秋茜
王都はまだ、時折残暑に見舞われる秋の初め。 |
高くなり始めた空は、黄昏色に染まり、長い影が石畳に寝そべる。
風はまだ残暑の熱気を含んでいたが、それでもほんの少しだけ密やかな秋の訪れを囁いている。
公園の噴水を眺めつつ、老人は先程から一人とぼとぼと歩いている少年を見詰めていた。
迷子だろうか?
不安げに辺りを見回し、すぐに項垂れて歩き始める。
心許無いその姿に、老人は思わず腰を上げかけた。
途端に、眩暈( が起こる。
翳む視界で杖を探すが、手を伸ばすよりも体が傾ぐ。
よろけて数歩前に蹈鞴( を踏み、迫ってくる石畳を口惜しく思う。
しかし、老人の体は、何か柔らかいものに支えられた。
「ふぃ〜危機一髪」
体の下から明るい声が発せられ、次いで力強く持ち上げられる。
「大丈夫?おじぃちゃん」
見れば自分にしがみつく様にして、一人の少女が笑っていた。
年の頃ならば14・5というあたりか、利発そうな茶色の目がきらきらと輝いている。
「ああ、すまんな。嬢ちゃんや、ありがとう」
礼を言い、支えられながらベンチにもどる。腰を下ろすと我にも無く溜め息が漏れた。
「年は取りたくないもんじゃな・・・情け無いところを見せてしもうたの」
体の衰えに気鬱( を感じてそう漏らす。途端に背中がパンと鳴る。
衝撃と痛みで、少女に背中をどやされたのだと判る。同時に声が弾けた。
「何言ってンのよ。おじぃちゃんおばぁちゃんは人類の宝物よ。今まで苦労したんだから、ゆっくり隠居して、長生きして頂戴よ。」
気鬱も吹き飛ばす太陽のような笑みに、老人の頬も緩む。
「そうかの?」
茶色い髪が肩の辺りで揺れ、少女は勢い良く頷いた。
「当たり前じゃない。あたしだって年取ったら、ゆっくり楽隠居するつもりだもん」
あまりにも不似合いな台詞に、思わず苦笑する。
「そうか・・・嬢ちゃんも長生きするつもりか」
「そ〜よ。だから頑張って長生きしてね大先輩」
久々に心から笑っている自分に気がつく。この少女は何者だろう?することも言う事も破天荒だが、瞬くうちに自分の心に馴染んでしまう不思議な少女だった。
「嬢ちゃんは・・・」
名を聞こうと口を開いた時、子供の泣き声が響いてきた。
「あちゃ〜コケタ・・・」
少女の言葉通り、あの少年が地面に転がって泣き声を張り上げていた。迷子になった不安と、転んだ痛みで、もう我慢ができなかったのだろう。
「ちょっとごめんね」
言い置いて少女が少年に向かって走っていく。白いケープの下に、見たこともないほど短いスカートを履いている。すんなりと伸びた足が石畳を軽快に駆け抜ける。
「おーいぼくちゃん。な〜に泣いてるのかなぁ?」
立たせてやるのかと思いきや、少女は少年の側に立って、業とらしく声を掛けた。
「そこ、気持ち良い?」
「うるさいやい!!」
いきなり声を浴びせられて、驚いたらしい少年は泣くのを止めて少女に不機嫌な声を返す。
「ほう・・・」
老人は思わず目を細めた。優しく宥めるのではない少女のやり方に感心したのだ。
確かにあのまま慰めたのなら、保護を感じた少年が泣き止まないのは明白である。業とショックを与えて、少女は彼を現実に引き戻して見せたのだ。
「なっまいき〜。でも、寝てたら怖くないもんね」
嘲るような声に、むかっ腹を立てたらしい少年は、憮然とした顔で立ち上がった。
「えらい!」
一声誉めて、少女が少年を抱きしめる。
「頑張ったね。さすが男だね」
貶されていたかと思えばいきなり誉められて、少年は少女の腕の中でぽかんとしていた。
「ねえぼくちゃん。お家はどこら辺?おねぇちゃんが連れてったげるよ」
目の高さまでしゃがみ込んで少女が尋ねる。
すっかりあっけに取られていたらしい少年が、なにやらぼそぼそと答えている。
「おっしゃ。そこなら知ってる。行こうか?」
頷く少年の手を握ると、少女が老人の方へ歩いてきた。
「おじぃちゃん。あたし、この子送ってくわ。おじぃちゃんはどうする?もし苦しいんなら、この子送りがてら、おじぃちゃん家にも行くよ」
眩暈を起こした自分を案じてくれているらしい。老人は微笑みながら首を振った。
「家の者がな、迎えに来る事になっとる。心配には及ばんよ」
普段なら、年寄り扱いをされたと腹が立つはずなのに、この少女には笑みしか浮かんでこない。
久々に、すべての気鬱から解放された気分であった。
「嬢ちゃんも、帰り道には気をつけるんじゃぞ」
自分にもこんな優しい声が出せたのか、と思うほど柔らかな声音が発せられ、少女はそれにしっかりと頷いて見せた。
「うん。ありがとうおじぃちゃん。じゃあね」
手を振って踵を返す少女に、老人は先刻言いそびれた問いを掛けた。
「そう言えば、嬢ちゃんの名前を聞いてなかったの」
くるりと振り向く小さな顔が、満面の笑みに彩られる。
「あたし?藤原芽衣。あっと・・・こっちなら、メイ・フジワラだった」
奇妙な言い直しだったが、首を傾げる間も無く、少女は明るい別離の言葉と共に、迷子の少年を促して歩み去る。
「メイ・フジワラ・・・そうか・・・あの娘か・・・」
思い至って、老人はゆっくりと頷いた。
その面には、なんともいえない安堵の笑みが浮かんでいた。
ふと、噴水の辺を飛び去る影がある。
薄紅の羽の煌き。
今年初めの秋茜が、やっと王都に下りて来たらしい。
秋茜は、夕日を受けて更に紅く浮き上がって見える。
だが、あの日、父の腕に抱かれて、涙に翳む目で見ていた蜻蛉( は、今よりもずっと鮮やかな色をしていたような気がする。
苦心の末つい最近完成した池の出来栄えを確かめつつ、シオン・カイナスは辺に設えたベンチに腰を下ろしていた。
水面を滑る虫の姿が、あの渓流を思い起こさせる。
「釣でもするかね・・・」
一人ごちて、池の中に、まだ一匹の魚も放流していないのを思い出す。
もし放ってあったとしても、王宮の池で釣などをしたら、侍従達が目くじらを立てるに違いない。
特に、『台風の目』などと徒名のついた、王宮のトラブルメーカーがしでかす騒動に、これ幸いとねじ込んでくる輩も多いだろう。
おそらくそれは、諦めかけた長老達よりも、虎視眈々とこちらの失態を狙っている枢機卿( 議会の連中に違いない。
時々は、奴らの足元を掬ってやる為に、業と火種を与えてやりもするが、別段今は必要ない。
第一、 そんな騒々しさは、今は欲しくない。
ただこうやって、静かに昔を思い出すのが、気分に合っていると思えた。
そう言えば、揚げ足を取りに来る筆頭にいるのが、自分の兄達だと気がついて、ふと苦笑が浮かんでくる。
歳の離れた長兄、次兄は、揃って末弟を疎ましがっていた。幼い頃からずっと。
父に目をかけられていた分、兄弟の情とは疎遠だったような気がする。
まあいい。
すべては済んだ事。
今さら何が変わる訳でもない。
父親との事も同じだ。
あの日、父が負った傷を、彼は自分が治したいと思った。
それ故に、カイナス家がかかえていた魔導士に師事を仰ぎ、魔道を学び始めたのだ。
初めのうちは、父も手慰みの一つと考えていたらしい。
彼もそのつもりだった。
当時から、貴族の子弟が教養として魔道を習うのは、割合と当たり前の事であったから。
カイナス家が多く輩出して来た軍人の中にも、魔道と剣の双方を使い、名を残した者もいた。
折り良く王都では、国王の声掛りで魔導士達が集められ、専門の研究機関が完成しつつあった。魔法研究院の設立である。
家名柄や年齢も近い事もあって、客員研究生となる予定の皇太子の学友として、彼が院に席を置いた時も、父は魔道も使える軍人を目指すのだと思っていたらしい。
しかし、目の前に展開されていく新たな探求の世界は、少年であった彼の心を完全に魅了した。
捕え様の無い自然の力を、己の意志の力で操っていく魔道は、彼の生きる道を定めるだけの魅力を備えていたのだ。
院の中で、持ち前の強い意志と、溢れるばかりの潜在魔力によって、実力を着々と伸ばし、魔導士の資格をとり肩掛けを拝領して見せた。
意気揚々と父に報告をし、この時初めて、彼は父との溝を思い知ったのだ。
すぐに辞めて家に戻れと言う、当時の彼には理不尽な命令に、真っ向から反発した。
魔導士である自分を認めさせたい一心で、数多くの戦場にも赴いた。
しかしそこで、エスタスを失った…
親子の相克。カイナスとローゼンベルグの確執。
幾多の要素が絡まり合い、父は彼を切り捨てた。
生涯相対( する事はなし。勘当を宣言し、彼の前で重い扉が閉じられた。
秋茜は群れとなり、茜色の濃くなった秋の終わりの陽光に煌く。
耳元に、あの渓流の漱ぎが聞こえるような気がする。
不思議なものだ。
どれほどの言い争いを繰り広げたことか、もう思い出せないと言うのに、父と釣糸を垂れていたあの日々は、鮮明に思い出される。
まるで、その後のすべてが夢の中のように・・・
「シオン?」
そっと名前を呼ばれて、彼は顔をあげた。
「メイか・・・」
夕日を弾いて、茶色い髪が金色に透ける。小首を傾げる姿に、彼は愛しげに目を細めた。
「な〜に黄昏てるの?」
暢気な声に肩を竦める。
「そりゃ、夕方だしな」
はぐらかすようなボケた返事に、盛大な溜め息が返された。
「聞くんじゃなかった」
言いつつも、その場に佇んだまま彼を見ている。その様子が、何時もの少女とは違っていた。
「門限いいのか?キールがうるせぇぜ」
言ってやると、僅かに動揺したように肩が揺れ、次いで思い直したらしく得意げに顎をそらせる。
「今夜はお泊り♪」
「俺のとこにか?」
「ぶん殴るよ、ボケナス」
相変わらずの威勢のいい切り替えしに笑いながら、自分の横を軽く叩いて呼んでみる。
「ん」
人の好意に対しては、存外素直な少女は、すとんと横に腰を下ろした。
「姫さんとお前さん。殆ど毎日だべってるのに、未だ話し足りないのか?良くネタがあるよな」
くつくつと笑ってみせる彼に、なぜたが返事が返ってこない。
不審に思い少女を見れば、じっと見詰めている茶水晶の双眸にぶつかった。
釣瓶( 落しに暗くなりかけた夕日の残滓の中で、奇妙なほど神妙な顔つきをしている。
「どうした?」
「こっちの科白」
「何が?」
眉を寄せ首をかしげる。そんな姿に、少女は小さく肩を竦めた。
「何があったの?話せない様な、仕事の事?」
ますます妙な質問である。
「何もね〜ぜ。ダリスの動静を睨んでいる以外は、特にすることも無い」
そう、つかの間の平和。見通しのつかない先行きに比べれば、いい時期だったのかも知れない・・・
「シオン。やっぱり変だよ・・・まだ気がつかないんだもん」
「だから、何が?」
薄闇の中で、数を減らしていく秋茜を目で追う。
そろそろ冬の準備をしないといけない、ぼんやりとそんなことを考えていると、低い、微かな呟きが耳に届く。
「キール・・・居ないよ。もう一月になるよ・・・」
長い指が無造作に蒼い前髪を掻き揚げる。そのまま手が下りて端正な顔を軽く覆った。
「そう・・・だったな・・・忘れてた」
彼の後輩。少女の保護者であった青年は、魔法実験の失敗によって重傷を負った。他ならぬ彼自身の判断で、故郷に送り返したのが一月前。彼はその事を完全に失念していた。
「今日シルフィスから手紙がきたの。キールだいぶ良くなってるんだって。だから今夜は、ディアーナと二人の話をしようって・・・」
少女の言葉が、どこか遠くを上滑りしていく。
自分としたことが・・・動揺なんてしていないと思っていたのに・・・
「結構きてるんだな・・・」
苦笑する男へ、少女は覗き込むように首を伸ばした。
「シオン、やっぱすっごく変だよ。何があったの?あたしは聞いちゃいけない事?」
彼女は聡い。
とある事件で手駒にしてのけた魔導士の、心の闇を看破し、それすら飲み込んで、側にいると言ってくれた。
まだ、何と無く側にいる程度に過ぎないのだろうが、それでも、彼の中の変化を敏感に察知して驚かせる。
まあ、今のような体たらくなら、誰にでも判るのだろうが、弱っている自分を見つけたのが、この少女だった事に安堵している自分が居る。
彼女の前でなら、彼はもっとも自然体で居られた。
「親父の言うとおりだな・・・」
苦笑と共に呟きが漏れる。
「シオンのプライベートな事?だったらあたしは聞かない方がいいかな?」
なにやら気を使ってくれているらしい少女に、彼は笑いながら首を振った。
「良いさ・・・いいや、聞いてくれるか?」
「うん」
不意に人懐っこいような、柔らかな笑みを向けられて、少女の頬が染まる。
闇が迫る夕焼けの中、その姿は彼に更に笑みを深めさせた。
「親父が、死んだ・・・」
笑みのまま発されるには、あまりにも似あわない言葉に、少女の顔が曇る。
「お父さんが・・・?」
形のいい顎がゆっくりと上下する。それでも笑みは消えない。
「今日、兄貴から手紙がきた。おんなじ王宮内で顔合わせてるのに、三日もかかる手紙出しやがって・・・」
「・・・なん・・・て、言ったらいいのかな?ご愁傷様?ん〜と・・・違うなぁ・・・お悔やみ申し上げます・・・って・・・かな?」
慌てる少女に小さく笑って、彼は再び群れ飛ぶ蜻蛉を眺め始める。
「気にすんなって・・・昨日今日の話じゃねぇ」
「え?」
「カイナスの当主が死んだ時は、家族だけで十日間の間に、葬式まで済ませるんだ。その後で、知人や王室に届け出る・・・親父はとっくに墓の中さ・・・」
背を丸めるように両膝に肘をついて、彼は飽きずに蜻蛉を眺めている。もう数匹に減ってしまった。
「・・・何それ・・・シオン。その手紙、三日かかってるって言ったわね。お父さん亡くなったのって・・・」
「十日前」
勢い良く少女が立ち上がる。
「何それ!?シオン家族でしょう?息子でしょう?どうして他人扱いなの!?」
激昂する少女に対して、やはり穏やかな笑みが返される。
「勘当息子は、家族の勘定には入んないんだとさ。表向きに執り行われる告別式にも、顔出すなってさ」
拳を握り締め、少女は全身から怒りを発散させていた。
まるでそこに彼の兄が居るかのように、前方を睨み据える。
「信じらんない!それが弟にする仕打ちなの!?あんまりじゃないの?ちょっとシオン!あんた笑ってる場合じゃないでしょう!?もっと怒りなさいよ!」
怒りに地団太を踏む彼女の腕に、そっと手が添えられる。
「まあ座れって。俺はカイナスの鬼子だからな。たとえローゼンベルグが没落したと言っても、俺を戻す気にはならない。親父が死んだ機会に、一切の関係を絶ちたいってのが、兄貴の考えらしいぜ」
促されるまま再び腰を下ろし、妙に静かな男の横顔を見る。夕闇の中で、彼はただ水面を飛ぶ蜻蛉を眺めている。怒気も悔しさも、彼からは読み取れない。
少女はゆっくりと息を吐いた。
「シオンは・・・それで良いの?」
「ああ、これからは、兄貴でも気にしないで、政敵になったら相手ができるってこった」
シオン・カイナスが皇太子セイリオスに対抗する政敵を、容赦なく追い落とすのは彼女も知っている。ではこれからは、彼の実家ですら、その対象に入ると言う事か?
大人の世界、政治の世界の話とは言えど、やりきれない。
「シオン・・・」
言葉の接ぎ穂を失って、少女はただ男の横顔を見詰めていた。その視線を感じて、彼はゆっくりと少女を見た。
「実のところ、今は何も考えにならね〜んだ・・・何でかなぁ・・・?」
常の彼とは違う、ぼんやりした物言いに、少女は思わず彼の肩に手を掛けた。
「あたりまえじゃん。お父さんが亡くなったんだよ。何時も通りの方がどうかしてるよ」
肩にかかる温もりに目を細めて、また秋茜を視界に戻す。もう二匹が飛んでいるだけ。
「そうか・・・あのな・・・親父とは、結構喧嘩したんだ。俺が魔導士になるのが気に入らないっていう親父に反発してな。そりゃあもう、盛大な親子喧嘩だったぜ」
おかしそうにくすくすと笑う姿が、少女にはむしろ痛々しい。
うんうんと頷く少女の手に、そっと男の手が重ねられる。
「でもな、妙な話なんだが。どんな喧嘩してたか、思い出せね〜んだ。思い出すのは・・・赤とんぼ・・・」
「赤とんぼ?」
妙な言葉に、彼が眺めている池を見る。二匹の蜻蛉は、まだ水面で遊んでいた。
「餓鬼の頃は、親父によく渓流釣に連れて行かれたんだ。結構な腕だぜ。みっちり仕込まれたからな。秋口に行くと、まだ山に居る赤とんぼが群れていて、それを見ながら、山女魚( を釣るんだ。釣たてをその場で焼いて食う。すげ〜美味いぜ」
ゆっくりと懐かしげに微笑む。
そんな様が、少女には痛い。彼は静かに父の冥福を祈る為に、この誰も来ない出来立ての池に居たのだ。
赤とんぼを眺めて、幼い頃の思い出を辿り、父を悼んでいた。
初めて見る、そんな姿に、なんだか喉の奥が熱くなって来る。
「・・・何泣いてるんだ・・・?」
「え?」
言われて初めて自分が泣いていると自覚する。余計に涙が込み上げてくる。
「うっ・・・く・・・」
ぐいぐいと無造作に袖でこする。それでも涙は止まらない。
シオンが痛くて・・・
「泣くなって・・・目が腫れちまうぞ」
大きな手が、そっと頬をくるむ。指で涙を拭っても、それは余計にこぼれ、止まりそうに無い。
「何で泣いてんだって・・・お前さんの親じゃあ無いだろうが」
笑う男に、茶水晶が強気に睨んでくる。
「あんたが泣けないから・・・変わりに泣いてやってるのよ・・・お父さん亡くなって、あんた泣きそうなのに泣けないんじゃない・・・だから・・・」
泣きながら、それでも向こうっ気は変わらない。
苦笑しながら、小柄な体を引き寄せ、自分の胸の中に掻い込んだ。
「ありがとよ。親父も喜ぶぜ」
震える肩を愛しげに抱きしめて、つややかな髪に頬を埋める。少女らしい柔らかな香りが、妙に心に染み込んでくる。
ああ、温もりが欲しかったのかと、今さらながらに自覚する。
欲しい物を的確に与えてくれた少女を、ほんの少しだけ強く抱きしめて、柔らかで暖かなものが、心の中に空いていた穴を埋めていくのを楽しむ。
やはり、まだまだ父には適わないと言う事か・・・
まだ泣き止まない少女を抱きしめたまま、彼はそっと二通の封書を取り出した。
釣瓶落しの日は、既に闇にとって変わり、蜻蛉も姿を消した。もう文字などは見えなかったが、一言一句思い出すことができる。
一通はカイナス伯の訃報。二度と出入りするなと言わんばかりの兄の無機質な文章。
言われなくとも、もう家族とは思わない。
手の中でゆっくりと握り潰す。
もう一通は、そっと仕舞いこむ。
父からの、最後の手紙。自分にだけ当てられた遺言状。
内容は、実のところ、少女が見たらやはり怒るかも知れない。
父は、書面の上で、はっきりと生涯勘当は解かれないと明言していた。
『生涯勝手。二度とカイナスの敷居は跨ぐな。お前は、好きに生きるがいい』
さてこの文面の意味を、少女に話して理解してもらえるものだろうか?
父から、最初で最期の自分への肯定。幼い日の厳しさそのままに、それでも己の道を見つけた息子へ、すべての柵( を断ち切って自由を与えた。
これが父からの遺産と言えるだろう。
何よりの財産である。
彼はそっと微笑んだ。
腕の中の少女は、まだしゃくりあげている。
なんと説明しよう。泣けないのではなく、泣く必要が無いのだと。
父は自分に、愛情と遺産をくれた。父が、自分の死をただ哀しまれるのを望んでいないと判るから、彼は泣く必要が無いのだ。
すべてはまだ、失われていないのだから。
ただやはり、父を失ったと言う心の穴は残る。それを今、少女の温もりが埋めてくれている。
柔らかな髪に口付けを落し、遺言の追記を思い出して苦笑する。
『さすがに女を見る目は一級品だ。掘り出し物だ、一生離すな』
父は何処で少女を見たのだろう?
春から体調を崩し、伏せる事が多かった父は、王宮には来ていない。
だが、年寄り扱いを嫌い、よく寝室を抜け出して、王都を歩いていたようだ。
おそらくその時、彼女を見たのに違いない。
自分が見出した少女は、無事父の眼鏡にも適ったらしい。
「あたりまえだ、誰が離すかよ・・・」
業と呟いた憎まれ口へ、少女が不思議そうに顔をあげる。
「何?」
涙でくしゃくしゃになった顔に苦笑して、子供にするようにふいてやる。不満そうに口を尖らせながら、それでも抵抗はしない。
そんな少女に、彼はふと、自分が、幼い子供を連れて、渓流に行く姿を連想した。
側で彼女が火を焚いて、釣った魚を焼いたのなら、それはさぞ美味いに違いない。
我にも無く、なんとも暢気な想像で、彼の笑みは更に深くなる。
「なぁメイ。今度、親父の墓参りに付き合うか?」
「お父さんの?」
「ああ・・・」
「うん」
頷く掘り出し物を、もう一度抱きしめて、彼は空を見上げた。
父は、何処かでこんな息子を見ているのだろう。
そして秋茜は、明日も池の上を群れ飛ぶのに違いない。
満天の星に、そのまま笑みを向け、腕の中の温もりに、心の中で、感謝の言葉を呟いた。
了