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「裏切り上等」
シオン・カイナスは嘯いた。
左の肩を深々と刺し貫いた槍は背後の巨木の幹に突き刺さり、彼をその場に縫い付けている。
眼前には銀の牙。
十数人のダリス王国正規軍の兵が直ぐにも槍を繰り出せる位置に立ち、クライン王国筆頭魔導師の首級を挙げるべく、いまや遅しと待ち望む。
長い紺色の髪は常の結い紐が切れ、長身を覆い隠す最後の防壁を思わせた。
そして、闇に沈み、松明に浮かび上がるその光景の全て。じわじわと肩から流れる血の全て。男達の荒い息遣いの全てを、篠突く雨が覆い隠す。
遠く響く、怪物の咆哮、乱戦の怒号、剣戟の響きもまた、雨と闇の帳に隔てられて途切れがちに聞こえ、この場所がすべてから切り離されているのだと、否応なしに思い知らせる。
ここはアバンクォルド。
死と、苦痛が支配する束の間の地獄。
夜半。
連合軍の総大将、クライン皇太子セイリオス・アル・サークリッドが率いる本陣が夜営するこの丘は、阿鼻叫喚の只中にあった。背後を衝いてダリス軍が奇襲をかけてきたからだ。
それは、従軍していた一人の文官の裏切りの所為…
折しもその文官から、ダリス王が軍を集結させ大攻勢を仕掛けてくるという情報があった。この報を受けその出鼻を挫くべく、慎重なセイリオスには珍しく部隊別に軍を編成し、速さを優先させた。
その為、行軍は広い範囲に細長く引き伸ばされた形となり、軍の主力部隊は遥か数キロも離れたところへ行ってしまった。
故にこの丘には、近衛を中心とした皇太子直属の二百人程度しか居ない。
迂闊と言えば余りに迂闊。かつて無いほどの大軍勢集結の情報に踊らされ殲滅に焦り、そのくせ優勢に驕り敵を侮りすぎた故の油断とも見えるその布陣の心臓部に、倍以上の敵が襲いかかった。
勿論、皇太子を護るのは選りすぐりの近衛騎士と兵である、腕も立てば士気も高い。そしてセイリオスは怜悧な頭脳を持ち、シオンは実戦も豊富に潜っている。咄嗟の反撃に敵が怯んだ隙に体制を立て直し、何とか互角の睨み合いに持ち込んだ。
そのまま膠着状態を保てられればいずれ急使を走らせた主力部隊から援軍がやってくるだろうというところへ、更なる奇襲の刃が打ち込まれた。
それは、何者かに操られているらしい怪物たちの群れであった。
怪力と牙の前に騎士も兵士もあっけなく倒れていく。終に隊は分断され、シオンは皇太子を見失った。
そして一人この丘に追い詰められ、槍が肩を貫いたのだ。
正に絶体絶命。
だがしかし、この窮地に在ってなお琥珀の瞳には微塵の恐怖も浮かびはしなかった。
「大した騒ぎにしたもんだ、アイシュ。お疲れさん」
にやりと嘯く言葉、それは彼とは対照的に、今にも泣き出しそうな顔を分厚い眼鏡と深いフードに隠した亜麻色の髪の青年へ向けられる。
「ええ、私は裏切り者です」
涙の代わりに雨を滴らせて、アイシュはわずかに苦笑した。
「私の話を信じてくださって、本当に有り難かった。おかげでダリス軍を引き入れられたんですから」
ふてぶてしい口調が、慙愧で泣き崩れそうな顔から発せられる。
そして震える声は、掠れた笑いを漏らした。
「ダリスの精鋭八百。しかも猛将としてクラインにも聞こえたボードウィン大将です。多分、殿下が討たれるのも、時間の問題でしょう」
シオンの面に、何らかの反応が出る事を期待しているのだろう。青年文官は雨のベールを透かし見るようにしながら、説明を続ける。
「貴方にはここに居てもらいます。真っ先に殺さないのが不思議ですか?」
小首を傾げながら、少しも面白くなさそうな笑いを漏らす。
「もうお判りの筈です。貴方をそこに留めている槍には、強力な魔力封じが掛けられています。ええ、実は魔法兵器には、こういう用途のものも有るんだそうですよ。だから、貴方も今はただの人。風で私達を切り刻めも出来なければ、その槍を抜いて血を止める事も出来ない」
若草色の瞳が、分厚い眼鏡越しにシオンを見据える。
「殿下の首は、もうすぐ届くでしょう」
肩を竦めて俯くのは、苦笑した所為だろうか。
「大切なものが目の前で消えて行くのを見終えた後で、無力さを噛み締めながら死んで頂きたい…だから、彼らにも待ってもらっているのですよ」
彼は更に苦笑を深めた。しかしその表情は奇妙に歪み、もう泣き出す寸前にしか見えない。なんとも奇態な様子の裏切り者を、嘲りの笑みと共にシオンの冷たい視線が見詰めていた。
木の葉を伝った滴りが一滴、紺糸を一筋濡らし頬に伝う。失血に蒼白となった端正な美丈夫の姿は、あたかも破滅そのものを体現しているかのように、妖艶な凄みを漂わせる。
しかし、死の足音を聞く者には有り得ない生気を漲らせた双眸がさも可笑しいと細められた。
「お前さん、昔から詰めが甘いんだよ」
答えて青年は肩を竦める。
「貴方を始めに殺さなかったから、ですね。ええ。貴方は怖い人ですよねえ。そうやって、手も足も出ないようになりながら、何を企んでおいでなのか…私も同感です。本当に詰めが甘い」
まるで後悔のし過ぎで自棄にでもなっているように、アイシュはクツクツと喉を鳴らす。
「でもね、私は貴方に、殿下の首と、メイの遺体を見て欲しいんですよ」
シオンの冷笑が深まった。
「殿下なら、この近所に居るだろうが…メイ? あいつは今、姫さんと北の離宮だぜ」
ダリス王に人質として嫁した第二王女は、幽閉から救出されて、今は手厚い看護の元、クライン王家の北の離宮で、身重の身体を休めていた。親友でありお付きの魔導士でもある少女もまた、その傍に付き添って居るはずだった。
「もし、別働隊でも送った、てなら、運の悪い連中だな。返り討ちに遭うのがオチだぜ」
「そうかも知れませんね…」
そう応えながら、青年は初めて、にっこりと微笑んだ。
訝しげに眉を上げたシオンに、アイシュは肩を竦める。
「見たかったんですよ、貴方のその目が」
邪気の無い笑みを向け、青年は震える息を吐いた。雨に冷えた夜気が呼気を白く変える。
「貴方の目に恐れを浮かばせる事が出来るのは、やはり、メイだけなんですねえ…」
その言葉にシオンが苦笑する。
「そうかよ…」
「はい」
「ほう…その男にも、人並みに無くせないものが有るとはな…」
低く嘲笑を含んだ声が、アイシュの背後から寄越される。
「ええ。クラインの七不思議と、言われているんですよ……?」
暢気に応えてから慌てて振り向く、しかしそこにはただ闇と雨が森の入り口との間に居座っている。
兵士達が俄かにざわめいた。
何かに脅えた様なざわめきの中、青年はさも不思議そうに首を傾げた。
「おやぁ?」
この場にそぐわない事夥しい暢気な声に、ダリス兵の誰かが小さく吹き出した。
しかし漣の様に広がりかけた笑いは、すぐに飲み込まれた。アイシュの見詰める闇がゆらりと揺れたからである。
まるで地中から湧き出る様に、影が黒いマントに身を包んだ人の形を取る。
深くフードを下ろし、影に沈んだ面は定かには見極められなかったが、その両目だけは青白く燐光を発するかのように松明の灯を反射しながらシオンに向けられていた。
「貴方は確か〜ダリスの魔導士さんでしたね」
微妙にずれた問い掛けにその魔導士だけではなく、槍を構えたダリス兵もまた苦笑した。
だが、最も顕著な反応を表したのは、窮地の只中に居るはずのクライン筆頭魔導士であった。
彼は業とらしく吹き出し、くつくつと笑って見せたのである。
「俺の部下に、んな不気味なのはいね〜もんな」
嫌味たらしく笑い続けるシオンに、魔導士が底光りする目を向けた。
「・・・クラインの魔導士には、おめでたい者が多いようだな」
筆頭がこれでは、と言いた気に黒衣の魔導師が呟く。
対してシオンは口の端をにやりと引き上げた。
「あのう・・・戦況はどうでしょうか?」
険悪な雰囲気に、多少脅えた声音でアイシュが割ってはいる。
それには別の方から応えがあった。
「上々。本陣守備の兵二百。悉くが我が隷の餌となったぞ」
「え?」
慌てて振り向き樹へ向き直ると、そこに居る影のような姿を見て小さく息を呑む。なぜなら、暗蒼の燐光を発する四つ足の怪物が、血の滴る人の腕を咥えてすぐ間近に立っていたからである。
松明に照り返る濡れた毛皮の背中には、背後の男と同じ黒衣の魔導士が顔をフードで隠して背を丸めて跨っていた。
揺れる銀の矛先。ダリス兵に再びざわめく動揺が広がる。
その不安に追い討ちをかけるように、四方の森から様々な異形の怪物が歩み出てくる。
シオンの縫い付けられる樹はダリス兵を伴って、怪物達に完全に囲まれた。
犬のようなものも居れば、巨大な猿とも思えるもの、長くくねる太い胴体を引きずる怪物の腹は確実に人が入っているであろう形に膨らんでいた。そしてその他の怪物達も正に悪夢から抜け出してきたような、奇怪で醜悪な姿を雨を弾く暗褐色や暗蒼色の燐光に浮き上がらせ、その中心で血よりも赤い双眸が爛々と妖気を放つ。
そしてそれらがてんでに咥えたり引き摺ったりしている物は、血まみれの人間の部品。腕もあれば足もあり、またはこぼれ落ちた臓物を引き摺る胴体もある。
それらの肉塊に、辛うじてぶら下がる衣服や鎧は、クライン兵の物だけではなかった。
槍を構え、シオンを取り囲む兵士達は、一様に蒼白となり、味方である筈の怪物使いの魔導士達を見る。
一人の兵士が堪え切れずにがたがたと震え出した。
「何で…味方を…?」
恐怖に震える呟きが漏れる。
「戦場で怖じ気付いた者は、敵と同じと仕込んである」
森から現れた巨猿の肩から降りた三人目の魔導士が、足元に擦り付く血塗れの犬型の怪物を撫ぜながら、浮き足立った兵士を押さえ込むように言い放った
震える兵士は、血の気の失せた顔を慌てて足元へ落とす。
三人の魔導士達は勝ち誇った様に低く笑った。
ひときわ大きな遺骸を引き摺る怪物へ別の個体が横取りを仕掛け、数匹での争いが始まった。激しく争う事で引き千切られる遺骸から新たな鮮血がはね飛ぶ。
飛び散る血飛沫に嫌悪と悪寒を顕にして、顔を背けた兵士達の槍先が揺れたが、しかし奇妙な事に、雨で流れ大地を赤く染めていく血溜に目が吸い寄せられる。
その血の水溜まりが、甘い泉に思えた。
俄かに喉の渇きを覚えた事をいぶかしみつつ、生唾を飲むほどに赤い流れから視線を外せない。
脅えていた者達の微妙な変化に魔導士達が目を細めた時、囃し立てる様な口笛が吹き鳴らされた。
「アドル、ウォルフ、リヒト。音に聞こえたヒトラ三兄弟の揃い踏みたぁ、珍しいもんが見れたもんだ。お前さんらが出てくるとは、クラインも捨てたもんじゃないって事か」
肩を貫かれている事など忘れたように、せせら笑い頻りと感心してみせる。
「その昔、交換留学の話が出た時に『クラインみたいなド田舎に行けるか』と、蹴りやがった連中がこうしてわざわざ出て来たんだ、連合の纏め役なんて貧乏籤も悪くねえな」
嫌味な言い草に兵士達から密やかな笑いのさざめきが起こり、怪物達の低い唸りを聞くと慌てて飲み込まれた。
「名高い『クラインの蒼き魔王』に憶えて頂けたとは、光栄至極」
皮肉たっぷりな慇懃さで最後に現れた魔導士が苦笑する。
「ああ、憶えてやったぜ。何しろこの戦争の仕掛け人だもんなあ」
クライン筆頭魔導士の声音に、更に皮肉な響きが深まる。
「現ダリス王の懐刀、リヒト三兄弟。その性、酷薄にして非情。ひたすらに魔導の力を求め、怪物を操り、血の流れるを好む。常により大きな力を得んとし、ダリス王に囁き、大樹の魔力を武器に付加する術を編み出した」
一旦言葉を切り、自由な腕でやれやれと大げさに肩を竦めて見せる。
「お陰で、ダリスにはお天道さんが顔を見せなくなっちまった。作物は枯れ、人々は飢え、それでもお前らと王さんの強欲は止まらない。弱った国力を補い、更に他国の『力有る樹』からも力を吸い上げる為に、周りの国を攻めろと閣僚から何からを焚き付けるナンざ、たいしたもんだ。いや、肖りてぇなぁ」
飴色の瞳が強い光を放つ。
「そんなに力を集めて、何がしてぇんだ?」
調子よく捲くし立てる顎を爪の長い指が掴み上げ、乱暴に持ち上げられて、縫い付けられた肩が引き攣る痛みにシオンは息を呑む。
兵士達が間に割り込んできた獣に怯んで、槍を下ろして数歩下がった。
「力はいくらあっても足らぬもの…貴殿の中から溢れるその魔力。人からも吸い上げられる術があれば、ぜひ頂きたい」
怪物に跨ったままの高い位置から、容赦無く樹に縫い付けられた囚人を引き寄せて、シオンの甘く端正な顔を覗き込む。
「ついでにこの顔も欲しいだろ? てめえの面じゃあ、女は寄ってこねえもんな」
生臭い息に眉を顰めながら言い返すと、掴まれた顎ごと背後の幹に押し付けられる。
「ぐ…」
不覚にも激痛に呻き、歪められる表情にきつく爪が食い込んでいく。
「あの…止めましょう。今更無力な囚われ人を甚振っても、貴方の誉れにはなりませんよ」
裏切ったとは言え以前の仲間の身を案じてか、アイシュが魔導士を宥め様と声をかけた。
「誉れ?」
兵達の背後に立つ魔導士が、嘲りの声をあげる。
「魔導士に、誉れ?」
念を押すように繰り返す言葉へ、深く被ったフードが揺れ文官が頷く。
「はい。彼に残っているのは、災いを招くような口だけなのですから…お判りでしょう?」
いかにも奥歯に物の挟まった言い方に、樹から離れて立つ二人の魔導士が声を立てて笑う。
「確かに、その口で死を招くような男だな」
アイシュの背後に居た魔導士が鼻で笑えば、最後尾の魔導士は騎獣の魔導士にぐいと顎を勺って見せた。
「まったくだ。クラインの魔導士は口芸が達者と見える。ウォルフ兄者。挑発に乗せられていると、虚けを晒すぞ」
シオンを掴み上げている騎獣の魔導士が不満の唸りを漏らす。
「リヒト。口が過ぎるぞ」
喉の奥で笑いながら、アイシュの後ろの男がとりあえずというように窘めて見せる。
「アドル兄者。わしは当たり前のことを言っただけだ」
悪びれもせずにリヒトがせせら笑う。口答えに対してアドルは、ふん、と鼻で笑った。
見分けがつかないほど同じ姿を装う三兄弟だが、どうやら彼が末弟らしい。
上下から馬鹿にされたウォルフが、シオンを睨みつける。そこに、更に不敵な虜囚からの挑発が浴びせられた。
「あ〜らら、兄弟喧嘩か?」
真正面からせせら笑う顎を、邪険に捻り上げる。
「顔を貰えるならなお結構。しかし、その口は遠慮しておこう。命が幾つ有っても、足らぬだろうからな」
怒りを押さえた声音に、つい小さく吹き出す。
「本音だな…」
飽く迄も嘲笑を止めない囚人の腹に、固い膝がめり込んだ。
「が…はっ…!」
強か蹴り上げられ胃液を吐き出すシオンを、僅かに溜飲を下げたウォルフの冷たい視線が見据える。
「だから言っているでしょう? いつかその口で命を落としますよ」
呆れたようなアイシュの声が追い討ちをかけ、まだ自由になる方の手で口元を拭いながら、シオンが苦笑する。
「いつか…ではない。『今』だ」
アドルが低い声で笑う。
「そう…クラインを我等がものとする祝賀の贄に丁度良い」
リヒトが受けて手を上げる。丘を取り囲んだ怪物達が、一斉に咆哮を轟かせた。
既に竦みあがっていた兵士達が、肩を寄せ合うようにして身を竦ませる。
「待って下さい。それでは約束が違う」
シオンに全ての殺気が集中する様に、慌てたようにアイシュが声を上げる。途端にウォルフの騎乗する怪物が、眼前で大きな口を開いた。
「何の約束だったかなぁ?」
思わず立ち竦む青年に、リヒトが肩を竦める。
「薄汚い裏切り者めが…間者風情と、裏工作好きの官僚共が交わした密約なぞ、我等は与り知らぬが…言ってみろ、面白ければ聞いてやらんでもない」
高圧的なウォルフの言葉に、ゴクリと生唾を飲み込んでアイシュは僅かに俯いた。
「筆頭魔導士は、ダリスには無いクライン独自の魔法の保管者です。彼を引き渡し、その秘術を手に入れる替わりに、総務長…ルドルフ・ロッケンマイヤーのダリスでの地位を戻す……と…」
おずおずと話す青年に、アドルはふんと鼻で笑う。
「お前は、しくじった間者の為に寝返ったというのか?」
実績を重ね重い信頼さえ受けてクラインの文官を束ねていた総務長が、実はダリスが送り込んでいた間者であり、長期に渡って周りを欺きつつ母国の為に行動に移る機会を窺っていた事実は、帳簿の改竄事件として露見しまだ記憶に新しい出来事である。
その事件の渦中に在り、王宮に小火騒ぎまで起こしたのがこのアイシュであった。
「彼は私の恩人で…父とも慕う方でした」
フードの下で分厚い眼鏡が顔を隠し、その表情は読み取れない。
「あの方が投獄された事が、なんとも口惜しく…殿下達が、許せなかったのです…」
蚊の鳴く様な声が、雨の音に混じる。
何時の間にか、森からの喧騒は途絶えていた。
「恩人の為に国を売るとは、泣かせる話だな。それとそのお綺麗な顔で、白鴉を丸め込んだか」
むしろ呆れと軽蔑を込めて、アドルが自分より頭一つ高いアイシュの背を見る。
「あの冷徹優秀な女間者の推薦だったからな、官僚どももすぐに信用した。が、その理由がそれか?」
「あれも女、お涙頂戴には弱かろうて」
口々に嘲る魔導士達へ、アイシュは何も返さずただ俯くだけだった。
身の置き所のない風情で小さく竦む姿を、シオンが値踏みするように見つめているのには、だれも気付いていない…
ひとしきり笑うと、やがてアドルが、ふむ、と頷いた。
「秘術…か」
俄かに興味がわいたらしい。
「クラインの王都を陥落としてから、王宮をゆっくり探せばいい。きっとそれらを認めた書物なりが在るだろうさ。そうだな、こやつの家はどうだ?」
ウォルフが苛立たしげに吐き出す。
「それが……筆頭魔導士のみに伝わる、最大の秘術は、門外不出の禁呪とされて、口伝にて伝承されると、聞いています」
目深く被るフード。分厚い眼鏡で隠れた文官の顔で、唯一表情を伝える口元が、にっこりと笑みを浮かべる。
「最大の防御と最強の攻撃の魔法と聞いています。ダリス王陛下には甚くご興味を示され、『その禁呪を必ず手に入れよ』と仰せられたとか・・・ご存じないのですか?側近中の側近である貴方方が」
不思議そうに訊ねるアイシュへ、懲りない男の含み笑いが重なる。
「例の話、あながちガセネタでもないって事か…てめえらが姫さんに逃げられちまった事で、王さんの不興を買って左遷寸前ってな」
騎獣の頭がシオンに向けられた。
「クラインの売女がどうなろうと、われわれには関わりない」
受けてリヒトが頷く。
「ああ、まったくだ。第一、官僚共が陛下に取り入ろうとするような瑣末な事まで預かり知らん」
ウォルフが判ったかと言いたげにシオンを見下ろした。
「この減らず口から秘術が聞けるのなら、今、ここで吐かせるのも一興」
その言葉に不敵な笑みで睨み返す。
「そいつは楽しめそうだ」
飴色の瞳が、挑戦的な光を帯びる。
「出来るもんならしてみろよ。このシオン・カイナス。国を売るのは造作もねえが…たかが王さんへのご機嫌取りでアレを使おうなんざ、お門違いもいいとこだぜ。第一、てめえらには、耳糞だってやりたかねえや」
そこまで言い放ち、何かに気がついたように頷く。
「ああ、そうだな。爪の垢ならやってもいいな。少しは頭よくなるだろうぜ。! ぐ…っ」
せせら笑う饒舌な舌が、激痛の呻きに途切れる。
肩を縫い付けた槍の柄を、ウォルフが更に深く押し込めたからだ。
「御託はもう聞き飽きた…いかな剛の者でも、手足を、指から一本ずつ獣に食われていけば、秘密を抱えて生きる事を、後悔するだろうて」
反抗に対する残虐な応えに、酷薄な目が笑みに歪む。
同じようにくつくつと笑い出した兄弟達とは対照的に、鎗を下ろし、恐怖に脅えた兵士達が肩を寄せる。
「あの…そんな方法はどうかと……」
おずおずと止めに入るアイシュの肩を、アドルの手が強く掴んだ。
「煩い。お前の繰り言も聞き飽きたわ」
中背の魔導士は、自分より上背のある青年の肩を掴み潰すような力を込めて、ぐいと引き倒した。
堪らずアイシュが膝と手を付く。濃録のマントが僅かに開きその下の白い服が雨を吸う。防寒用の白い手袋もまたじっとりと濡れていった。
「裏切り者の言葉など、誰が聞く? 一度裏切った者が、二度欺かぬ保障など無いからな」
肩の手が外されほっとした面持ちで起き上がろうとした背中を、泥で汚れた靴が踏み躙る。
「う…」
「丁度良い。クラインに成り代わり、我等が正義の裁きを下してやろう。裏切り者は極刑と決まっている」
アドルの足に更に力が加わり、マントに隠された意外と幅のある肩が更に沈む。
踏み躙られる文官がちいさく呻き、誰もが血の惨劇の予感に息を呑んだ時、
「やめんか! 馬鹿者!!」
大木の背後から、大音声が響き渡った。
丘を取り巻く怪物達を押し退ける様にして、鎧を雨で濡らした偉丈夫がゆっくりと近づいてくる。
ダリスの武将らしい重厚な鎧を松明が照らす。
「これはこれはボードウィン大将。お勤めご苦労ですな」
アイシュから足を下ろしたアドルが、肩を竦めて一歩下がった。
「閣下の事、見事敵将を討ち取られた事でしょうな。上々首尾、実に喜ばしい」
慇懃に小腰を屈めリヒトが口を開く。
まだ結果を聞きもしないうちに褒め上げる態度は、むしろ慇懃無礼の見本といえた。
当然、その武将は鋭い視線でその場を眺め渡す。ウォルフが口元を皮肉に歪めてシオンから獣を下がらせた。
「歯の浮くべんちゃらなど、聞きたくも無い」
吐き捨て再びじろりと三魔導士を睨み渡すと、厳つい男はゆっくりと威圧的な足取りで最後の坂を登りきった。
「アイシュ・セリアン殿か?」
足が除けられた事でどうにか立ち上がった青年へ、将軍が歩み寄った。
「はい…」
背が痛むのか、俯いたままでアイシュは小腰を屈める。
「貴公の手引きにより、クライン皇太子、セイリオス・アル・サークリッド殿下を討ち取れた、礼を言う」
その言葉を聞くや、シオンが大木の幹を殴りつけた。
硬質な響きを耳に魔導士達の口元が引き上げられ、一つに固まるように身を寄せ合っていた兵士達が、一様に任務の達成された安堵のため息をつく。
「いいえ…そのような事…礼を言われる方が困ります…」
更に俯き、震える声でやっと答える。
「で…あろうな」
僅かに蔑みを滲ませて俯く姿を見下ろし、武将は片手に下げた布袋を開く。
さらりと、短く切り落とされた空色の髪が揺れる。
血染めの布の中から、硬く瞳を閉ざし、口元を引き結んだ無念の表情の首が現れた。
「高貴な御血筋を汚さず、潔い見事な御最後であられた」
痛まし気な声音に僅かに顔を上げたアイシュは、閉じられた瞳に射抜かれたように慌てて顔を伏せた。
「我が手にて首級を上げさせていただいた。先王の御世であったなら、クラインこそ我がダリスの盟友であったものを…これも時の倣い。死が苦痛を伴はしなかった事が、せめてもの事…」
高く掲げた首に一礼し、再び丁寧に布で包むと、ひたすらに小さく頭を垂れる青年はそのままに、シオンの囚われた樹へと向き直る。
「クライン筆頭魔導士、シオン・カイナス殿」
「なんだ?」
猛将へ少しも怯まず、飴色の双眸が睨み返す。
ボードウィンは、敬意を表するように、軽く目礼した。
「主仇よりこの様な事を言うのは、片腹痛かろうが…良い主君を持たれた」
ウォルフを牽制するように、ゆっくりと歩み寄る。
「彼の君より、貴殿の命乞いを承った。蒼き魔王よ、投降されい」
ギリ…と音を立てて、シオンが歯を食いしばる。
「あの野郎…馬鹿にしやがって…」
およそ主君への言葉とは思えぬ悪態が歯の間から漏らされる。
「私の大切なものを護ってくれ。これが貴殿への言伝だ。確かにお伝え申す」
言いつつ、袋とともに携えていた白いものを差し出した。
「形見にと、これを」
それは、皇太子の戴く帽子だった。
追撃戦が激しいものだった事は、ボードウィンの装備が傷つき腕には血すら滲んでいる事から判るのだが、差し出された白い帽子はしっとりと濡れている以外、血痕どころか一点の汚れも付いてはいなかった。敗者の技量が窺えるのと同時に彼の人の面影を偲ばせる。
だが、怒りに燃える一対の琥珀は君主の最後の望みを篭めた遺品を一瞥しただけで、血の混じった唾を地に吐いた。
「いらねえよんな物。そこの裏切り者にでもくれてやれ。自分のした事の、記念にな」
その声に弾かれたように、アイシュの肩が揺れる。
小さく竦みながらそれでも大木の近くへと進み出てきた青年へ、ボードウィンが歩み寄った。
「貴殿の成し遂げた事だ」
呟きと共に帽子を差し出す。
「はい…」
蚊の鳴くような声で応えると、受け取った帽子を両手で掻き抱いた。
「で? 殿下護ってた近衛達は? 全滅したのか?」
シオンの問いに将軍は森へ顎を杓った。
「殿下の命により、その場で捕虜の宣誓を立て投降した。今は森の中に残してきた我が兵達と同行している」
「ふうん」
シオンの口の端が小さく上がった。
「貴殿も宣誓を立てられよ。捕虜交換の交渉があれば国へ戻れる。そしてその間、如何なる拘束も、拷問も無い事を保障しよう」
貴族が誇りと名誉に賭けて立てる『捕虜の宣誓』は、逃亡や抵抗、戦闘に係わらない事を条件に、敵軍に身柄を預ける。確かに命は永らえるだろう。
「んな宣誓、もししたら、お前さんらの欲しがっている秘術とやらも、俺の腹の中へ収まったままだぜ。それでも良いのか?」
宣誓をした者には自国の為に戦う事は出来ないが、自国の情報を漏らす必要も無く、その強制もされない。これが、戦いに明け暮れてきたカダローラでの作法である。
「私はセイリオス殿下と、そうお約束致した。そこの業突く張りと一緒にしないでいただきたい」
余りにも武人らしい実直な返答にシオンは思わず苦笑した。
「お待ちを、ボードウィン閣下。それではこちらが困る」
ウォルフが、横柄に騎獣の首を向けた。その背後で三兄弟の長兄が言葉を引き継ぐ。
「その者が知る秘術、我らが手中に収めれば、ダリスの為にどれほど役に立ちましょう。お引き渡しいただきたい」
見え見えの慇懃さでしかも有無を言わせまいとする口調のアドルへ、ボードウィンは忌々しげな視線を投げつけた。
「お前達には、この有り様の説明をしてもらいたい」
「有り様?」
将軍の剣幕など、どこ吹く風というように、アドルが小首を傾げる。
その小面憎い態度に、ダン! とボードウィンは足を踏み鳴らした。
「この化け物達だ! クライン兵のみならず、我が兵にまで襲い掛かるとはどういうことだ?」
「はて? 何の事やら…」
かすかな笑う仕草に肩が揺れる
「我らはあれ達に、戦場で怖じ気付き、逃げ出す者を粛清せよと仕込んであるのでな。哀れな臆病者が相応しい終わりを迎えただけでしょう」
兵に聞かせたのと同じ言い訳だったが、猛将の目は険悪に細められた。
「クライン兵と切り結ぶ真っ最中に傾れ込み、両者を牙にかけたのは、どんな仕込だ? 聞かせてもらおうか」
部下を殺された怒りを燃える憎悪に変えて睨む武将へ、三魔導士が低く笑う。
「十匹程戻らぬのは、閣下の手に掛かっていた故ですか…愚かな獣故、血に狂って判別など付かなくなっていたのでしょう。お手を煩わせて申し訳ない。何、そんな失態を恨みなど致しません。我が獣を斬ったことは、お気に病まれぬように」
リヒトの尊大な嫌味に、ボードウィンはウォルフへ一歩詰め寄った。
「何時までそういうふざけた事が言えるか見ものだな。お前らを軍法会議に掛けてやろう。首を洗って待って居れ」
最後通告を突きつける将軍にアドルは咽喉で笑い、やれやれ、といった仕草で肩を竦めた。
「折角面白いものを持っている囚人の口を、誓い等と言うくだらないもので閉ざそうとしたり、たかが2-30人が獣に殺された程度の、些細な事を咎め立てたり…将軍殿。貴殿の如き小心者は、このまま居ても、ものの役には立ちませんな」
がらりと声音を変えて蔑む言葉に嘲う。
「何?」
眉を寄せて聞き返す将軍をアドルはせせら笑うだけの視線で返した。代わりにウォルフがうなずく。
「有るものと言えば、千騎斬りなどという莫迦力のみ…ククク…ただ黙って斬って居れば良いものを…小賢しい事ばかり囀る」
受けてリヒトが膝を叩いた。
「余計な事は考えず、我らが為にその腕を振るえばよい。兄者達、こんな奴には、遠慮しただけ無駄だったな」
「左様…」
慇懃な態度を装う事すら止めた魔導士達が、不気味に嘲笑を浮かべる。
豹変振りに、ボードウィンもにやりと口角を上げた。
「とうとう馬脚を露したな、食わせものめ」
リヒトの哄笑が弾け渡った。
「勿論貴様に合わせてやったまで。立てて差し上げねばなあ、指揮官殿。ククク…いくら無能でもな」
「それが礼儀というもの。無駄だったがな」
「まったくだ」
口々に嘲りながら、三魔導士はゆっくりと両腕を広げた。
同時に怪物達が丘を取り巻く輪を窄め、ウォルフの冷笑が深まる。
「だが、お立て申し上げるのもここまでだ。そろそろ我らの役に立って貰うとしよう」
「左様」
アドルが小さく頷き、丘を取り巻く怪物達が低く唸りはじめた。
人の心を掻き乱す不気味な響きに辺りの空気が張り詰めていく。
怪物達の発する唸りは、やがて低く高く、奇妙な節のように遠吠えとも唸り声ともつかないものへと変化し、丘を取り巻く輪が更に狭められていった。
それを操る三魔導士達は、獣の声に合わせるように呪文を詠唱し始めた。
だがその呪文は今まで耳にした事も無い奇怪な音の羅列で、カダローラの言語とは異なる音節、異なる単語が、恰も言葉で魔方陣を組上げる様に感じられ兵士達はその不気味さに更に肩を寄せ合った。
「何を企んでいる?」
ボードウィンの詰問に答える気配は無く、遠雷の響きが強い横風に紛れて耳朶を打つ。
風は霧雨を顔に叩きつけ、既に濡れ鼠の丘に居た者達は急激な天候の悪化に不安な目を天に向ける。
不意に大きな雷鳴が響き、それに驚いたらしい一人の兵士が、縋るように握り締めていた槍を取り落とした。
濡れた草に転がる槍が、風に動かされて不規則に揺れていた。
奇妙な呪文を続ける魔導士と、謡うが如き怪物達の遠吠えする様から目を逸らした兵士が、見るとは無しにその動きを目で追う。そして気がついたのか慌てて空を仰ぐ。
なぜなら風は、この丘の周りだけ強くなっていたからだ。 まるで丘の上に竜巻が巻き上がっているかのように、風が螺旋を描いていく。やがて魔力の無い兵士達にも丘を取り巻いていく禍々しい魔法を肌で感じられる程になっていた。三魔導士が呪文とともにどれほどの魔力を練り、組み立てているのか…兵士たちには計り知れなかった。
そしてその力が増すとともに地から燐光が湧き上がる様に、ぼんやりと草が光り雨が光り、ゆらゆらと光るそれは風に攫われ、魔力の起こす風の形を光で縁取り禍々しい燐光の蛇が天を目指して中空を這い登る。
更に唸り啼く怪物達からもぼんやりと燐光が放たれ始め、丘を取り巻き巨大なとぐろを巻く蛇が増えていく。
誰もが固唾を飲んで事の成り行きを見つめる中、三魔導士の正面に、赤黒く光る玉が出来始めていた。玉は赤い光を発しつつもその表面は黒くどろどろとしたものが浮き上がって見え、まるで灼熱で溶けた鉄の玉が冷えかけているように見えた。
しかしその玉は冷え縮むのではなく、燐光の渦を吸い込みながら次第に大きくなっていくようだった。
「くそ…」
不意に、体が傾ぐ様な眩暈に襲われたボードウィンは、強く頭を振って意識を保とうとした。だがそれでも翳む視界を止められない。
「貴様ら…何をした…」
詰問しようと口を開けば掠れた声が絞り出される。舌さえ侭ならず呂律の怪しい状態にギョッとした。
明らかに妙な体調の変化に、考えられる可能性は一つだった。
「おのれ…」
謀ったなと続けようにも舌は回らず、激昂するままに剣に手を掛け、詠唱に忙しくこちらを見もしない魔導士たちを叩き切ってやろうと柄を握るが、どうにも肘から先が痺れそれどころか足の力さえ抜けて、立っている事すら侭ならなくなってきた。
揺れる体に歯を食いしばり、三魔導士を睨み据える将軍に、
「お前さん。一服盛られたんだな」
言わずもがなの冷静な声が、背後から寄越される。
「煩い…」
苛々と振り向けば、件の囚人が裏切り者の文官に解けた髪を結い直させている様が目に入る。
「大方、兵糧に何か混ぜてやがったんだぜ。お前さんの部下達を見てみな」
いまだ大木に縫い付けられたままだと言うのに、痛みを感じてもいないかのようにこの男は余裕すら見せ付けて大魔法の渦中に居た。
くいとしゃくる顎はダリス兵達を指し示し、彼らもまたボードウィンと同じ様に混濁し始めた意識に抗っている様子を飴色の目が眺める。
「どうやらあいつら、ここでどでかい魔法をぶちかますつもりらしいぜ」
「それは、わざわざ謂われなくても、この魔法の光の織り成す渦と、禍々しい空気で判る。のでは無いですか?」
ボードウィンが思っていたままの反論を冷静な声音で文官が返すと、蒼髪の魔導士は軽い笑い声を上げた。
「ちげぇねえや」
「ここは古戦場。クラインの建国の頃大規模な戦闘のあった場所。どれだけの血が流されたものか…」
しみじみとした声音でアイシュがフードに半ば隠された頭を振ると、
「今回も、だな。クライン兵二百。悉くが、そこのおっさんと部下の兵隊に倒された…古と現在の戦場が重なり、どっちもこの場所が血で洗われた…轆でもない魔法をするには、丁度いい血の祭壇って奴だな」
値踏みするようにシオンが答え、更に面白そうに顎をしゃくる。
「アイシュ、気がついてるか? あの化け物たちの立ち位置」
文官への呼びかけに、将軍は思わず不気味な燐光を発し光と風の螺旋を取り囲む怪物達へ目を遣った。
「でかいのちっこいの、適当に並んでいるように見えるが…ありゃあ魔方陣になってるぜ」
魔導士の言葉にボードウィンは目を凝らす。
その目に妙な影が見え、同時に一人の兵士が悲鳴を上げた。
闇の中、詠唱に合わせて遠吠えを響かせる怪物達の燐光の中に、ぼんやりと人影が浮き上がり始めたからだった。
数匹に一匹の割合で、化け物の姿に重なって虚ろな視線を虚空に投げかける、亡霊のような人影。
ボードウィンは息を呑んだ。
「…獣化の術か…」
奇妙な程冷静な声で呟いたのは、怯えた様に白い帽子を抱きしめている文官だった。自分が裏切り、陥れたはずの囚われの魔導士に身を寄せ、深いフードに顔を隠すように俯き竦んでいる。
「獣化の術?」
鸚鵡返しに繰り返す将軍へ、ああ、とシオンは頷く。
「昔話に聞いたところじゃあ、人間を怪物に変えて使役する下法って事だな。今生き残っている化け物たちは、そうやって作り出されたものの子孫だとさ。はるか昔。それこそエーベの女神さんが終結させた古代戦争の時に使われたって話だ。禁呪中の禁呪。文書での記録は一切残されず、使い手も全て抹殺された。今は伝説が残るのみ…の筈だけどな」
専門分野の説明をするシオンの、やや皮肉をこめた声音に、下法士の正体を曝したウォルフが喉を鳴らして笑った。
「何を騒いでいるかと思えば…術の共鳴で先の姿を曝したか…なんと浅ましき姿。この期に及んで人の記憶を捨てきれぬとは…」
術の暴露に動じもせず亡霊の姿を鼻で笑うと、自分が作り上げた光球を頭上に捧げ持つかのごとく浮き上がらせた。
「結構なもの見物させてくれるじゃねえか、礼でも言おうか?」
せせら笑う筆頭魔導士に、ウォルフは凄みのある笑みを返す。
「それは光栄ですな」
嫌味に嫌味で返し、満足気に光球が浮く様を見る。
「余裕綽々か…そりゃあ、ここまで来れば、もう勝ったも同然って訳だな。この兵隊達を化け物に変える為に盛った秘薬は順調に効いているみたいだし、下法を増幅させる為の血もたっぷり流れている様だしな」
「如何にも。そしてこの地は、古戦場でも特に死者の出た激戦地。そして今日も大地は血で洗われ、条件は揃った」
呪文を唱え続ける兄弟達に笑いかけ頷き返すのを確認すると、ウォルフはさも得意げに言葉を続けた。
「世を席捲するエーベなど、新参の神に過ぎん。古来の神を信奉する者もまた、人知れず術を受け継ぐ。我らこそ、正統なる創造魔法を受け継ぐ者だ」
異常な血筋の披露にも、シオンの冷笑は消えなかった。
「へぇ? お前さんらは、その古い黴だらけの術の継承者って訳か。この戦争で血を浴びた奴らを化け物にして、手下を作っていたって?」
言い返しながらくつくつと喉で笑う。
相変わらず槍に貫かれた肩からはじくじくと血が滴り落ち、多分彼の背はその血で真っ赤のはずだが、この剥き出しの刃物のようになった男はそれすらも痒いと言わんばかりに笑い続ける。
「何が創造魔法だよ。あれは無から有を造る魔法だ。人間原料に化けもん作りやがって。こんな下法、キールが聞いたら、さぞ怒るこったろうぜ」
ウォルフの目がわずかに細められる。
「人を下僕に変えるなど、こんな大掛かりでなくともすぐに出来る」
「へえ? じゃ、これはもっとすげえ事か?」
嘲る声に、もう魔導士は答えなかった。
亡霊の、木の洞のような双眸が見つめるのは、魔力のうねりをそのまま映す光と風の螺旋。
多少でも魔力を内包する者ならばこの禍々しく膨大な呪力の渦が、練り上げられ膨れ上がるのを感じられるはずだ。
だからだろう、意識を奪われていく恐怖に堪え切れなくなった一人の兵士が、悲鳴のような奇声を上げて、アドルへと槍を突き入れた。
「死ね化け物―――!!!」
呪文を詠唱する無防備な魔導士に渾身の槍が突き刺さる寸前、踊り出た巨大な山猫のような怪物が、兵士の喉笛に食らいつく。
遠吠えの合奏の中、断末魔の絶叫は、塞がれた喉に因ってか細い笛を吹き鳴らす様にしか聞こえなかった。
「これが最後の血…そして、仕上げの贄だ…」
アドルは喰いちぎられる兵士を一瞥し、満足そうに頷いた。
部下を助けようと、動かぬ体を叱咤して立ち上がりかけていたボードウィンは、怪物に引き裂かれ雨に洗われる草の上に投げ出された死体へ、他の兵士達が泳ぐようなあやふやな足取りで近づく様に眉を寄せる。
皆一様に割けた腹から剥き出しにされた、臓物と流れる血を見つめていた。
「さあ…わが隷となる者達よ。この血を飲み肉を食らい人を捨てよ」
アドルの命令にボードウィンは、自分の目が死体の内臓に吸い寄せられていく事に愕然とした。
紅い鮮血が、甘い飲み物だと思えた。
剥き出しにされた臓物が艶やかに見え、あれこそが天上の糧だという気がした。
その場の全ての兵士達がきっとそう思っただろう。
喉の渇きに耐えかねて、朦朧とした顔つきの兵士が死体に喰らい着かんと飛び掛った。
「止めろ!!!」
わずかに残った意識を気力で奮い立たせて将軍が一喝する。
血に触れる寸前で我に返った兵士達が、理性と魔法の狭間で怯えながらいっせいに指揮官を仰ぎ見た。
「貴様達は、栄えある我がダリスの兵。その誇りを捨て、獣に墮るな!!」
必死で呼びかける将軍を、ウォルフが冷ややかに一瞥する。
「無駄な足掻きだ…」
「わしは承知せんぞ!! そんな虚仮威しの魔法で、化け物に成り下がって堪るか!」
足元へ吹き飛ばされてきた死んだ兵士の槍に縋って、何とか立ち上がると騎乗のウォルフを睨み据える。
「成り下がるとは、心得違いも甚だしい。お前達は我らをこの世の全てを支配する者とする為の、礎となるのだ」
既に隷と決め付けた尊大な口調でウォルフが笑うと、リヒトが更に言葉を引き継ぐ。
「己が成し遂げる偉業の一端なりとも教えてやろう。どうせすぐに自分すら判らなくなるのだからな」
まったく、仲の良い兄弟だ。ボードウィンは忌々しく睨めつけた。
術中に落ち、憤る将軍に気をよくした二人は、交互に語り始めた。
「この丘は三度血で洗われた。ひとつは神々の戦い。一つは古代の戦争。そして今夜。三つの時代が血に因って繋げられ、太古の大いなる神力が我らの手に降りて来る」
うっとりと語るリヒトの言葉を受けて、ウォルフが頷く。
「我らはダリス、クラインにとどまらず、カダローラ全土を支配する。さらには大海の彼方、伝説の大陸もまた掌中に収まるだろう。このワーランド全てを支配するのだ」
弟達に鷹揚に頷いて、下僕を愛しむ様にアドルが周りを眺める。
「お前等はその先駆。この地での魔法に拠って獣となったお前等は、触れる物全てを我が隷と変える魔法そのものとなるのだ」
壮大な野望にボードウィンが息を呑む。その背後で、冷ややかに事の推移を眺めていたクライン筆頭魔導士が堪えきれずに噴出すと、高らかな笑い声を上げた。
「古代の神力? カダローラ島平定? ワーランド支配? お前さんら頭は無事か? なんてぇ三文芝居だ。俺が客なら、金返せってごねるところだな」
不敵な挑発に、その場の人間だけでなく獣達までもが一斉に蒼髪の魔導士を見る。
「神話時代の戦争何ざ預かり知らねぇが、古代の戦争は何処が勝ったか知ってるのか?クラインだよ。建国の景気付けにここで大勝利を収めたのさ。出来立ての国を捻り潰そうとしやがったダリスにな」
にやりと笑う先には、皮肉に色をなすウォルフが居た。
「古代がどうのと抜かすなら、歴史の勝敗も調べて置けよ。無知が曝け出されて見っとも無いぜ」
激昂しやすい男に業と侮蔑の眼差しと言葉を浴びせ掛ければ、陰気な顔立ちに青い筋が浮かぶ。
兵士を引き裂いていた獣が一匹、渦巻く光の竜巻に毛皮を光らせながらゆらりと丘を登りだした。
「死に損ないが…秘伝を聞けば、すぐに死なせてやろうほどに。大人しく控えていろ」
「へっ死んだって教えるかよ。まあ、知ってもお前さんらじゃあ、使いこなせねぇだろうさ」
では今死ね、と言いた気に獣がシオンに近寄っていく。ボードウィンはよろけながらその間に立ち塞がった。
「下がれ畜生…お前の牙などにこの方を掛けさせるか。わしは彼のお方に約束したのだ」
「下がるのはお前だ。生意気な口が二度と叩けぬように、少し仕置きをせねばな」
睨み上げる獣の代わりに、ウォルフが命じる。
翳む目に力を込めて、武人が恫喝する。
「させはせん! 我らも下衆供の下法などに負けはせん! カイナス殿。貴殿は早く、逃げ落ちられよ!!」
言い放ち、ゆらりと後退ると肩越しにシオンを貫く槍を握る。
口では不退転の決意を叫びはしたが、既に術中に落ちた自分達が何時まで人としての意志を保てるのか、彼にはもう判らなかった。
ならばせめて、自ら屠った貴人の意志を遂げさせてやりたい。
「貴殿には生きてもらう。それが、我が剣とセイリオス殿下の亡骸に約束した事だ!!」
貴人の首級を胸に抱え、言葉と共に槍を引き抜く。常人が引いた程度ではびくともしないほどに幹に突き刺さった槍は、猛将の膂力に屈したか鮮血を撒き散らしながら数時間ぶりにシオンを解放した。
「く…………っ」
抜かれた事で吹き出した血が肩を濡らし、アイシュのとっさの支えも虚しく幹に預けた背が血の帯を引きながらずるずると下がっていく。
ウォルフを睨みつけるボードウィン以外の、丘を注目する兵士達がその血に目を奪われていた。
「なんと愚かな……狼の鎖を外すとは」
アドルが忌々しげに呟く。その視線の先では、幹にへたり込みアイシュの唱える治癒魔法で出血を止めているシオンが居る。
「虚けもここまで行けば褒めてやろうと言いたいが…敵に加担するとは、反逆の意思有りと言う事だな?」
言い終わらないうちに、獣の爪が将軍の肩へ振り下ろされた。
常ならば避けるのは雑作も無いような攻撃だったが、術により自由を奪われていた体ではとっさに身を捩り、鎧の肩当で防ぐのが精一杯であった。
何とか致命傷は避けたものの、鋭い魔獣の爪は肩当の金具を弾き飛ばしその下の鎧を楽々と突き破ると、ボードウィンの肉を切り裂く。
血と共に鎧の一部が弾け飛び、光の渦へ飲み込まれた。
「ぐぅっ!」
激痛に歯を食い縛り肩を押さえながら、下法の魔導士を睨み据えていた猛将だったが、ぐらりと傾ぐとそのまま兵士達の中へと倒れこむ。それは恰も鷲が射落とされる様にも似て、凄惨で壮絶な気迫に包まれていた。そしてそこに待っていたのは上司を案じる部下達では無く、血に本能を掻き立てられ餓えた目を光らせる、人の姿をした獣たち……
「まったく…最後まで役に立たぬ男よの。せめて我らの術の仕上げとなるがよい。反逆の徒め」
血を求める兵士達に組み伏せられ、伸ばされた手に傷口を掻き毟られながら、それでもボードウィンは三魔導士を睨んだまま。その鋭い眼光には生への強い意志を失わず、猛禽が未だ戦いを止めていない事を示していた。
「何が反逆だ! 貴様らこそ謀反人。先王の死に乗じ、現王を唆して王位を簒奪させた盗人が! わしは騎士となった時、二君に見えずと誓約した。我が王は今も先王。そしてその正統なる世継ぎの君で在られるアルムレディン殿下だけだ!!」
苦しい息の下全霊を込めた叫びに、凛とした声が応える。 |
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「よく言った。ボードウィン!」
その瞬間、将軍がしっかりと抱きかかえていたセイリオスの首級を包んだ包みから、眩い光の柱が天を貫いた。
「ギャイン!!」
すぐ側にいた怪物がその光に弾かれて宙を飛ぶ。
理性を失っていた兵士達は光を目にした途端に、糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
清廉な光の柱は将軍の腕の中だけではなく、この丘を取り巻くささやかな空き地のそこかしこからそして森の中からも吹き上がり、天と地を繋いでいく。
その柱は散乱するクライン兵の亡骸から発されていて、無数の柱の周りでは怪物達が光に焼かれてのた打ち回っていた。
そして、獣たちの輪が崩れる事により光の柱に浸食されていた、完成寸前の魔法の渦が揺らぎ始める。
組上げた魔法を崩すまいと、三魔導士が必死に立て直す。しかし、圧倒的な力が光の柱の間に満ち始め、細い雷光のような光りが柱の間を縦横に走り出すと、終には風も光の竜巻も奇妙に撓み、歪みきったところで弾け飛ぶように霧散した。
あまりの事態に呆然とその光を見詰めるボードウィンの目に、光に切り裂かれたかのように、雲が分かれ夜空が広がっていく。
「ヒトラ三兄弟。その極悪非道、確と見せてもらったぞ」
自信に満ちた声音が、丘の上から響き渡る。
慌てて注目する人々の目には、冷笑を浮かべたシオン・カイナスがゆらりと立ち上がる姿が見えたが、声の主は彼ではなく。シオンに肩を貸していた青年が、無造作にマントを脱ぎ捨てた。
フードと共に亜麻色の髪が滑り落ち、その下から現れた空色の髪には白い帽子が乗せられ、分厚い眼鏡を外せばそこに掛けられていた魔法は解け、涼やかな夜明けの色が光を弾く。
月が出ていた。
大きな満月を背にクライン筆頭魔導士がにやりと笑い、裏切り者の文官の仮面を脱ぎ捨てた貴人は、すらりと剣を抜き放つ。
「だが、その悪行もこの地で終いだ。ダリスの人々を苦しめた罪、人を獣に貶める下法の罪。そして我がクラインを脅かした罪。購って貰おう」
意外な成り行きに愕然としていたウォルフが、皇太子の冷笑へ怒気も露に叫んだ。
「謀ったなセイリオス!!!」
声とともに騎獣が襲い掛かる。
咆哮が耳を劈き、至近距離からの攻撃は一呼吸も要さずに繰り出され、長い爪が白い衣を血で染めるのが当然と思えた。
だがしかし、どうと音を立てて地に転がったのは長い剛毛に覆われた怪物の首。
残された胴体が血を撒き散らしながらのたうち、騎乗のウォルフを弾き飛ばした。
返り血を受け流したセイリオスは、煌めく白刃に冷たい笑みを浮かべる。
「剣よ、今宵も忠実であれ」
それは何かの呪文なのだろう。言葉とともに剣を薄い光が包む。
「いくぞ、シオン」
「了解!」
白い電光を四方に放ち、筆頭魔導士の朗々たる呪文が流れ始める。
天と地を結ぶ光の柱が蒼髪の魔導士に因って空中で集められ、練り上げられ、最前の邪悪な魔法とは対極を思わせる清廉な光の渦を描き出す。
光の渦は空を裂き、満月を射抜くかと思われるほど高みへと昇っていく。その只中に在り、次第に集約していく魔法の基点となりながら、シオンは不敵な笑みを崩さなかった。
「さぁってと……お前さん達の欲しがっていたクラインが秘術。冥土の土産に見せてやるぜ」
得意なのか脅しなのか、楽しげに言い放つシオンへ、皇太子は苦笑しながら片手を上げた。
「何時でも良いさ。最後の呪文を言ってくれ」
頷き答える親友に、莞爾と笑んだ皇太子は、魔法を纏う剣を悠然と構える。
「死よ。我とともに踊れ……」
皇太子が厳かに呪文の完了をなせば、丘を取り巻く光が更にうねる。やがて竜巻が襲い掛かるかのように吹き降ろし、一気に彼を取り巻いた。白絹の衣が光の渦によって、より凄烈に光り輝き、未知の魔法が豪奢な鎧のごとく煌めく。
「まさか……こんな短時間で。此処までのものが…」
あまりに速やかに完成していく大魔法に、リヒトは呆然と呟き数度瞬いた。
「いいや違う」
魔力の渦を見つめてわずかに息を呑むと、今度は怒りに震えながら拳を握り締めた。
魔法は既に完成する寸前まで用意されていたのだ、そして自分達の行った魔法すら、結果としてこの術へ魔力を分け与えた事になっている。
「食わせ物共……」
膨れ上がる膨大な魔法に、アドルが自分兄弟達へ結界を張り廻らせた。離れた場所にいたリヒトは、慌てて生き残りの怪物達へ攻撃の指令を出す。そして跨っていた獣から投げ出され、とっさに兄の元へ退いたウォルフが、魔法の形成段階を狙って灼熱の火球を叩き込んできた。
「今度こそ死ねぇっ!!」
「そいつはてめぇだ……」
不敵な笑みのシオンが片手を閃かす。
閃光を放つ風が火球を屠ると、そのままアドルとウォルフを護る結界に炸裂した。
辛うじて持ちこたえたものの、そこに皇太子の剣が叩き込まれる。
「ぐぁ…!」
疾風のごとき剣は強大な魔力を纏い、難無く結界を切り裂くと、もっとも手近にいたウォルフを袈裟懸けに斬り下ろした。
仰け反り倒れる弟を眼前に、アドルが憎悪を燃やして皇太子への攻撃魔法を紡ぎ出す。両手を突き出し、そこに電光を放つ火球が現れる。だが、それを放つ暇は無かった。
「無駄だ…」
一気に間合いを詰めたセイリオスが気品と威圧の両方を備えた冷たい笑みを向け、それがアドルの見たこの世の最後となった。
純白の正装に返り血すら浴びずに、白い鬼神が獲物を屠る。
炎を剣気で霧散させ返す刀が逆袈裟に斬り上げられ、黒いローヴごと魔導士の胴体が二つに分かれていく。
「兄者―――――!!!」
リヒトの叫びと共に、怪物達がセイリオスへ躍り掛かった。だが、既に魔法と一体となった皇太子の剣は白い光を帯び、襲い掛かる化け物を次々と倒していく。
その姿はあたかも舞を舞うかのように華麗で、流麗な動きが一服の絵画を思わせた。
そして、その剣を稀に逃れたものが居れば、そこにシオンが繰り出す白熱の火球が襲い掛かる。
王族と筆頭魔導士が魔法と一体となって敵を倒していく。
これがクラインの秘術。
継承者達に口頭のみで伝えられる必殺の魔法だった。
圧倒的な魔法の威力に、呆然と死の剣舞に見入っていたボードウインだったが、光の柱に焼かれ激減したとはいえ、それでも雲霞の如くセイリオスに襲い掛かりリヒトへ近寄せまいとする怪物達に、加勢をせんと立ち上がった
「ここで護られていては武人の恥ぞ……」
歯を食い縛り、怯える部下達を振り返る。
「立て! 貴様達は栄えあるダリスの武士。化け物に負けて怖じけるな!」
一喝し、動いた者に襲い掛かってきた巨猿へと剣を振り下ろす。断末魔の悲鳴が響き渡った。
怯え竦んでいた兵士達も、指揮官の気迫に鼓舞されて槍を構えて立ち上がった。三魔導士の魔法が消えたことで体の自由が戻りつつあるのがわかり、彼らは閧の声を振り絞り怪物達へ反撃の火蓋を切る。
再び乱戦の地となった丘は、秘術によって弱っていた怪物達の屍に埋められていった。
次々と倒されていく怪物と丘の上に倒れた兄たちの亡骸を睨み、リヒトは憤怒と憎悪の呪詛の言葉をわめき散らした。
「おのれセイリオス! おのれシオン! 下等なボードウィン! このままでは済まさんぞ!!」
威勢だけはいいが、その実彼の周りには怪物の円陣が組まれじわじわと退却の様子を見せている。その進む先へシオンの魔法弾が炸裂した。
咄嗟に顔を背け爆風をやり過ごし、再び見たそこには、最後の怪物を斬り捨てた皇太子が立っていた。
「な……」
あまりの事に眼を見開くリヒトへ、冷笑と共に涼やかな声が寄越される。
「ひとつ教えてやろう。お前たちの下法は、そもそも完成はしなかった。何しろ条件が揃っていなかったからな」
妙な言葉に眉を寄せる。
「何を言う?」
いぶかしみながらも、慎重に間合いを計る。面白がっている声が返された。
「神話時代からの古戦場、新たに流された二百名の血。そして秘薬を飲んだ者達。これが条件だったな? しかし、この地で流された血は、ダリス兵十数人に過ぎん。お前たちがわざと怪物に殺させた者達だけだ。クラインの血は一滴も…いや、シオンを除いて一人の血も流れてはいない」
悪戯を披露しながら、無造作に歩み寄る。
油断しきった様子に得たりと腹の中でほくそ笑みながら、わざと逃れようとする振りをして半歩下がってみせる。
「何を言う、ならば我らが屠った兵達は何だ?」
リヒトの問いに、皇太子は肩を竦めた。
「ヒトラ三兄弟が来ると聞いたからな。我々が用意した」
更に一歩、もう手が触れる程の近さに来た皇太子へ、袖の中に隠してあった飛び出しナイフを突き出す。
猛毒と呪いを塗りこめたもので、持ち主以外の相手に少しでも掠れば、確実に殺すことが出来る。
だが必殺の一撃はセイリオスに届く前に、握り締めた手首ごと地に転がっていた。
「!?」
リヒトは痛みを感じなかった。肘から先を切り落とされた腕をぼんやりと見つめ、信じられないまま皇太子を見上げる。頭ひとつ高い皇太子の姿が、ぐらりと横へ傾いだ。
「クライン兵二百。すべてシオンとキール。クライン最高の魔導士二人の手による木偶人形だったのだよ。この魔法のために必要なのでね。良く動いていただろう? お前達に勘付かれないほどにな。この地に居た生身の人間は、私とシオンの二人だけさ」
言いながら、苦笑して彼は肩を竦めた。
「ああ…もう聞こえないか…」
小さな鍔鳴りと共にセイリオスは剣を納め、死んだ魔導師を見下ろす。
肘と胴を同時に切り離されたリヒトは、雨と血に濡れた草の上に分断された体を転がしていた。
勝利の喝采が丘に響き渡った。
丘に戻ったセイリオスを、軽く片手を上げて迎えたシオンは、にやりと口の端を引き上げる。
「それにしても、ま、でかいアイシュだったなぁ」
ダリス軍とヒトラ三兄弟をこの地へ引き込む為の文官の変装は、誰も本人を知らないからこそ出来たものといえた。
日没後、本陣を抜け出した皇太子は、筆頭魔導士と共にこの地で罠を張り巡らせた。動く魔法人形達を配置に付かせ、間者を装い三魔導士を待ったのだ。
「かわいそうだろう? アイシュを戦場などに連れてきたら見ただけで気絶してしまうよ。第一、あんなに長くしなくてはならなかったのは、囮を買って出たくせに誰かがへまをしたからだしね。おかげで、笑いを堪えるのがどれほど大変だったか」
変装を冷やかす親友へ冷たく言い返すと、苦笑が返される。
「へえへえ、何方かさんの為に三日も徹夜したんでね」
お互いが苦笑を交し合っていると、部下達を労っていた将軍が皇太子の前に膝を付いた。
「セイリオス殿下。クラインの秘術、感服仕った。貴方は我らの命の恩人。このボードウィン、潔く投降いたします」
ここで取り囲めば、クラインの中枢そのものを手に入れられるだろうに、そうはしない武人気質に皇太子は深い笑みを向けた。
「立たれよボードウィン卿。貴殿は我が盟友アルムレディン殿が臣下、ならば我が友も同じこと。共に仲間の元へ戻ろうではないか」
「殿下…」
温情のある言葉に、ボードウィンは皇太子を見上げた。
「戦はここよりが本番。貴殿の働き、しかと見せてもらおう」
貴人の笑みに、将軍は再び首を垂れる。
未だ面識が無くそのひととなりを知らぬアルムレディンと、今眼前に立つ武人が理想ともする王の姿を引き比べ、「二君に見えず」の誓いをほんの少し後悔してしまったのは、後にアルムレディンに心酔する事となる彼の一生の秘密となった。
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やがて、光の柱となった捕虜に驚いていた本隊と合流した元ダリス兵達は、真なる主君の元へと隊列を整えて出発した。
その先頭にあり、暁の中で空色の髪と白絹の衣を輝かせたクライン皇太子の物語は、その後形を変えて語り継がれる。
後世。「魔王子セオディアの冒険」の一編。「アバンクォルドの死の運び手」として世に知られることとなるのだが、当事者の彼等には、与り知らぬ事である。
完
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そらたさんの「挿絵化計画」に寄贈させていただいた作品。
女っ気ありません(笑
ヒトラ三兄弟とボードウィン将軍はオリジナルに作成したキャラクターです。
ちなみに、水面下でのシオンと殿下の突っ込み合戦は、ファンタ者のかたがたへのサービスです |