岐路



「兄貴、待てよ」
 半ば上がりかけた息に眉を寄せ、キールはひたすら階上を目指して登って行く、アイシュの背中へ呼び掛けた。
「どうしました〜キール〜?」
 あいかわらずに呑気な声がかえってくる。
 息が上がってもいない兄ヘ、自分の体力不足を白状する気になれず、キールは別の疑問を投げ掛ける。
「メイや姫じゃあるまいし、高いところに登ってどうするんだよ」
 本人達が聞いたら、さぞ気を悪くするだろう。何しろその話しが出たのは、つい昨日の事なのだ。
「なんで、姫とメイなんですか〜?」
「姫とメイが、昨日この鐘楼に登ったんだよ」
 時を告げ火を見張る鐘楼は、王都各箇所に設置されていた。その中で最も高いこの建物は、都内をほぼ一望できる。鐘楼番は居るが登るのは自由だったから、誰でも景観を眺める事ができた。さすがに、子供だけで登るのは、転落事故があって数年前から禁止されていたが。
 涼しさと見晴らしを説明したがるメイに、『何も落として来なかったか?』と、厭味を言った。
 馬鹿と鳥は空に覚えた事を落とす。
 古い言い回しは、異世界人には通じなかったが、単に落とし物を心配されたと勘違いした少女は、『馬鹿と煙は高いところに登る』という厭味かと思った。などと笑い、落ちたのは風に煽られたディアーナの帽子だけだと語った。キールは、類似性のある言葉は何処にでも有るんだな、と関心したものだ。
 後日、意味を知るだろう少女が、どんな顔で怒鳴り込んでくるか、キールは苦笑した、
「キール〜覚えていませんか〜? 昔〜ここに登って、父さんを探した事を〜」
 忘れる訳がない。
「覚えてる」
「あの時は、屋上が本当に遠かったけれど、今はそうでも無いですねえ〜」
 何気なく癪に障る事を呟いて、アイシュは再び階上を目指して足を勧め始める。
 キールは、大きく息を吸い込んで呼吸を整えると、再び兄の背を追った。
 
 あれは十二年前だ。
 王都を襲った疫病は、医者や魔導士の懸命の働きによって鎮静された。
 魔法療法士である双子の母も駆り出され、郷里に残った自分は、両親や兄を心配したものだった。
 だが、疫病は、最後の犠牲者に、父を奪って行った。
 当時、文官を勤めていた父は行政の立場から、貧苦にあえぎ、満足な治療も受けられない人々を救おうと奔走していた、と母は話していた。
 そのため、自分を省みる事を忘れ、倒れた時には、既に手の施し様がなかったのだ。
 キールが葬儀に呼ばれた時には、再感染を防止するために、父の遺体は荼毘に附された後だった。だから、死に顔には会って無い。
 父が存命の頃は、年に数度、郷里と王都で別れて暮らす家族が時間をやり繰りして会っていた。
 つかの間の邂逅は優しい記憶だけをキールに残し、そのために、死を経由しない父との永訣は、釈然としない悲しみをもたらす。
 葬儀で泣けもしない自分を、他人はしっかりしていると誉めたけれど、何かが欠落しているようで、酷い自己嫌悪に苛まれた。
 父は臨終のとき、『物忘れをしたら、お空に落とした覚えたものを、僕が拾って返してあげるよ、だから、アイシュもキールも馬鹿にはならないよ』と、冗談を言ったらしい。
 子煩悩な彼は、泣きじゃくる息子を宥めるつもりだったのだろうか、臨終の時まで馬鹿にこだわるとは驚いたと、母は笑った。
 馬鹿は嫌いだと言い放つキールの悪癖は、父から受け継いだ遺産と言える。
 理性が勝ち過ぎて、妻の前でも膝を崩せなかった不器用な才人は、その不器用さを妻に愛され、勤勉さで王の信任も勝ち得ていた。
 葬儀には、王その人がお忍びで参列した事が、今でも一族の語り種になっている。
 そういえば、父の同僚で友人だった人が、その後何くれとなく田舎まで様子を見に来てくれた……彼の勧めで兄は宮廷に上がり、自分は魔法研究院の門を叩いた……
 彼は数日前の宮廷の小火騒ぎの時に、大怪我を負ったらしい。
 同時に黒い噂が流れていたが……

 階上の薄闇が四角く切り取られ、白い光がなだれ込んでくるのが見えた。最上階に達したアイシュが、物見台への扉を開けたのだ。
 すっかりあがった息に眉を寄せながら、キールは足を速める。
 そういえば、昔登った時も一番にドアに到達して開いたのは兄だった。
「キール〜見晴らしがいいですよ〜」
 街の上空を洗う風に髪を弄らせて、アイシュが手招きしている。その姿が、七つの少年にダブって見える。
 そう、あの時も兄はへばった自分を励まし、でも手は貸さずに、キールにやり遂げさせてくれた。
 あの頃は、それがとても安心できた。
 双子だというのは頭で判っていたが、まるで何歳も年上の様で、自分は兄に頼りきっていたのだ。
 研究院に入った時に、自分の甘えを思い知った。
 自分が自立する為には、心地良い兄の庇護を断ち切る事が最重要の課題となった。
 それは不器用な反発として表される。
 以来、あくまで護ろうとする兄との軋轢は、まるで我侭な弟が、兄に意地を張っているようにしか見えないものと成り果てた。
 ハリネズミのジレンマだと、メイは言う。
 聴きなれない名詞そのものは判らないが、意味は判別できた。
 しかし、そんな臆病な理由などではない。本当のところは。
 自分は、兄と対等になりたいのだ。
 母と腹を同時に分け合って産まれた、差のない兄弟なのだから。
 背丈も肉のつきにくい体も、髪も目も、視力と性格の所為で印象はだいぶ違うが、顔の造作も大差は無い。
 兄が天才だとしても、自分にはそれに匹敵するだけの努力を惜しまぬ覇気がある。
 自分の道で功績を積み、何歩も先を行く兄に追いつきたい。
 いつか肩を並べる為に。
 盛夏でも涼しい屋上の風に吹かれて、亜麻色の髪を押さえる兄の横顔を見つめながら、キールは最後の一段を踏みしめた。

「それで……なんでこんな所に来たんだ?」
 上がった息を整えながら、キールは両手で両膝に手を付いて体を屈めた。
「覚えてませんか〜?」
 のほほんと答えながら、アイシュは自分の懐から手帳を取り出し白いページを引き破った。
「父さんに手紙を出すんですよ〜」
 酷く曖昧な笑みを浮かべて、白い紙片を手早く折畳む。
「僕らが古文書で見つけた、この紙の折り形。メイがね、カミヒコウキという折り紙だって言うんですよ〜不思議ですね〜」
 そういえば、同じ事を聞いた気がする。
 異世界の空を飛ぶ乗り物を模した形なのだと、少女は言っていた。
 確かに不思議だ。
 遠く世界を隔てた異界の折り紙が、何故古文書に記されていたのか。
 いつかその謎を解明したい。
 純粋な学者としての好奇心が頭をもたげたが、同時に兄の表情が気になった。
 膝に突いていた手を離し、上体を起こす。
 兄は真っ直ぐに前を見据え、折り紙を持った手を上げた。
 つい……と、カミヒコウキを空に放つ。
 空の父へ、白い紙に心で手紙を書いて、この折り紙に載せて飛ばせば届くんじゃないか? 幼い思いが始めた、兄弟だけの儀式。
 キールは、兄の手から離れていく白い軌跡を眼で追った。
 街の屋根が連なる空を、カミヒコウキが飛んでいく。 
 空飛ぶ船は、どんな手紙を載せて送られたのか……
「僕〜おじさんの跡を継ごうと思うんです〜」
 屋根の連なりにまぎれて行く白い軌跡を見つめながら。兄がのほほんと口を開いた。
「おじさんって……あの人の?」
 兄を文官の道に進ませ、自分に研究院の門を開いた父の友人。
 総務長官として兄の上司でもあった恩人は、先日の小火から大怪我をして官職を辞し、自宅で療養していた筈だ。
 そして、兄もまた。
 不審火の責任を取る、という名目で自宅謹慎をしていた。
「キールも聞いていませんか〜? 噂」
「……根も葉もない」
 研究院でも噂雀は居る。
 家が名家だとかだけを鼻にかけて、大して魔力も学力も身につけないくせに、「嗜み」だとか称してたむろする連中。
 自分より実力がある相手を、扱下ろさなければ気が済まない下種達は、ほんの少しの不祥事でも嬉々として群がり枝葉をつけて広めるのだ。
 キールはそう考えて鼻も引っ掛けていなかった。
 兄と総務長が、帳簿改竄にかかわったなどとは。
「たまには、本当なんですよ〜」
 あははと笑う声に、街並みから兄へ視線を移す。
 とんでもない事を笑っていう兄は、やはり曖昧な笑みのまま、それでも視線だけはまっすぐに空を見詰めていた。
「おじさんは〜ダリスの間者でした〜」
「なんだって!?」
 寝耳に水の真実に、キールの声が跳ね上がった。
 父の親友であり、昔から文官として職務を勤め上げてきた総務長官が、ダリスの間者とは。
「まさか……兄貴。跡を継ぐって……?」
 早計に結論に飛びついて怒鳴ってしまいそうなのを、キールは必死で押し止める。あまりにも情報が少な過ぎるからだ。
 噂の悪意には、真実は含まれない。
 そして兄の言葉は、内容を端折り過ぎだ。
 咄嗟に周りの気配を探り、昼の為に降りて来た鐘楼番とすれ違ったのを思い出し安堵する。
 どうせ兄は、それも見越した上で話しているのだろう。
「……ちゃんと、説明してくれ。兄貴」
 場合によっては、自分はなんとしても兄を止めねば為らないかも知れない。セリアン家が国に逆らう危険の阻止、ではなく。兄の将来を守る為に。
 キールは知らずに両手を握り締めた。
「ちゃんと〜言っていいものですかねぇ……」
 アイシュは少しだけ困ったように微笑んだ。
 この最上階に来て、初めて曖昧な仮面が崩れたと弟は思う。
「言わないなら、禁呪使ってでも止める」
 思わず洩れた本音に、自分自身で内心鼻白んだ。あまりにも必死すぎてみっともない。
「っ……とにかく。聞かせろ。その為に、こんなところまできたんだろう?」
 逸らす視線の目の端で、兄が嬉しそうに微笑むのが見えた。
「おじさんは〜ダリスにクラインの情報を流したりしてました〜実はね、おじさんは、もともとはダリスの人だったんだそうです〜」
 他国に移り住み、その国の内部に入り込んで母国へ情報を流し続ける。そういう類の間者が居ると聞いた事がある。まさかそれが、あの人だとは……
「跡を継ぐって意味が解からん…俺たちはもともとからクラインの者だろ?」
 性急に結論を聞きたがる弟へ、不穏な話の割には穏やかに微笑んで見返す兄の様子は、少なからずキールを苛立たせた。
 たぶんそんな感情は、わかりやすく顔に出ていたのだろう。兄はまたもや困ったように微笑みを深める。
「それでね。おじさんは、クラインの情報を流して、そして、ダリスの情報も、もらっていたんです〜長い間……陛下の元で〜」
 キールの眉間の皺が深まった。
 つまり、その意味する所は。
「二重の間者だったのか? クラインの中の間者を装って、その実、ダリスから情報を引き出す為の」
 アイシュがこっくりと頷き、またあの曖昧な笑みを浮かべた。
「兄貴がその跡を継ぐってのは……ダリスにクラインの裏切り者と見せかけて、情報を流して、そのくせあっちもこっちも欺いて? 一番向いていないだろうか!」
 とうとうキールはアイシュを怒鳴りつけていた。
「あはは……やっぱり〜そう思いますか〜?」
「当たり前だ! んなのはシオン様の得意技だろうが。兄貴にそんな小器用な真似ができると思ってるのか? 誰がそんな話持ってきたのか見当はつくが。なんで受けるんだよ、兄貴!」
 元総務長官が兄に身の上と正体を明かしたとしても、継げなどと言うはずがない。
 ダリスが不気味に動き始め。魔法兵器の存在は噂や推測から脱し、現実のものとして確認された。
 今、クラインの平和など風前の灯だった。
 しかもダリスは、当然のように政略結婚をごり押ししてきているという。
 姫から聞いたメイが、世間を一応憚って、キールの書斎で怒鳴り散らしていたのを思い出す。
 そんな情勢の中、兄に二重間者の要請をする奴なんて、二人しか思い浮かばない。
 清廉潔白な顔をしているくせに、じつに狸な高貴なるお方と、正真正銘どこから見ても立派な曲者。あの二人組みは、兄に何をさせようというのか。
「僕もね〜考えはしたんですけどね〜」
 あはは、と。また曖昧な笑い方をして、そしていきなり、笑みを消した。
「僕〜本当はお勤めを辞めたんです」
 今日の兄は、転ぶのとは別の方法で自分を驚かせる気らしい。キールは静かに見つめてくるアイシュを、険しい視線で睨み返す。
「兄貴、順を追って、きっちり説明してくれ」
 話が端折られるのは兄の悪い癖だ。頭の回転が速すぎて、自分が了解している事の説明を省く。
 ああそうだ。自分がこんなに理屈っぽくなったのは、絶対に兄の所為だ。
 即座に解答を導き出す兄の、思考の道筋と証明を補完するのが子供の頃の役目だったのだから。
「まず、なんで辞めたんだ? 帳簿改竄と関係あるのか?」
 筋道を立てるにしても、兄では埒が明かない。いつものようにキールは道順の整理を始めた。
「はい〜お城の小火も、僕が火を付けたんです〜」
 次から次へと出てくる衝撃の事実に、キールは眉間の皺を深める。
 なんでまた、と聞きそうになって慌てて堪えた。迂闊に返答すれば、いつものように話は際限なく脇道にずれるのだ。
 確かメイが言っていた。小火の時、何者かが王宮に入り込んでいたと。
 あまりそういう方面には明るくないが、常識で考えるなら足がつかないように間者を始末する刺客が来たに違いない。
「刺客を追い払う為にか? それとも帳簿改竄の阻止の為にか? それとも……いや待て。それよりもそもそもの初めから話してくれ」
 一々筋道立ててキールが聞き出した顛末は、キールをむっつりと黙り込ませるのに十分な内容だった。
 まず、宮廷内で不穏な動きがあるので、危険因子を炙り出したい。と元総務長官に相談を持ちかけられ。立ち聞きされやすい物陰で帳簿改竄の協力を持ちかけられている、という芝居を打った。
 元総務長官としては、自分とは別系統の細作が入り込んでいることを知り、そのルートとの接触を目論んだのだが。この時点でのアイシュはそんな事は知らずに、不穏分子の捜索に協力したのだった。
 しかし間の悪い事に、初っ端はメイに乱入されて台無しになり、憤る彼女に適当な言い訳をして兄は誤魔化した。
 日を改めて、再び芝居を打ったところ。今度は上手く目的の人物を動かせたものの、同時にシルフィスと(よりによって)姫に聞かれた。
 まるで喜劇芝居のような成り行きながら、やはりアイシュがその場を誤魔化し、元総務長官は細作からの接触を待つ事にしたらしい。
「あいつら、何か事件があったら、首突っ込まないと気が済まないのか?」
 キールは思わず米神を擦った。
「まあ〜心配してくれたんですよ〜」
 のん気な兄に頬を引きつらせつつ先を促せば、話はいよいよ不穏になってくる。
 数日して、元総務長官に接触があり、実はそれが刺客だったのだと。
 白鴉。凄腕の女間者。
 銀髪の女という以外誰なのかも判らず、その素顔を見た者は生きていないという。
 その女が、元総務長官を殺しにやってきた。
 事の成行が気になってこっそり様子を見に来たアイシュは、咄嗟に火を放つ事で人を集め刺客の足を止めた。
 そのまま消火の為に、近衛なり衛兵なりが飛び込んで来てくれるのを期待していた彼だったが、飛び込んできたのは何の因果か例の三人。シルフィス、メイ、姫の順番だったらしい。
「……ったく。何やってんだあいつらは」
 思わずこぼしつつも、とにかく顛末を聞くのを優先させた。
 重症を追ったが元総務長官は何とか助けられた。
 しかし騒ぎのただ中、メイが白鴉に難癖を付け、姫がその素性から殺されかけたらしい。そして逃げた白鴉をシルフィスが追って行った。
「あのバカ」
 ひくりと片頬が引きつる。
「大丈夫です〜神殿の辺りで捲かれたそうですから〜」
 アイシュの答えにほっと息がもれ、慌てて顎を引き上げる。
「なんの事だか。それより、白鴉はメイが追っ払ったのか?」
「いいえ〜咄嗟過ぎて間に合わないようでしたので〜僕が〜あわわわ……」
 隠し事の漏洩に慌てる兄へ、弟はフンと鼻を鳴らした。
「兄貴が魔法を使える事ぐらい、とっくに知ってる」
 拍子抜けしたような顔へ、毎度お馴染みのうんざりした溜息を吐いてみせる。
「あのな。身内が魔法を使えるか使えないか見分けられなくて、緋色なんて拝命できると思うのか? 隠しているのも知ってるよ。変な気回しやがって。」
 そこまで言って思い出す。『魔法は俺の領分だ。兄貴は入ってくるな!』昔、兄に向かって言い放ったのは自分だったと。
 本当に子供な、恥ずかしい意地の張り方。
 兄は自分を傷つけまいと、隠していた。
 思いやりなのだろう。が、どれだけ僻みっぽいと思われているのかと、情けない。
「俺の兄貴が魔法の一つくらい使えなくてどうするんだよ。その方が恥ずかしいぞ。第一、兄貴の役職で使えなかったら危ないんじゃないか?」
 機密すら扱う高位の文官には、身の危険が及ぶ場合もある。護身術は持つほうがいい。
「はい〜僕も、必要に迫られて基本だけ〜〜」
 基本で腕利きの暗殺者を追い払われてはこっちの立つ瀬が無いが、意外な攻撃に虚を突かれたのだと解釈しておこう。
「粗方判った。その事件に関わった事で、おじさんの正体を知ったんだな?」
 キールのまとめに兄は頷いた。
「はい〜〜療養所で打ち明けてくれました〜〜」
「じゃあ次は、跡を継ぐ件だ」
 あは。と兄は笑った。何か誤魔化す時の笑い方だったから、弟は詰問の視線はそのままに睨み据える。
 やがてアイシュが諦めたように息を吐く。
「姫と、メイに振られまして〜〜」
「は?」
 妙な言葉にキールがぴたりと固まった。
「……なんなんだか」
 次に深い溜め息が吐き出される。
 兄は困った振りで頭を掻いて見せていた。
「兄貴。何考えたんだ?」
 怒鳴るには呆れ過ぎて、脱力感に肩を落とす。
 そんな弟に、兄は困った顔のままで再び街の景観へと視線を戻した。
「逃げてしまえって、考えたんです〜……」
 静かな声音に、キールははっとした。
「ダリスは姫をよこせとごり押しを通す気です〜メイもシルフィスも〜ダリスへの偵察をすると決まってしまいました〜〜外交政策は何もかもうまくいかず、ダリスは交渉のテーブルにすら着こうとせずに、既にこちらを属国化したかのような横柄な態度です〜〜正直。疲れちゃいましてね〜」
 へらっと何時もの笑みを浮かべて見せても、隠しきれない苦味が垣間見えて、キールは更に眉根を寄せる。
「らしくない」
 小柄な体に見合わない兄の大きな度量を知っている。日常と同じく精神面でも、壁にぶつかり何度転ぼうと何事も無く立ち上がり歩く、強靭な心を知っている。
 自分に無いそれらが、どれだけ羨ましいか。
「兄貴はそんなに弱くないだろうが」
 ぶっきらぼうな弟からの信頼に、兄は笑みを深めた。
「買いかぶりですよ〜〜実際、逃亡計画はほぼできていたんですから〜〜」
 柔らかい笑みが苦笑に変わる。
「おじさんの話を聞いたら〜なにもかも嫌になってしまって〜昨日、辞表を出したんです〜」
 皇太子は当然止めてくれたらしい。ボヤの責任は元総務長官が全責任を負っているのだから、アイシュには関係ないと。片腕として、この苦境を乗り切る手伝いをしてほしいとまで言ってくれたそうだ。
 シオンからは、脅しがくるかと思いきや、守れなかった詫びを言われて驚いたと笑う。
「僕が、何をしようとしているのか知っていたら〜殿下もシオン様も、あんなに言ってくれなかったでしょうね〜」
 残務整理に夜までかかり、アイシュはその足で第二王女の部屋を訪った。一緒に田舎へ行こうと誘う為に。
「兄貴。王女誘拐は反逆罪だぞ」
 ため息混じりに突っ込みを入れた。なんと大胆な計画を立てていることか。
「セリアン領は、クラインの南の端っこです〜お隣のポーリセンとの端境ですからね〜」
 言外の不穏さに溜め息が深くなる。
「国境線維持を盾にして立てこもる気かよ……」
 あははと乾いた笑いが風に吹き散らされた。
「ダリスに単身で偵察に行ったり〜王様の処へ行くよりも〜戦争が終わるまででも、家に隠れていたら〜良いんじゃないかと、思ったんです〜」
 疲れていたと兄は言った。確かにそうなんだろう。普段の彼にしては、余りにも刹那的な発想だ。
「下手をしたら、兄貴は暗殺されて俺にお鉢が回って来かねないだろうが」
 山と森と村が二つ。クラインのどこの場所と同じく、お天気と作物と牛の乳の出が良いだけなのが取り柄の、懐かしい故郷。
「今考えると、帰った途端に、母さんに叩き出されそうですよね〜」
「当たり前だ。自分で解決してこいって、お袋なら言うさ」
 豪快な母の性格を思い出して、キールは思わず笑った。
「母さんに怒られる前に〜姫とメイに叱られましたよ〜」
 苦笑のまま、今度は兄が溜め息を吐く。
「姫の次にメイのところにも行ったんですけど〜自分は逃げないって、ちっぽけな自分に何ができるか判らないけれど、クラインの為なんて大きな事言えないけれど、大切なみんなの為に、自分ができる精一杯がしたい。って言ってました〜二人とも〜シルフィスだけじゃなく、二人もそんな覚悟をしていたなんて〜驚きました〜」
 少女達の考えは、正直キールにも意外だった。彼女達こそ刹那的で享楽的な言動ばかりで、少しは先を考えろと、自分はどれだけ口を酸っぱくして注意した事か。
 いつの間に、しっかりした決意を持つほどに成長したのだろうか。
 大人への階段を、こんなきな臭い理由で登って欲しくは無かったけれど。
 戦いを見据えた騎士見習いの覚悟も、一途過ぎて胸に痛い。
 戦争の影が与える余波に、キールは眉を寄せた。
 同時に胸の底にざわめきを感じる。それが何なのか掴みかけた時、アイシュの声がした。
「僕、恥ずかしくなりましてね〜」
 兄の言葉に、胸のざわめきか強くなる。
「彼女達が頑張ろうとしているのに、僕は逃げ出しますなんて言えませんよね〜だから、もう一度、おじさんに会いに行ったんです〜真夜中でしたけど、こっそりと〜」
 そこには、シオンのみを伴った皇太子が訪れていて、間者の後釜について話し合っていたらしい。
 アイシュは物陰から、その話を聴いた。
 後から考えて、これはシオンの誘いだろうと見当が付く。いくらこっそりといっても、穏行の心得もない普通の人間が、シオンの張っていただろう結界を抜けて立ち聞きなどできる筈が無いのだから。
「あの人らしいな」
 わざと聞かせて反応を見る。正面からでは抜き差しならない追い詰め方になるから、そうやって逃げ道を用意して、相手の本音を引き出す。
 術中に嵌めながら、自分の意思だと思わせるその手法は、姑息とも優しいとも思える。
「僕も〜何かしたくなりましてね〜」
 兄は解った上で乗る気なのだろう。
「間者なんて、棄て駒にされかないんだぞ?」
 わざとそう言ってやる。アイシュはしっかり頷いた。
「それでも、僕はしてみようと思います〜これから、シオン様に会いに行きます〜」
 もう見えないカミヒコウキを見つめるように、アイシュは真っ直ぐ前を見ている。最初の曖昧な笑みは消え、むしろ強い決意の瞳だった。
 そういえば、兄は一言も相談とは言っていないのを思い出す。
「俺と父さんに、決めた事を話しに来たのか」
 キールの呟きに、アイシュは苦笑しながら頷いた。
「俺が反対したって、止める気は無いんだろ?」
 同じように街の屋根を見ながら言えば、アイシュは肩を竦める。
「キールが判ってくれるのは、知ってますから〜」
 乾いた笑いが、今度はキールの喉からこぼれ出た。嘘をつけ、と思う。あの曖昧な笑みは、自分へ打ち明ける事を怖がっていた現われだ。突きつけはしないが、代わりにこうしよう。
「じゃあ、俺がこう言うのも知ってるだろう? 手伝うよ」
 兄の目が、驚きで丸くなる様が小気味良い。
 キールはいつもの様に腕を組み、屋根から空へ視線を上げる。
「クライン最高位の緋色の魔導士。ダリスに売り込むなら極上の餌だぜ」
 兄が弱く首を振るのが見えた。
「あのな。あの狸コンビが、俺も込みで計算立ててるのなんか判りきってるだろうが」
 兄の困惑を鼻で笑う。
「でも〜研究はどうするんですか〜」
 オロオロする様にキールは肩を竦めた。
「国がなくなったら研究どころじゃ無いだろ?」
「でも、あんなに頑張ってきたのに」
 フルフルと首を振る様が可愛い気もする。
「もちろん研究は続けるさ。ダリスはクラインより魔法に造詣が深いんだ。いい資料が手に入れれるかもな」
 困惑したまま、諦めたため息をつく兄へ、不敵にニヤリと笑ってみせて、キールは再び空へ顔を向けた。
 胸のざわつきはもう消えて、青い空に遠い日に見た父の笑みが見えた気がした。
 きっと、そうなんだろう。
「兄貴が忘れてる言葉があるから、父さんが拾ってくれたんだよ」
 不思議そうに見つめてくる兄へ、キールはゆっくり視線を戻した。
「俺達のクラインを、守ろう」
 双子の髪を風がふわりと撫でる。
 アイシュが、頷きながら浮かべた溶けるような笑みは、空に浮かんだ父の面影によく似ていた。




そらたさんの「挿絵化計画」に寄贈させていただいた作品。
死の運び手にへの前哨戦です。