってくれているらしい少女に、彼は笑いながら首を振った。
「良いさ・・・いいや、聞いてくれるか?」
「うん」
 不意に人懐っこいような、柔らかな笑みを向けられて、少女の頬が染まる。
 闇が迫る夕焼けの中、その姿は彼に更に笑みを深めさせた。
「親父が、死んだ・・・」
 笑みのまま発されるには、あまりにも似あわない言葉に、少女の顔が曇る。
「お父さんが・・・?」
 形のいい顎がゆっくりと上下する。それでも笑みは消えない。
「今日、兄貴から手紙がきた。おんなじ王宮内で顔合わせてるのに、三日もかかる手紙出しやがって・・・」
「・・・なん・・・て、言ったらいいのかな?ご愁傷様?ん〜と・・・違うなぁ・・・お悔やみ申し上げます・・・って・・・かな?」
 慌てる少女に小さく笑って、彼は再び群れ飛ぶ蜻蛉を眺め始める。
「気にすんなって・・・昨日今日の話じゃねぇ」
「え?」
「カイナスの当主が死んだ時は、家族だけで十日間の間に、葬式まで済ませるんだ。その後で、知人や王室に届け出る・・・親父はとっくに墓の中さ・・・」
 背を丸めるように両膝に肘をついて、彼は飽きずに蜻蛉を眺めている。もう数匹に減ってしまった。
「・・・何それ・・・シオン。その手紙、三日かかってるって言ったわね。お父さん亡くなったのって・・・」
「十日前」
 勢い良く少女が立ち上がる。
「何それ!?シオン家族でしょう?息子でしょう?どうして他人扱いなの!?」
 激昂する少女に対して、やはり穏やかな笑みが返される。
「勘当息子は、家族の勘定には入んないんだとさ。表向きに執り行われる告別式にも、顔出すなってさ」
 拳を握り締め、少女は全身から怒りを発散させていた。
 まるでそこに彼の兄が居るかのように、前方を睨み据える。
「信じらんない!それが弟にする仕打ちなの!?あんまりじゃないの?ちょっとシオン!あんた笑ってる場合じゃないでしょう!?もっと怒りなさいよ!」
 怒りに地団太を踏む彼女の腕に、そっと手が添えられる。
「まあ座れって。俺はカイナスの鬼子だからな。たとえローゼンベルグが没落したと言っても、俺を戻す気にはならない。親父が死んだ機会に、一切の関係を絶ちたいってのが、兄貴の考えらしいぜ」
 促されるまま再び腰を下ろし、妙に静かな男の横顔を見る。夕闇の中で、彼はただ水面を飛ぶ蜻蛉を眺めている。怒気も悔しさも、彼からは読み取れない。
 少女はゆっくりと息を吐いた。
「シオンは・・・それで良いの?」
「ああ、これからは、兄貴でも気にしないで、政敵になったら相手ができるってこった」
 シオン・カイナスが皇太子セイリオスに対抗する政敵を、容赦なく追い落とすのは彼女も知っている。ではこれからは、彼の実家ですら、その対象に入ると言う事か?
 大人の世界、政治の世界の話とは言えど、やりきれない。
「シオン・・・」
 言葉の接ぎ穂を失って、少女はただ男の横顔を見詰めていた。その視線を感じて、彼はゆっくりと少女を見た。
「実のところ、今は何も考えにならね〜んだ・・・何でかなぁ・・・?」
 常の彼とは違う、ぼんやりした物言いに、少女は思わず彼の肩に手を掛けた。
「あたりまえじゃん。お父さんが亡くなったんだよ。何時も通りの方がどうかしてるよ」
 肩にかかる温もりに目を細めて、また秋茜を視界に戻す。もう二匹が飛んでいるだけ。
「そうか・・・あのな・・・親父とは、結構喧嘩したんだ。俺が魔導士になるのが気に入らないっていう親父に反発してな。そりゃあもう、盛大な親子喧嘩だったぜ」
 おかしそうにくすくすと笑う姿が、少女にはむしろ痛々しい。
 うんうんと頷く少女の手に、そっと男の手が重ねられる。
「でもな、妙な話なんだが。どんな喧嘩してたか、思い出せね〜んだ。思い出すのは・・・赤とんぼ・・・」
「赤とんぼ?」
 妙な言葉に、彼が眺めている池を見る。二匹の蜻蛉は、まだ水面で遊んでいた。
「餓鬼の頃は、親父によく渓流釣に連れて行かれたんだ。結構な腕だぜ。みっちり仕込まれたからな。秋口に行くと、まだ山に居る赤とんぼが群れていて、それを見ながら、山女魚やまめを釣るんだ。釣たてをその場で焼いて食う。すげ〜美味いぜ」
 ゆっくりと懐かしげに微笑む。
 そんな様が、少女には痛い。彼は静かに父の冥福を祈る為に、この誰も来ない出来立ての池に居たのだ。
 赤とんぼを眺めて、幼い頃の思い出を辿り、父を悼んでいた。
 初めて見る、そんな姿に、なんだか喉の奥が熱くなって来る。
「・・・何泣いてるんだ・・・?」
「え?」
 言われて初めて自分が泣いていると自覚する。余計に涙が込み上げてくる。
「うっ・・・く・・・」
 ぐいぐいと無造作に袖でこする。それでも涙は止まらない。
 シオンが痛くて・・・
「泣くなって・・・目が腫れちまうぞ」
 大きな手が、そっと頬をくるむ。指で涙を拭っても、それは余計にこぼれ、止まりそうに無い。
「何で泣いてんだって・・・お前さんの親じゃあ無いだろうが」
 笑う男に、茶水晶が強気に睨んでくる。
「あんたが泣けないから・・・変わりに泣いてやってるのよ・・・お父さん亡くなって、あんた泣きそうなのに泣けないんじゃない・・・だから・・・」
 泣きながら、それでも向こうっ気は変わらない。
 苦笑しながら、小柄な体を引き寄せ、自分の胸の中に掻い込んだ。
「ありがとよ。親父も喜ぶぜ」
 震える肩を愛しげに抱きしめて、つややかな髪に頬を埋める。少女らしい柔らかな香りが、妙に心に染み込んでくる。
 ああ、温もりが欲しかったのかと、今さらながらに自覚する。
 欲しい物を的確に与えてくれた少女を、ほんの少しだけ強く抱きしめて、柔らかで暖かなものが、心の中に空いていた穴を埋めていくのを楽しむ。
 やはり、まだまだ父には適わないと言う事か・・・

 まだ泣き止まない少女を抱きしめたまま、彼はそっと二通の封書を取り出した。
 釣瓶落しの日は、既に闇にとって変わり、蜻蛉も姿を消した。もう文字などは見えなかったが、一言一句思い出すことができる。
 一通はカイナス伯の訃報。二度と出入りするなと言わんばかりの兄の無機質な文章。
 言われなくとも、もう家族とは思わない。
 手の中でゆっくりと握り潰す。
 もう一通は、そっと仕舞いこむ。
 父からの、最後の手紙。自分にだけ当てられた遺言状。
 内容は、実のところ、少女が見たらやはり怒るかも知れない。
 父は、書面の上で、はっきりと生涯勘当は解かれないと明言していた。
『生涯勝手。二度とカイナスの敷居は跨ぐな。お前は、好きに生きるがいい』
 さてこの文面の意味を、少女に話して理解してもらえるものだろうか?
 父から、最初で最期の自分への肯定。幼い日の厳しさそのままに、それでも己の道を見つけた息子へ、すべての(しがらみ)を断ち切って自由を与えた。
 これが父からの遺産と言えるだろう。
 何よりの財産である。
 彼はそっと微笑んだ。
 腕の中の少女は、まだしゃくりあげている。
 なんと説明しよう。泣けないのではなく、泣く必要が無いのだと。
 父は自分に、愛情と遺産をくれた。父が、自分の死をただ哀しまれるのを望んでいないと判るから、彼は泣く必要が無いのだ。
 すべてはまだ、失われていないのだから。
 ただやはり、父を失ったと言う心の穴は残る。それを今、少女の温もりが埋めてくれている。
 柔らかな髪に口付けを落し、遺言の追記を思い出して苦笑する。
『さすがに女を見る目は一級品だ。掘り出し物だ、一生離すな』
 父は何処で少女を見たのだろう?
 春から体調を崩し、伏せる事が多かった父は、王宮には来ていない。
 だが、年寄り扱いを嫌い、よく寝室を抜け出して、王都を歩いていたようだ。
 おそらくその時、彼女を見たのに違いない。
 自分が見出した少女は、無事父の眼鏡にも適ったらしい。
「あたりまえだ、誰が離すかよ・・・」
 業と呟いた憎まれ口へ、少女が不思議そうに顔をあげる。
「何?」
 涙でくしゃくしゃになった顔に苦笑して、子供にするようにふいてやる。不満そうに口を尖らせながら、それでも抵抗はしない。
 そんな少女に、彼はふと、自分が、幼い子供を連れて、渓流に行く姿を連想した。
 側で彼女が火を焚いて、釣った魚を焼いたのなら、それはさぞ美味いに違いない。
 我にも無く、なんとも暢気な想像で、彼の笑みは更に深くなる。
「なぁメイ。今度、親父の墓参りに付き合うか?」
「お父さんの?」
「ああ・・・」
「うん」
 頷く掘り出し物を、もう一度抱きしめて、彼は空を見上げた。
 父は、何処かでこんな息子を見ているのだろう。
 そして秋茜は、明日も池の上を群れ飛ぶのに違いない。
 満天の星に、そのまま笑みを向け、腕の中の温もりに、心の中で、感謝の言葉を呟いた。