大江戸川開き


「花火大会?」
「はい、今日、ガゼルが誘いに来たんです。今、両国で花火大会をやっているから、皆で行かないか?って」
 夜の縁側で、お守りを握り締めて、シルフィスはほんわりと微笑んだ。
「ああ、両国の川開きか……確か、5月の28日から、7月の28日まで毎晩のように打ち上げがあるんだ。そっちは今、六月だったな」
 P-SSTの中で、目の前で浮かぶスクリーンのシルフィスを見ながら、キールは江戸の知識を引っ張り出した。
 調べれは調べるほど、江戸の生活というのは、お気楽極楽を絵に書いたような部分がある。季節ごとに催しがあり、町の住民は、遊ぶ事は逃さない。それ程生活が楽ではないだろうに、みな暢気で豊かな精神世界を持っている。不思議な町だ。
「行ってくるのか?だったら、シオン様かレオニス殿に屋形船を出してもらえ。そうすれば、人ごみが酷くても気にならない」
 シルフィスは結構道に迷いやすい。ガゼルと歩いていても良く逸れるのだ。
 両国の花火見物の人出は尋常なものではない。逸れても、自分は見失いはしないが、酔漢に絡まれる危険を見越せば、船でのんびりしてくれた方が安心だ。
「はい。あの……キール……」
 遠慮がちに寄越された声に、なにか必死な雰囲気があって、キールは首を傾げた。
「どうした?」
「あの……キールは、行かないんですか?」
「俺は無理だ。俺のバーチャキャラに言えよ。あいつなら動ける」
「……断られました。人ごみは嫌いだからと」
 まあ、あれも自分のコピーである、そう答えるのは当然だろう。
「じゃあそういうことだ。お前達のことはモニターしている。同行しているのと変わらん。気にせずいって来い」
 そっけない言葉に、シルフィスはお守りを少しだけ睨みつけた。
 そういう意味でいったわけじゃない。
 常に一人、ベットの上でこちらの監視モニターに徹する彼に、少しでも気晴らしをして欲しかったのだ。
 しかし、そんな気持ちを口にできるわけではなく、シルフィスは気落ちしたまま頷いた。
「判りました……」

 
 通信が終り、シルフィスのモニター画面が通常の状態になる。書生として寝泊りしている小石川養生所の全景が映し出され、もう着替えて眠る日常の生活に入ったのだと判る。
 キールはモニターから目を離し、大きくため息をついた。
「何が言いたかったんだ?」
 一瞬睨まれたかと思ったら、あの翡翠の瞳に、偉く落胆した色が浮かんだ。
 妙に、心の中を掻き立てる、寂しげな光……
「何だってんだ……?」
 妙に落ち着かない。最後のシルフィスの表情が、目に焼きついている。
 キールには、その理由が判らなかった。
―――『屋形から、人と思はぬ橋の上』ってな―――
 不意に頭の中で、自分以外の声がはじける。
「!?シオン様?」
―――ど〜したキール。落ち込んでるじゃね〜か?―――
 面白がるような声音に、相手が今のやり取りを出歯亀していたと判る。わかった上でからかっているのだ。
「何の用ですか?報告して下さるって言うんなら、有難く受け付けますがね」
 生真面目なシルフィスと、輪をかけて職務に忠実なレオニスを除けば、毎晩の報告業務なんて、ただの一度もあった験しは無い。メイに到っては緊急事態意外、連絡を取る必要無しと決めてかかっている始末だ。
 面倒だから訂正する気にもならないが。
 勿論、キールもアイシュもそんな事は端から予定に入っているから、二人の報告と自分達のバーチャキャラからの報告で後はモニター観測で良しとなっている。
 第一、報告なら通信機を使わなければ記録に残らないのだから、テレパシーでは意味が無いのだ。
―――『まだ玉屋だとぬかすはと、鍵屋いい』ってのもあるな―――
「だから何なんですか?それは」
―――知らねぇのか?川柳だよ―――
 既に一年以上江戸で暮らしているシオンは、最近とみに江戸っ子を気取る。捜索隊がホロホール入りして、記憶混乱が発見された当初から、奇妙な事に、そもそもの情報源であったメイも知らないような、豊富な江戸知識が、バグの中から生まれ、町中に広がっている。シオンはそれを面白がって吸収しているようだ。キールにして見ても、次々に出てくる歴史書や学術書に、興味が無いわけではない。
 バーチャキャラに読ませたり、シルフィスが読んでくれるのを聞いたり……
 そこで再び、最後のシルフィスの顔を思い出す。
―――『沖の鰒の片思い』ってか―――
 せせら笑うような言い方にカチンとくる。
「さっきから、何が言いたいんですか?俺は江戸っ子じゃありませんのでね。野暮でも何でも、ちゃんと話してもらわないと判りません」
―――へいへい。貴要先生は気難しいねぇ。両国の花火見物ってのは、すげ〜人出だ。なにせ普通でも日に三千両落ちるって位の繁華街だ。其処に二ヶ月にわたる大イベントが開催されてるってんだから、どんなものかは判るよな?―――
「ええ、それもモニター済みですよ」
 捜索隊とは関係の無いモニターが、キールの意思を受けて花火見物の混雑を映し出す。
 両国橋に鈴なりになった人々が、花火に喚声を上げていた。
 橋の下、川面にはびっしりと、大小さまざまな船が浮かび、迂闊に櫓もこげぬ有様である。
―――でな、嬢ちゃんが言うには、その橋、落ちた事あるんだそうだ―――
「え?」
―――何時の時代かは覚えてないそうだが、このホロホールの中は時代ってのがそもそもね〜からな、今日落ちるか明日落ちるか、この先ず〜〜っと落ちないか。それはわからねぇ。だが、例の蛇腕の男の件もあるからな。俺達をターゲットに、何らかのバグが動いているのかも知れねぇ。となると、うっかり橋には行けないし、船なんか論外だ、橋の下なんかに押し込まれて、其処に落ちてきたら目も当てられねぇからな―――
 確かに、シオンとレオニスを襲った謎の男は、未だに原因は判っていない。例の死体は、アイシュによって分析されたが、ただのバーチャキャラでしかなく、腕が変わるプログラムも発見されなかった。
「それでも花火に行くんですか!?」
―――まあな。嬢ちゃんもシルフィスもガゼルも張り切ってやがるからな。『堪忍信濃の善光寺』って奴だ―――
 シオンの意図は見え見えである。P-SSTの中でなら、彼は『奥の手』が使えるのだ。それでここまで来いと言っている。
 誰の為に、という訳じゃないだろう。そういう事をして、後で存分にからかいのネタにするつもりなのだ。
「それで、俺にも行け、と言いたいんですね。『その手は桑名の焼き蛤』ですよ、俺はここを動けません。モニターは怠りませんから、十分気をつけてください」
―――あ〜らら、ツレねぇの。しかしな〜土手で花火見物だったら、シルフィス、絶対迷子になるだろうな。姫さんの次に迷子になりやすい奴だからな―――
「好い加減にしてください。シェードしますよ!」
―――へ〜へ〜。ま、そ〜いうこったから。よろしく―――
「……くそ……」
 消えたシオンの思念波の余韻が忌々しく、キールは苦く毒づいた。


「キールも融通利かないからね〜〜」
 粟餅をぱくつきながら、メイがしみじみと保護者を評する。シオンとキールの会話は、メイには筒抜けだった。
 実の所、二人のこの特技?は、誰にも教えていないから、キールも知らない。
 まあ、メイとシオンの仲なら、何でも喋っているのでは?と皆が思い込んでくれているから、別に説明の必要も無かったのだが。
 ずすっと甘酒を啜り、シルフィスは、ふぅ……とため息をついた。
「キールは、ずっとP-SSTの中にいて、これから先も、ずっとただこの世界を眺めているだけなんて……絶対無理しているに違いないんです。それで、シオン様から、キールがこっちに来れる方法もあるんだって聞いたので……そりゃあ、モニター任務があるから、そう頻繁に来る事なんて出来ないでしょうけど、偶の息抜きが出来たならって……」
 そう言いたかった。しかし、彼が仕事を放り出すなんて、やはり思えなかったし、遠まわしに言って、ああいう反応だったから、それが本当の気持ちを言って同じ答えだったら、多分かなり自分には堪える。今だって十分堪えてるのだから。
 自分は、今は捜索隊のメンバーで、彼のモニター対象で、現実に戻れば、やはりアカデミーのラボで研究対象となっているだけで、別に特別な間柄でも、何でも無い訳だから、こんな心配を自分がするのは、キールにとっては迷惑かも知れない。それでも、孤独な任務に耐える彼の心が、少しでも癒されるのなら、自分も嬉しいと思う。しかし……
 じっと甘酒を睨みつけて、なにやら考え込んでいるシルフィスを見て、メイは親友が例によって思考の堂々巡りに嵌りこんでいるんだろうと推測した。
 例えテレパスじゃなくても(メイはシオン以外の誰の思考も読めないし、誰にも自分の思考を読まれない特異点だ)、シルフィスの今考えてる事なんて、手に取るように判ってしまう。
 ついでに、あの保護者の科学者が、このアンヘルの若者を、どう思っているかも、傍から見ていれば丸解かりなのだ。
――解かりやすいくせに、難儀なのよね〜。二人とも不器用で――
 あの夜、キールとのテレパシー会話を終えた後、シオンはげらげら笑いながら、一連の計画をメイの頭に流し込んできた。
――やっぱ、あたしらが、一肌脱ぐべきよね〜〜友達として♪――
 実の所、根っから江戸っ子なのは、やはりメイであった。

―――キール!悪ぃ!シルフィスを見失った!そっちでモニターできているか!?―――
 いきなりシオンの声がはじける。
 モニターの中、混雑する人ごみに、鮮やかな金髪を捉えて、キールは頷いた。
「出来てますよ。今両国橋の袂です。どうも人の波に流されているようですね」
 勤めて冷静に、シルフィスの現状を報告する。
『ごめん!あたし反対の方に流されてるみたい!』
 メイの通信機がけたたましく叫ぶ。
「そのようだな」
 何時もの緋鹿の子の結い綿を認め、同時に展開した両国橋の立体地図にそれぞれの位置表示が点滅する。
 橋袂にシルフィス。かなり離れてメイ。シオン。ガゼル。そしてアイシュのバーチャキャラ。上客が来ていたイーリスと、市中見回り中のレオニスは今夜の花火見物には参加していない。
「兄貴、バグの状態は?」
 バーチャキャラではなく、コンピュータルームの実物へ連絡を入れる。
『両国方面には何も出ていません〜でも〜どうしましょう〜シルフィスが逸れてしまいました〜』
「解かってるよこっちで居場所は掌握している。何も心配は無い」
『あ〜それなら安心ですね〜バグは僕が監視していますから〜。あ、シオン様とメイも〜なんとかシルフィスの方へ行こうとしています〜』
「ああ、見えてる。だが、この人ごみじゃ難しいだろうな」
 モニターには、頭一つ高いシオンが、メイの風避けよろしく、人並みを掻き分けて進もうとしている様が映されていたが、びっしりと埋め尽くされた土手の上では、まるで進んでいかない。
「埒があかないな……」
 軽く舌打ちする耳に、柔らかな声が届く。
『キール。私は心配ありません。皆にそう伝えてください』
「シルフィス?」
『ただ人に流されているだけですし、もし合流できなくても、小石川まで、歩いて帰れますから』
 それは確かにそうだろう。シルフィスは確かに逸れやすく迷子になりやすくはあるが、あの皇女のように、ぼんやりと気の向くままうろつくからではない。主星出身のカゼルと歩いていても、ふと転びそうになった幼児を助けたり、荷物のもてない老人を介助したり、道をきかれて一緒に困ったりと、キールに言わせれば、放って置けば良いだろうといいたくなるような理由で引っ掛ってしまう所為だし、道に迷うのは、生真面目に自分の生活圏内からあまり出歩かないので、道を知らないだけだ。
 この江戸の町では、皇女捜索の任務もあり、結構あちこちと歩き回っているから、多少は地理に明るい。
歩いて帰るのは確かにできるだろう。
 問題は、勿論そんな事じゃない。


 芋を洗う、という形容詞がぴったりくる混雑の中で、シルフィスの金髪が見え隠れしている。
『キールさんよ!シルフィス大丈夫か?絡まれてねーか?』
 カゼルがメイの通信機から叫んでくる。
 自分を江戸っ子だと信じ込んでいる少年は、胸に下げたお守りが、通信機とは思っていなかった。
「まだ、何も無い」
 そう、今は江戸っ子になりきっているガゼルが、以前シルフィスを評して≪絡まれやすさbP≫などとふざけた言い方をしてくれたが、その評価通り、この江戸でも、シルフィスはよく絡まれる。
 普段は動きやすい書生の袴姿で、酔漢等に難癖をつけられても、体術や機転で体よくあしらうのだが、今夜は如何せんメイが無理矢理着せた浴衣姿である。これでは足を掛けて転がす事も出来はしない。いや、むしろ裾に絡まって転ぶ可能性の方が大きい。
―――キール、ちっとやべぇぞ―――
 シオンの思念派に、はっとシルフィスのモニターを見る。
「!」
 シルフィスのほっそりした腕を、たっぷり二人分の幅を取るでかい男が、ニヤニヤと掴んでいる。
 慌てて通信機の拾音装置の感度を上げる。
『離して下さい』
『いいじゃね〜かよ〜。ちょっと付き合うだけだって』
 下卑た男の声が聞こえる。他にも数人が、何時の間にかシルフィスを取り囲んでいた。
『あっちの船宿で、酒の相手してくれるだけで良いんだよ』
『そうそう、美人のお酌なら、寿命が延びるってもんだ』
 口々に勝手な事を言い、シルフィスを引っ張って行こうとする。
『止めてください。貴方達の相手などする気はありません。第一私は女ではありませんから』
 凛とした抗議の声に、汚い口笛が被る。
『女じゃねぇ?その格好でか?』
『さては陰間か?ンじゃあ商売しろよ』
『別嬪だったら、おいらはどっちでもかまわねぇぜ』
 げらげらと笑う声に、キールはギリッと歯を鳴らした。腹の底から怒りが込み上げてくる。
 男が掴む白い腕を睨みつけ、触るな!と思わず叫びそうになる。キールの声を代弁するかのように、その腕がひらりと返された。
『いてぇ!』
 軍仕込みの体術で、わずかな力を相手に乗せて巨漢の関節を取ったシルフィスが、背中に捻り上げた相手の腕を更にねじる。
『やめて下さいと言った筈です。これ以上、私を怒らせないで下さい』
 言い方は丁寧だが、シルフィスがかなり怒っているのは、紋切り型になってきた口調で解かる。
『このまま大人しく帰ってください。貴方がたとはもうお話する気はありません』
 鈴を張ったような翡翠の瞳が、酔漢達をきっと睨む。凛々しい姿に、やんやの声援が飛ばされる。何時の間にかシルフィスと男達のいる場所がぽっかりと開き、にわかに起こった喧嘩騒ぎに、花火見物から急遽宗旨変えをした見物客が、美人の立ち回りを興味津々で見守っていた。
 まったく、江戸の連中は、こと騒動となると、決して見逃そうとはしない。
 大男の腕を取っているシルフィスの背後に、酔漢の仲間の一人が回りこみ、羽交い絞めにしようと襲い掛かったが、敏感に察知したアンヘルは、そのままするりと腕を逃れた。キールは相手が触ろうとした瞬間、何か見えない壁の上を手が滑っているように思った。多分これは……
―――シルフィスに思考弾衝帯を掛けた!だがこれ以上は無理だ、あいつが化け物扱いされる―――
 案の定、シオンの思念波バリアーが薄く掛けられているらしい。確かに、このバリアーを大きくしたら、無知な江戸の人々には、シルフィスがまるで化け物に見えるだろう。シオンがテレポートでシルフィスの側にいけないのもそういう理由だし、『引き寄せ』もしないのも、メイが加勢できないのも同じ理由だ。
 今後の長い江戸での活動を考えれば、悪目立ちするべきではない。
 だが、シオンならば、さもシルフィスが酔漢達を相手に立ち回りをしているように見せかけて、テレキネシスで叩きのめしてやるのなんて、簡単なはずなのだ。しかし、それをしようとはしない。
 理由なんて、百も承知だ。
「くそっ……」
 キールの背後にモニターが開く。
 見慣れた小石川養生所から、一人の青年が走り出した。キールのバーチャキャラである。
 夜道を直走る青年を見もしないで、キールは襟元を寛げた。
「Emergency Program。Level1解除……」
 半無重力の水槽の中のような空間で、キールはなるべく体の力を抜き、ゆったりと身体を伸ばした。
「生きるもの……死ぬもの……続くもの……終わるもの」
 更に襲い掛かる男を、盾にした巨漢で避けるシルフィスを横目に見ながら、キールはゆっくりとWORDを開放していく。
 同時に、P-SSTの内壁から、数本のケーブルが延びてくる。
「……全てを……の王よ……荒れし御霊を……たまえ……」
 キールの背後に映し出される走る青年医師は、街燈もない道を、どうやら両国に向っているようだ。
 半眼になり、じっと立ち回りを続けるシルフィスを見詰めながらWORDを開放していくキールの周りに、近寄ってきたケーブルの先端から更に伸ばされた、無数の糸のようなファイバーケーブルが、群がる羽虫のように彼を覆い尽くしていった。
「……女神よ……手をもて……」
 npのファイバーは、毛穴よりも細く、皮膚の間に入り込む。痛みは感じないが。皮膚が浮き上がるような、ぴりぴりとしたむず痒さを感じる。無数のファイバーはここから各細胞や血管を通り、脳髄へと接続される、いわば有線のナノマシンなのだ。
 これによってキールは、コンピーターと直に接続されることになる。
 そして今、キールが開放しているWORDこそ、彼の最大の能力、コンピューターネットワークの中を自在にアストラル体で駆け巡る≪召喚≫
「供物は、わが心と血肉を以って、購わん!」
 ナノファイバーの蜘蛛の巣に己が身体を捕らえさせ、彼は夢幻の海に精神(こころ)を放つ。
 おせっかいな上司の策略を承知の上で。


 青年医師は、星明りの中を直走る。
 キールがモニターから見ていた光景は、光学的な処理をされていたからまるで浮き上がるように物が見えていたが、新月の道は星明りだけを頼りに、闇に沈み込んでいた。
 その中を走る彼は、多分擦れ違う者が居たとしたら、ギョッとしたかもしれない。
 ほとんど全力疾走に近いほどの勢いで、真っ直ぐ走る青年医師の表情は、恐ろしいほど無表情だった。緊張して表情が消えているのとは違う。それは酷く無機質な印象を与える静かな顔で、およそ力の限り走っている者の表情ではなかった。
 いや、それどころか、生きている人間の顔ですらない。
 芹庵貴要は、普段はキールの人格を模して組まれた擬似人格で行動していた。アイシュのバーチャキャラのように、本体からのコントロールなどは特に受ける事無く、医師としての職務や自分の研究に没頭する、まあ本体と大して変わり無い生活を送っている。しかし、今の彼はその擬似人格が完全に消去され、ただコントロールの指示に従って、闇夜を駆けている。
 不意にその足が止まり、まるで呼ばれでもしたように、つい、と人形に戻った顔を星空に向ける。
 ぼんやりと立つその体が、一瞬何かに叩かれたようにびくんと震えた。
「―――っ……」
 眉根がぎゅっと寄せられて、衝撃に耐えるように全身が緊張する。
 ついで大きくため息が漏れた時は、その顔に生気が戻っていた。
「……ったく……」
 忌々しげに吐き捨て、彼は再び進み始めた。
 今度は走らない。むしろ何かを探るように前を見据え、意識を集中しているようだ。
「……よし」
 小さく頷くと、両手を前に差し伸べる。
 何かを掻き分けるような仕草をしながら。青年医師は闇に融けるようにその姿を消した。


 白い手がひらりと翻り、酒気と怒気で真っ赤になった男の首へ手刀が繰り出される。男はそれだけで、へなへなとその場にへたり込んだ。 
 観衆がやんやの快哉を送る。
「いやあ、見事なもんだ。ありゃあお武家の娘かねぇ?」
 メイの横で伸び上がるようにして眺めていた老人が、感心したようにしきりに頷く。メイやシオンが立つこの土手は、立ち回りの舞台となっている両国橋より、ほんの少し小高くなっていて、離れていながらシルフィスの鮮やかな攻防がよく見えた。
 巨漢を盾に取ったまま、着慣れぬ浴衣の袖を翻し、飛び掛る男を紙一重で躱してみせ、再び観衆が喜ぶ。シルフィスに絡んだのは、どうやら地廻りのチンピラらしく、かなりしつこい。
 メイはシオンの背中を見た。
 提案したのはこの男。乗ったのは自分。そして仲間を巻き込んだ。
 筋書きなんて簡単だ。
 シオンがキールを煽っていたから、花火見物でシルフィスを迷子にする。酔っ払いにでも絡まれれば、過保護で心配性なあの青年は、きっと奥の手を使ってでも“ここ”に来る。そうすれば、あの控えめで心優しい親友は、嬉しいと思ってくれるだろう。
 メイはウキウキと計画を練り、花火の人出は、別に業としなくても、シルフィスを逸れさせ、そして美貌のアンヘルを、地廻りのチンピラは放って置かなかった。
 ここまでは計画通りだ。図に当って怖いくらい。
 シルフィスはレオニスの下で、しっかりした戦闘訓練を受けている士官候補生である。その実力は、同期の中でも生え抜きで、双璧をなすガゼルを常に奮起させる起爆剤でもある。その出身の特異性を除外しても、仲間内で一目置かれる存在となりつつあった。
 だから、チンピラ程度は何てことないし、何時もなら、簡単に伸してしまうのだが、今絡んでいるこの連中、妙に打たれ強いのだ。
 手刀が急所に決まって倒れても、少ししたら起き上がってくる。いくらぶちのめされても、シルフィスを諦めそうにはない。
 後ろでアイシュが首を傾げた。
「おかしいですねぇ〜彼らのHP(HitPoint)なら、もうとっくにゲージ0の筈なんですが〜」
 格ゲーか?と思いつつも、シルフィスが疲れてきているのが目に見えて、息が上がりはじめた様子に、不安になった。
 自分のおせっかいの所為で、親友がいらぬ怪我でもしたら、全ては台無しである。
 いざとなったら、ここからファイアーボールでもぶちかましてやろうと、そっと身構えた時、シオンがゆっくりと振り返った。
「心配しなさんなって」
 何時もの笑みが、メイの緊張をほぐす。
「本当?」
 この男は、自分の気持ちが聞こえているのだろうか?彼の心を自分が聞き続けるように。絶妙のタイミングで、欲しい言葉を寄越す。
 高い位置にある端正な顔が、皮肉な笑みに優しさを滲ませて頷いてくる。
「ああ、見てなよ」
 あごをしゃくる男に従って、親友へ目を戻すと、心配通り、多少心許無くなった足元が、慣れぬ裾に囚われてよろけた瞬間だった。
「シルフィス!?」
 メイの叫びと、観衆のどよめきが重なる。
 よろけた拍子に緩んだ手から、やっと逃れた巨漢が、得たりと太い腕を伸ばし、シルフィスを捉えようと好機を逃さず襲い掛かる。
 しかし、その手は、佳人を捕まえることは出来なかった。
「何だ、てめぇ?」
 むんずと途中で手首を掴まえた闖入者にすごむと、巨漢を見上げる緑の瞳にぶつかった。
「好い加減にしろ……」
 人ごみを掻き分けて表れた青年は、静かに呟くと、掴んだ手首を無造作に捻り、もう片方の手が、トン、と肩を叩くように押す。
「痛てぇ!」
 途端に、巨漢が悲鳴をあげて地に転がった。
「名倉(骨接ぎ)じゃないが、小石川に来れば、肩ぐらい入れ直してやるぞ」
 つまらなそうに言い放つ言葉通り、巨漢の腕はだらりと垂れ下がり、肩を外されたらしいと判る。
 いきなり乱入してきた青年の、鮮やかな反撃に、やんやの喝采が沸き起こった。
「熊公!」
「熊兄ぃ!」
「大丈夫か!?」
「おい」
 仲間達が他愛もなく肩を押えてひぃひぃと泣き喚く巨漢の周りに集まり、獲物を庇うように立つ青年を睨みつけた。
「なんだテメェは」
「やりやがったな!」
「このままですむと思ってんのか!?」
「このトーシロー!」
 口々に浴びせ掛ける怒声に、青年はつくづく嫌そうに呟いた。
「莫迦揃いだな……」
 緑の瞳に浮かぶ、凍りつくような光に、男達は一瞬怯んだものの、青年の言葉に過剰反応を返してきた。
「ンだと、でめぇ!」
「舐めてるのか!?」
「どこの盆暗だ!?名乗りやがれ!」
 ボキャブラリーの貧困さに、ほとほと呆れながら、青年は相変わらず面倒くさそうに口を開いた。
「俺か?芹庵貴要。小石川の医者だ」
 静かな名乗りは、決して大きな声ではないのに、観衆のざわめきの中に妙によく通る。
 訝しげに青年の背を見詰めていたシルフィスが、はっとしたように視線に力を篭めた。
「貴要先生?……!……プロフェッサー?」
 小さな呟きに、ほんの束の間、青年が振り返った。
 よく似た色の視線が絡み合う。
 何も言わずに青年医師は、再びチンピラに向き直った。振り向いた隙をついて男の一人が踊りかかってきたからである。
 だが、掴みかかった手は、薄くかけられた思考弾衝帯に弾かれて滑り、その腕をキールが捕らえて捻り上げ、肩をとん、と押す。
 接触テレキネシスを瞬時に叩き込めば、関節は簡単に外れ、脱臼させられた男が、肩を押えて転げまわる。
「痛てぇ!痛てぇよぉ!」
 男の仲間が、更に色めきたった。
「やりゃあがったな!」
「ぶっ殺してやる!」
 多少及び腰になりながらも、虚勢を張って怒鳴る男達に、青年医師は氷点下の視線を向ける。
「まだ足りないか?医者に怪我人作らせたいなら、好きなだけかかって来い」
 凄みのある低い声に、男達はやっと、青年の静かすぎる投げやりな態度は、実は凄まじいほどの怒りが、冷気をまとって揺らめいているからだと判ってきた。
 いきなり噴出してきた冷や汗に、五体満足な残った連中がそわそわと目配せを始める。
「うせろ」
 青年の声に、すっかり酔いも覚めたチンピラは、呻く仲間を抱えてこそこそと橋袂から逃げ出した。
「いよっ!千両役者!」
 誰かが調子の好い掛け声を上げる。
 同時に大きな花火が上がり、轟音と喚声が一気に沸き返った。

 パリパリと、まるで笑い声のように、花火がはじける。
 橋からも土手からも離れた稲荷神社の境内で、キールとシルフィスは少し遠い空に、次々と上がる空の花を眺めていた。
 チンピラを撃退した後、佳人を守った青年医師の男気を、観衆は能天気に誉めまくった。それがどうにも居たたまれず、キールは人垣の向こうでにやにやと見物しているシオンを睨みつけつつ、真っ赤になって足早に『色男』だの『道行か?』だのと冷やかす観衆を掻き分けて、シルフィスを連れて逃げ出してきたのだ。
 事態を飲み込みきれずに、ぼうっとしたシルフィスが、無造作に掴まれた手を幸せそうに見ながらついて来るのにも気がつかずに……
 そしてどうにか衆人観衆も好意も多少の悪意もやっかみも冷やかしもおせっかいも無い所まで逃げて来て、はぁっと大きく息をはいた。
「やれやれ……」
 それだけ呟くと、遠く盛んに上がり始めた花火に目をやり、何を思っているのか、そのままじっと見詰めている。
 シルフィスは、何時までも手を握られたままなのに戸惑いつつも、うっかり声をかけたら、多分この手は離されてしまうと判っていた。
 そして、それは嫌だと思った。
 さり気無くキールの横に並び、ほんの少しだけ触れ合う肩と、手からの温もりに全身の神経を集中させながら、目だけは花火を追いかける。
 離れている所為か、光と少しだけタイミングを外した音が、風に乗って流れてくる。先程とはうって変わった静けさの中で、二人は寄り添ったまま佇みつづけた。

 こうしてゆっくりと、二人で花火を眺めているなんて、何だか信じられない。しかも、自分の手は、今だしっかりと彼に握られたままなのである。
 花火よりも大きく、心臓が自己主張をする。そっと横顔を窺い見ると、その姿は、確かにキールが江戸での自分の代理として作ったバーチャキャラであるはずなのだが、何だかどこかが違う。
 先刻プロフェッサーという呼びかけに反応したし、第一、芹庵貴要に感じる違和感が感じられない。
 期待が膨らんでいく……
 キールでありながらキールではない青年医師は、いつもシルフィスに違和感を感じさせた。貴要は本体そのままに、己の研究に真剣に取り組み、何にでも興味を示すくせに、不思議とアンヘルへの興味は欠片も持ち合わせていなかった。
 医者であり蘭学者でもある職業上、未分化の体はかなりの研究対象だろうに、書生として住み込むシルフィスへは、ただの医者と書生の立場を崩す事はない。ここでは自分は研究対象では無いのだ。
 考えてみれば、江戸でどれだけ過ごそうと、身体的には10数分でしかない。何があろうと、自分が分化するはずが無いのだ。だから貴要の擬似人格に、アンヘルへの興味は必要ない。アイシュもそれが判っていたから、無用な要素をバーチャキャラの作成時に加えなかったのだろう。
 それが妙に拍子抜けで、寂しく感じもしたのだが、逆に、なんでそれを期待していたのかと不思議に思った。
 そこで、気がついていてしまった。自分の心に。
 いつも真っ直ぐな、あの緑の瞳。
 その視線の先に居たいと、願っている自分。
 出会いは最悪だったと思う。少なくとも普通なら好意なんて持つ筈が無いような初対面の印象だった。
 何しろ、いきなり『研究の為に観察させろ』である。その様子に、ほんの一欠けらでも歪んだ部分があったら、自分が同意する事は無かっただろう。
 興味本位な好奇心の中で、彼が自分に向ける視線は、純粋に学術的な好奇心で、他の誰の視線よりも、『自分』を見てくれている様な気がした。
 亜麻色の髪と緑の瞳という、アンヘルによく似た色合いも親しみやすさを持たせたのかも知れないが、親しみやすいというなら、彼の双子の兄アイシュの方がその気さくで穏やかな性格も含めてずっと親しみやすいだろう。
 そんなアイシュの前でも、何処か身構えている自分が、何故かキールの前でなら肩の力が抜けていた。未分化の身体を見せるなど、今は例え親兄弟でも嫌なのに、キールの観測でなら平気でポッドの中に浮かんでいられた。
 その理由が、あの真っ直ぐな視線にあったと。偽者とはいえ、視線から外れる状態となって、初めて自覚したのだ。
 そのくせ、この江戸では、外の世界での日常よりも、より一層キールが身近なのが、混乱の基でもあった。
 何故なら、キールの本物がサポートのモニター用員として、常に自分を見ているのを知っていたから。
 実体のある偽者は自分を見ないのに、実体の無い本物の視線を感じる。
 この二重性への混乱に、視線を感じるのを喜んでいる自分を認める事で、シルフィスは一応の決着をつけていた。
 それ以来、毎晩の報告が楽しみになり、彼と自分とを繋ぐお守り型通信機はそのまま本当の肌守りになった。
 だから日々の生活も、任務の遂行も、彼に見られて恥ずかしくないようにと勤めてきた。
 メイなど、始めのうちは『ストーカー連れて歩いてるみたいで気持ち悪い』などと言い放ち、『できれば俺も、早くお役御免したい』と反論されて、通信機相手に口論を繰り返していたものだが、親友を宥めながらも、自分も煩わしく思われているのではないかと、不安に思った。そして、たとえ喧嘩であっても、気の置けない会話をしあえるメイが羨ましく思えた。
 恋心を自覚してしまえば、何てことは無い、彼が妹のように可愛がっている(らしい)親友への焼きもちである。自覚したといっても、男でも女でもない自分では、想いを告げるなんて到底出来ないし、彼がそれを受け入れてくれるなんて、夢のまた夢に思える。
 ここでの任務が終われば、自分がキールと一つ屋根の下に居る生活も終りを告げる。本来彼が面倒をみている保護下の娘との生活に帰っていく。
 アイシュから聞いた、膨大な時間膨張が、もっと続けばいい。例え偽者であっても、毎日キールを見られて、そして本人と通信をする。この暮らしが続けばいい。
 この江戸でなら、キールはずっと自分をみてくれている。例えただの観測対象だとしても、他の捜索隊員と同レベルの注意の向け方だとしても、あの真摯な瞳の先に居られるのだと、ささやかな喜びを抱いていたのだ。
 しかし、今、危ない所に飛び込んで、自分を助けてくれたこの青年は、どちらのキールなのだろう?
 もしかして、モニターで自分の危機を見ていた彼が、助けに来てくれたのだろうか?
 自分の事を、それだけ気にかけてくれたのだろうか?
 もしかしたら、バーチャキャラにその指示を出してくれただけかも知れない。でもそうだとしたら、握られたままのこの手は、何を意味しているのだろう?
 暗がりに、花火の光で浮かび上がる整った横顔は、何も答えはくれない。
 それでもいい。この手を離さないで欲しい。
 手から伝わる熱さに、眩暈を感じながら、シルフィスは花火を眺める振りを装いつつ、キールの横顔を見詰め続けていた。
 

 花火は盛んに上がっている。
 今の自分を笑っているようだ。
 黙って傍らに寄り添うシルフィスの、さり気無く触れている肩が熱く感じる。
 いや、それよりも何よりも、勢いで握ったままの手が熱い。
 バーチャキャラの中に、アストラル体で入り込み、言うなれば生霊になって憑依しているようなものなのだが、さすがにアイシュの作ったデータは、正確に自分を複製している。
 何の違和感も無く、体は自分に馴染んでいた。
 先程のテレポーテーションも、自分好みの緻密さで出来たから、彼が虚空からいきなり現れたと判った人間は、待ち構えていたシオンぐらいなものだろう。
 接触テレキネシスも思考弾衝帯も自在に発揮でき、まるで柔の達人を気取った大立ち回りが、今更ながら照れ臭い。
 上司と保護下の娘の策略に乗り、勢いに任せてここまで来たのだが、さてこうなると、どういうリアクションをするべきなのだろうか?
 手の平に汗をかいている気がして、バーチャキャラの精密さに感心すると共に、自分の不甲斐無さに焦りを感じる。
 どうにも全身が熱い。まあよく考えれば、《召喚》でここまで来たのはいいとして、ESPを遺憾無く発揮しチンピラを撃退して、その後ここまでシルフィスを引っ張って走ってきたのだ。ついでに六月は江戸では夏の真っ盛りである。夜風はある程度涼しいものの、火照った体には焼け石に水のような気がする。
 そう言えば、江戸にエアコンが無いのを、メイがしきりにぼやいてていたっけ。挙句にアイシュに、自分の長屋にだけでもエアコンを付けろとごり押ししていたくらいだ。結局、バグの原因になるから、世界観に無いものは作れないと言われていたが……
 いや、今はそんな事は関係無い。
 キールは、握り締めたシルフィスの手の感触に神経を集中させた。
 見慣れた手だ。だが、こうやって触れるのは初めてだった。丘に来た時点で離してしまえばよかったのだが、彼は業とそのタイミングをやり過ごして、ドサクサ紛れの役得を手放せないでいた。心拍数が上がっていくのを自覚する。
 その手は何処かしらひんやりとしていて、これが銃や剣を扱い、大の男を叩きのめせる軍人の手かと、不思議に思うほど華奢で小さく感じる。そして、とても握り心地が好い。
 そう、シルフィスは優秀な士官候補生だが、その見た目は尽く本人の才能と資質を裏切っていた。
 ほっそりとした華奢な体つき、優美な仕草。出自の民族の特徴そのままに、絶世とも言える美貌。風にも耐えないのではないかと思える風情は、簡単に手折れる花のようだ。
 お陰で邪な輩が、砂糖に群がる蟻のように、手を変え品を変えこの若者を篭絡しようと近寄ってくる。それは街中だけに留まらず、所属する軍内部でも、地位を嵩に着た明き盲達がちょっかいをかけてくるのだから、堪ったものではないだろう。シルフィスの候補生としての優秀さは、そのまま、自分を侮る者達への、負けん気の証明でもあった。
 何時からだろう、そんなシルフィスを目が追いかけるようになったのは。
 観測を切り出したのは、確かに純粋な学術的な興味からだった。
 銀河最古の民族であり、第一期文明の末裔と言われるアンヘル族。存在はずっと知られているものの、今日においてさえ、その人種としての生化学上の資料も、文化や習慣すら、確かな資料の無い、謎の民。
 惑星アンヘルから滅多に出てこないアンヘル族が、帝国との協調姿勢の証明の為に、主星へと送り出した若者は、キールにとってはまたとない研究材料だった。
 本物のアンヘル族。しかも分化前と聞いて、彼は観測をさせろと、一方的に押し付けた。
 思い返してみれば、人間扱いさえしていない、最悪の相手だったろう。
 確かにあの時は、シルフィスを「アンヘル」としか見ていなかった。
 だが、こんな偏屈学者の無遠慮な要求に、屈託無く応じて、身体データの採取や、観測をさせる若者に、キールはシルフィス個人への興味が出てきた。興味を持ち、気になったらとことん調べ尽さないと気が済まないのは、学者の悪癖である。
 観測の間に交わす束の間の会話や、やっとテスト飛行までに漕ぎ付けそうな最新の空母搭載機の開発で、パイロット候補生となっているシルフィスをそれとなく観察したりして、その真っ直ぐな気性や、気さくで優しい心根、控えめだが意外な粘り強さを持つ生真面目な性格などを好ましいと感じているのに気がついた。そして、シルフィスの美しさが、出自民族の特徴と言う程度ではなく、その内面があるからこそだと、納得した。
 だからだろう。廻りの偏見に疲れて、ふと洩らされた『自分はアンヘルだから』という呟きに、妙に激昂してしまったのは。
 可笑しなものだ、「アンヘル」として研究材料にしている男が、「シルフィス」としての個人の価値を説いた。
『人間が代名詞で納まるか』と。
 まったく身の程知らずもいいところだ。
 その『代名詞』に、一番囚われているのは、当の自分だというのに……
 アイシュのクローンとしてこの世に造り出され、12年前に『キール』という名を授けられた。以来ずっと、『キール』である事に固執し、『キール』である自分を見せようと躍起になってきた、家族意外は知らない、クローンの自分に拘って。
 今でも時々、それを持ち出して兄を悲しませている。不屈の忍耐を持つ兄は、それでもめげずに『弟』とくりかえし、彼を安心させてくれる。
 事ある毎に、自分は兄に頼ってきたと思う、文字通り頼る事もあれば、反発する事で存在を肯定させて安堵したり、または心の中で自分と比較する事で。
 今だってそうだ。
 こうしてシルフィスの手を握ったまま、寄り添って花火を眺めているのに、何でアイシュの事を考えているのか?
 多分落ち着きたいのだろう。
 支離滅裂になってきた思考を安定させる為に、兄を持ち出してきたのだ。
 培養液に浮かんでいた幼い頃、下手をすれば上位自我としてしまいかねなかった程、精神的に依存していた本体の存在は、今でも鎮静剤と興奮剤、両方の役割を果す。
 まったく情けない。長年見詰めるだけだった麗しのアンヘルが、側にいるだけで、こうまで舞い上がってしまうなんて。
 キールは内面の葛藤など曖気にも出さない仏頂面で、小さく息をついた。
 そのため息は、闇に紛れて遠慮なく彼を見詰めていたシルフィスに、漣のような不安を掻き立てる。
 やはりキールは、この状態に困っているのだろう。自分と二人だけでこんな所まで来てしまったのは、ただの勢いで、メイや他の皆に誤解されるのではないかと、悩んでいるのではないだろうか?
 助けに来てくれたとはいえ、それはやはり、捜索隊の仲間としてで、何も自分が特別な存在と言うわけじゃない。それなのに、手を離されないのを良い事に、まるで恋人気取りで大きな顔をしているなんて、何てずうずうしいのだろう。
 きっと彼は、手を離すタイミングを逸して、さり気無く離すには何時がいいのか、仲間としての関係を崩すことなく、この偶然の接触からの脱出方法を考えているに違いない。 
 彼は優しい人だから、唐突に手を離して、自分が傷つかないようにと、思ってくれているのだろう。
 シルフィスは微苦笑を浮かべた。この青年が模造のバーチャキャラではないのはほぼ確信のような気がする、ならば、もういいや。と。
 彼はあのP-SSTの中から出て、わざわざ自分を助けに来てくれた。
 だからもう十分だ。
 彼は仲間として、自分を大切にしてくれているし、お互いの間には、確かな信頼が通っている。これを得られただけでも、初めて人を好きになった割には、良い結果なのではないだろうか?
 こちらの余計な気持ちで、彼の負担にはなりたくない。
 この先、ただ見詰める事しか出来なくても、いつか分化して、彼の研究素材の価値を無くしても。この気持ちを持てただけで、彼からの信頼を受けられただけで、一生分の幸福と言えるだろう。
 最後の思い出にと、シルフィスはしっかりとキールの手の感触を心に刻み、一心に花火に見入るキールの横顔を見詰めた。
 そして、出来るだけさり気無く、自分から手の力を抜いた。

 不意に緩められた手に驚いて、キールは掴んでいた手に力を篭めた。
 途端に、びくんとシルフィスが震える。
 怯えさせてしまっただろうかと、慌てて横を見れば、翡翠の瞳をまん丸にした佳人が、きょとんとこちらを見詰めていた。
 その顔を見て、キールは無性に可笑しくなった。
「ぷっくくく……あはははは……」
 なんだかあれこれぐだぐだ悩んでいるのが、莫迦らしくなってきたのだ。
 肩を震わせ、ひとしきり笑うと、握る手が痛くない程度に力を加えて、ついでにぐいっと引っ張った。ほとんど触れ合うぐらいに近寄っていた薄い肩は、他愛も無くキールに寄りかかる格好になる。
「離すなよ……」
 業とぶっきらぼうに言ったのは、やはり照れ臭いからだ。それに、どう切り出していいものか、まだわからないからだった。
「綺麗だな、花火」
 ともすれば外せなくなる視線を無理矢理引っぺがして花火へと顔を向ける。だが、目に映してはいても花火なんて意識の片隅にも引っ掛ってはいないのだ。
 体中の神経が握った手と寄りかかる柔らかな体に集中している。
 そして、彼に寄りかかりながら、シルフィスが、全身を硬くして、僅かに振るえているのもはっきりと感じていた。
 シルフィスにしてみれば、離そうとした手を、改めて握りなおされ、しかも引き寄せられるなんて、思ってもいない事で、しかも、いきなり笑い出した後の、妙に強気な行動に、戸惑いを隠せないでいた。
「あの……」
 どうにか声を絞り出すと、花火を眺めたままで、『なんだ?』と返ってくる。
「プロフェッサー……ですよね…?」
「ああ」
 簡潔な答えに、安堵のため息が漏れる。
「やっぱり……来られたんですね……」
「ああ、そこに居る、茶色と蒼の鼠2匹のお陰で、来ざるを得なくなったよ」
「え?」
 妙な言い方に首を傾げるのと、後ろで藪ががさりと鳴るのが同時だった。
「わ、ば〜か!」
「ごめ〜ん」
 小さな声に、慌てて振り向くと、見慣れた緋鹿の子と黄八丈、そして闇に解ける濃紺の髪が、花火の照り返しに浮き上がる。
「メイ……シオン様……」
 意外な二人組みの登場に、シルフィスは、自分の状態を思い出して、顔から火が吹くほど赤くなった。

「覗きとはまぁ……良いご趣味で」
 嫌味たっぷりにキールが言い放つ。すっかり開き直っているらしいその態度は、妙な迫力で二人を睨みつけている。
「え〜と…あはっあはっあはははは……」
「恐れ入谷の鬼子母神。だな」
 意味も無くメイが笑う。その横で、バツが悪そうにシオンも懐手などして、しきりに顎を撫ぜていた。
「…………で?」
 追打ちを掛けると、さすがの火の玉娘も大慌てで手を振り回し始める。
「いや、あの〜さ。ど〜してるのかな〜〜と……ちよっちね」
 真っ赤になっているシルフィスと、えらく静かに睨みつけてくるキールを見比べて、まるで部外者のような顔をしているシオンに助けを求めた。
「ちょっとぉ……」
「ん〜。ま、なんだな。お前さんがど〜するのか、気になるからなぁ」
 にやりと口の端を上げ、闇を見透かすようにキールを眺める。
「首尾はまあまあ、ってとこか?串刺しになってきた甲斐があったな、キール」
 バツの悪さを隠すつもりか、業と物騒な物言いをするシオンに、キールは眉間の皺が深くなっていく。何もそんな話をシルフィスに言わなくても良いだろうに。
 案の定、シオンの言葉にシルフィスが目を見張る。
「シオン様……それはどういう……?」
 シオンとキールを交互に見ながら、どこか怪我をしていないかと心配しているらしい。
「心配ない。気にするな」
 シオンを睨み据えながら、キールはシルフィスに声をかけた。
「でも……」
 納得していない様子に内心盛大に舌打ちをする。何でこの人はここまで物事を引っ掻き回したいのか。半分呆れ半分苛立ち、キールの双眸が、ただ冷たく出歯亀二人組に据えられる。
「………………………じゃっ」
 視線にいたたまれず、メイが逃げ出した。
「おいおい、待てよ」
 置いて行かれた遊び人が慌てて踵を返す。
 と、ふと立ち止まり。
「そ〜だ。覗きっつ〜たら。キール。お前さんも、シルフィスに謝っとくんだな」
「!?」
 キールの頬が瞬時に上気したのを見逃さず、満足したらしいシオンは、相棒の背中を追って歩み去った。
―――牛に引かれて善光寺参りだ。ここまでお膳立てしてやったんだ、しっかりやりな―――
 捨て台詞のテレパシーに、頭の血管が切れそうになる。
―――余計なお世話です!―――
 怒鳴り返す思念波へシオンの笑い声が木霊した。


「ったく……あの人は……」
 ため息とともに、呆れた声で呟くのが聞こえた。多分シオンがテレパシーでも送ってきたのだろう。
 今だ離されない手に火照る頬を持て余しながら、青年の横顔を見詰め、シルフィスはやはり湧き上がる不安を確かめたいと思った。
「プロフェッサー……」
「キールだ」
 おずおずと口にした呼び名に、思いの外強い反論が返ってきた。
「え?」
「江戸でプロフェッサーなんて奴はいないぞ」
 これは捜索の連絡業務の時に言われたのと同じだ。世界観に無い言葉はなるべく使わないようにと念を押され、今までの通信ではそうしてきた。
「でも……」
 通信では気楽に口に出せた名も、本人を目の前にみていると、なんだか言いにくい。
「じゃあ……貴要先生……」
「それは俺のバーチャキャラの呼び名だ」
 体はそうだから、間違っちゃいないが……心の中だけで付け足しておく。
 困惑して俯きかける様子を目の端に捉えて、苦笑が漏れる。
「だから、キールでいいと言ってるだろうが」
「あ……はい……」
 納得しきっていない様子に、この際だから本音を言ってやろう。キールは苦笑を深くした。なんだか妙にすっきりした気分だ。
「お前に、役職なんかで呼ばれたくない。名前で呼べ」
 握り締めた手が、瞬時に熱くなった気がする。
 実際、花火に浮き上がるシルフィスの顔は、暗がりでも判るくらい真っ赤に見えた。
「……あの……」
「呼べないのか?呼びたくないのか?」
 我ながら意地の悪い言い方だと思う。生真面目な若者は、慌てて首を振っている。
「そ……そんな事ありません……」
「じゃあ……呼んでくれ」
 この高揚感は何だろう?そう考えてから、EmergencyProgramの仕掛けを思い出す。プログラム作動中は、ほんの僅かだけ細胞の活性化処理が施される、作業を迅速に進めるために。
 例えアストラル体であっても、やはり本体の影響は多少受ける。その副作用がこの強気なのかも知れない。
 まあいい、何にせよ、言い難い事を言うには丁度いい後押しだ。
 それに、戸惑いの元は、おせっかいな上司がぶちまけていってくれた。こうなるともう、開き直るしかないだろう。
「……キール……」
 恥ずかしそうに呟かれる声に、口の端が意地悪く上がる。
「聞こえないぞ」
「……っ……キール……」
「もう一回」
「!?……キール」
「小さいな。花火で聞こえない」
「!!〜〜〜キール!」
「ぷっ…あははははははは」
 ヤケクソ気味の声に、思わず吹き出して、軽い笑い声がはじけた。
 
 青年の妙な強気に、すっかり圧倒されながら、シルフィスはむかっ腹を立てていた。
 自分は、串刺しになったとシオンが言った言葉で、彼を心底心配しているというのに、そんなことはお構いなしなこの態度はどうだろう?
 なんだか、悔しいような、やるせないような腹立たしさで、シルフィスはキールを睨みつけた。
 どうにか笑いを収めた青年が、緑の瞳になお面白そうな光りを宿したまま、不機嫌なアンヘルにちらりと一瞥を寄越す。
「お前が真っ向から睨みつけるのって、仲間内では俺だけだって知ってるか?」
「え!?」
 見張られる翡翠のひとみに、深く愛しむような視線が返された。予想外の反応に、さらに頬が火照るのを感じる。
「……そんなに……睨んでますか?」
「俺が意地の悪い事を言うとすぐにな」
「……すみません……」
 俯きかけるのを引き止めるように、握られた手がくいっと引っ張られる。思わずバランスを崩しキールに凭れ掛かると、その顔は満足そうに笑みを深くした。
「気にするな、俺はその方が嬉しい」
「あ……あの?」
「例え尊敬する隊長さんでも、気心の知れたガゼルやメイにでも見せない、素のままのお前を俺だけに見せるってのは、それだけ俺に気を許してくれているって事だろう?」
 楽しげに言われても、意識なんてしていなかったんだから判らない。ただただ困惑して見上げるシルフィスから、キールは少しだけ視線を外した。
「すまん」
「はあ?」
 またも予想外の言葉に、困惑は深まるばかり。
「キール……どうしたんですか?」
 前々から自分のペースでしかものを話さない人だとは判っているが、どうもその度合いが強すぎて、シルフィスはキールの答えを待った。

「俺は、この一年近く、お前を見てきた、勿論、他の連中も同じだけどな」
「はい」
「だから……お前がどんな奴か、外に居たときよりも判ったと思う。お前は控えめで、人と争うのが嫌いで、誰よりも優しいって事をさ」
 顔がますます熱くなる。よもや皮肉屋のキールから、こんなにストレートに誉められるとは思っていなかった。
「え…えっと……」
「ま、思慮深いと付け足してやりたいが、お前の場合は、考え過ぎなだけだからな」
 やはりいつものキールだ。
「っ……キール?」
「お前が考え過ぎなのは、自分に自信が無いからだろう?俺もだけどな。俺の場合は、一人で考える時間がたっぷりあった。ずっと考えてたよ……お前を見ながら、お前が何者なのか……」
 シルフィスは、花火の光に浮かび上がる整った横顔に、江戸に入ってからの彼の孤独を思った。常に連絡が出来、仲間を見ることが出来ていても、自分はP-SSTに縛り付けられ切り離された状態。自分なら多分耐えられないほどの孤独の中に、彼はいたのだ。
「お前は俺にとって、破壊者だった」
「え?」
 あんまりな言いように目を見張る。
「俺はな、一人でいるのは平気だった。一人の方が好きだと思ってた。ところがお前は俺を一人にしない。外でもここでも。お前は俺の『一人が好きだ』っていう虚勢をぶち壊す。そしてお前が連絡を寄越す時間が、俺には楽しいってのに気が付かせてくれた。気が付いて慌てたし、自分に反発もした。けどな、否応無く一人にさせられて、お前を見るだけのこの一年が、俺に結論を寄越した」
 もうこっちを見ようとしないキールを、不思議な気持ちで眺めた。彼は何を言いたいのだろう?花火の音と、心臓の鼓動が重なる。
「それは……どんな?」
「俺は、お前と一緒にいたい」
 ドオンッと、多分今夜の一番の大玉が、夜空に大輪の華を咲かせた。
「バーチャキャラの貴要が、お前に興味を持たないようにプログラムさせたのは俺だ。あいつも俺だからな、お前に惹かれてるのが手に取るように見えた。だから兄貴にその部分を取り除かせた。腹が立つだろう?俺じゃないくせに俺みたいにしているの見るのは」
 握り締めたシルフィスの手が小刻みに震えている。
 キールは苦笑しながら、その手をぎゅっと一度力を篭めて握り、空いている方の手をシルフィスの肩に乗せる。
 自然二人は向かい合う形になった。
「なあ、もう好い加減俺の言ってる事判るだろう?」
「え…あ…あの…つまり」
 真っ赤になってうろたえる素振りが、なんとも可愛らしく思えてくる。
 テレパシーなんかに頼らなくても、今何を思い何に慌てているか丸判りで、キールはクスクスと笑いが込み上げてくる。
「判れよ…こういうことだ」
 確信犯な笑みを浮かべつつ、華奢な肩を掴むと、愛しさが齎した衝動のまま、キールは少し震えるシルフィスの唇へ自分の唇を重ねていた。

 はっきり言って今までの人生、理性と冷静が売りだった。
 メイあたりには反論があるかもしれないが、少なくともキールの自覚の上では、頭を真っ白にして、ただの動物に成り下がったのは、物心が付いてこっち、培養ポッドから出されて、初めて母の手料理を食べた時だけである。
 あの時、「自分の為」に饗される贅沢と、母と兄の愛情と、何より強烈な味覚に、我を忘れて貪り食べた。自分の体の弱さも考えずに。
 腹を壊し、ついでに乳製品アレルギーで死線をさまよい、以来、自己コントロールは必然となった。
 しかし、そんな強固な理性の壁は、柔らかな感触に一気に瓦解して、人類と類人猿の境目が結構薄いのを再確認してしまう。
 実際、自分が何をしているかなんて、ちらっとも考えられない。
 ただ柔らかく暖かな感触に酔い、それから離れるのが嫌で、何度も何度もシルフィスの唇を塞ぎ、腕の中で震える華奢な身体を掻い込み、じたばたと暴れかけるのにむかついて、力ずくで押さえ込む。
 そうやって心置きなく初めての行為に酔いしれていると、唇の端に生暖かな水気を感じた。何の気無しにそれを舐め、涙だと気がついた途端、瞬時に正気の縁に引き戻された。
「シルフィス!?」
 慌てて覗き込むと、案の定、金髪の佳人はぽろぽろと無抵抗なまま涙をこぼしている。
 自分の浅はかさに、胸が痛む。
 いきなりの行動に、この考えすぎで優しいアンヘルが、抵抗も出来ずに内罰的な思考に陥るだろう可能性を思いつきもしなかったのだ。
「悪い…嫌だったか?」
 普段の彼ならここまで傍若無人な態度には出られないのだが、全ての強気は、絶対に拒まれないという確信の上に胡座をかいた結果である。
「お前に、好かれていると思ってた…自惚れだったな…」
 嫌味な言い訳に、さらに自己嫌悪が募る。こんな言い方をしたいのではない、もっと優しく慰めたいのだ。
 せめて落ち着くまでと思い、そっと髪を撫でる。
 しかし呆然としたまま止まらない涙に、それすらも嫌かも知れない気がして、次第に手の動きが鈍っていく。
「悪かった…」
 失望感に重くなった手は、未練がましくゆっくりと、シルフィスから離された。
 
 手が離される感触に慌てたのは、今度はシルフィスの方である。
 いきなりの行為に理性と思考の両方を飛ばしていたのは、シルフィスも同じだった。意外なほど強い腕に包まれて、彼の唇を受け止めるのが精一杯で、嬉しいのか切ないのか幸せなのかサッパリ判らないぐちゃぐちゃの感情を持て余し、はじめは抵抗らしき事をしていたのだが、そのうち押さえつけられるまま、硬直してしまっていた。
 耳元で聞こえる自分の心臓の音に、廻りの音はかき消され、何も聞こえない。極度の緊張と興奮に、自然と涙が溢れてきたが、勿論自分が泣いている自覚なんてあるわけが無い。
 だから、不意に離れてしまった唇に、どうしょうも無い寂しさを感じていると、そのうち髪を撫でていた優しい手までが離れていく。
 世界全てから見放されるような気分になる。
「嫌だ」
 無意識に呟いて、離れかける手を掴み、ほとんど手探りでキールの体にしがみ付く。
「シルフィス?」
 顔を埋めた胸から、くぐもった声が聞こえる。
 組み手をする軍仲間とは明らかに違う肉の薄い胸は、それでもシルフィスにはとても安心できる場所で、ほとんど幼児退行状態ですりすりと頬摺りを繰り返していた。
 ふわりと背中に手の感触が戻ってくる。
 その暖かさが、堪えられない幸福感を沸き立たせて、そのくせ貪欲になった恋情が、もう1つの無くした感触を取り戻せと、シルフィスを突き動かす。
 胸から顔を上げると、星明りの下深い愛情を湛えた緑の瞳が自分を見下ろしていた。
 その視線に吸い込まれるように、今度はシルフィスの方から顔を近づけていく。
 首に腕を回して爪先立てば、すぐ彼の唇に届く。取り戻した感触に没頭しながら、頭の隅で、彼との顔の近さを喜んでいる自分が居た。

「人間、簡単に猿になれるもんだな…」
「言わないで下さい…」
「お互い様だ、気にするな」
「だって…」
 星明りの下、木の根元に背中を預けて座り込み、キールは膝の上に抱え込んだシルフィスを、もう少しだけ楽な姿勢になれるように抱きなおす。
 もう、とっくの昔に花火は終わっていた。
 それでも丘の下のほうからの町のざわめきは、いっかな収まる様子はない。江戸の慣習では、花火の後も夜明け近くまで、見物人達はその余韻に浸り、さっさと帰る奴は少ないらしい。
 二人もそれに習って、そのまま丘の上に留まっていた。
 もっとも、二人が浸っている余韻は、花火なんかではなかったが。
 月の無い星空が有難かった。多分、今お互いの顔なんて、恥ずかしくて見れないから。
「キール?」
「ん?」
 肩口に顔を埋めていたシルフィスがおずおずと聞いてきた。
「暑くないですか?」
「いいや、風があるし、涼しいくらいだ」
「そうですか…」
 言いよどむ口調に、キールは口の端をあげた。
「お前は?暑かったら、離れて座るか?」
「嫌です」
 即答してしがみつき、ふるふると首を振る仕草に、笑いが込み上げる。
「俺もだ」
 やっと手に入れた、見詰めるだけしか出来なかった宝物。
 風に弄られてふわふわと波打つ金髪に顔を埋めて、まだ自分が猿のままだと苦笑する。何故なら、さっきから目の端にちらちらと垣間見える、白い貝殻のような形のいい耳が気になって仕方が無い。
 余韻に浸る勢いのまま、この際、猿でも原始人でも何でも好いか、と、常とは違う思考回路が働いて、衝動の赴くままぺろりと舐めてみる。
「うきゅッ」
 ケッタイな悲鳴をあげて首を竦ませる仕草に、くつくつと偲び笑いを洩らしていると、首筋に、えもいわれぬぞくりとした感触が湧き上がる。
「はぅっ……」
 思わず呻いて、今度はシルフィスの含み笑いが腕に伝わり、また耳と首筋に振動を感じる。
「シルフィス?」
「お返しです」
 再び首筋に戦慄が走り、次いでチリっと軽い痛みが走る。立て続けに3回も繰り返されると、さすがに何をされているのか判ってきた。
「お前な……」
 見えるだろう……と言う前に、首筋を伝う感触が、そのまま肌をなぞって頬につんっと押し付けられる。
 文句を言う前に、嬉しさと気恥ずかしさで、喉が詰まった。
「ただで済むと思うなよ」
 むかっ腹を立てた振りをして、シルフィスの頭に手を添えて、半ば強引に再び唇を奪う。今度はシルフィスも、ぎこちないながらキールの背に腕を回してきた。
 なりたての恋人達の時間は、まだ終りそうに無かった。

 自分でも信じられないくらい大胆になっていると、シルフィスは思う。
 幾つも唇を重ね、男にしてはほっそりした首筋に抱きついては、そこに自分の印を刻みつける。
 想像した事も無かったが、自分にもちゃんと独占欲があって、しかもかなり強いらしい。
 キール以外何も要らないと思えた、キールが居なければ嫌だと思った。彼を全てから守りたい。どんな事からも守り、慈しみ、抱きしめていたい。どんな敵が現れても、必ず打ち砕きキールを守る。キールさえいれば絶対負けない……今分化したらきっと男になるんじゃないだろうか?
 もし男になったらどうしよう?その時はキールを押し倒してしまおうか?多分できる。今だってきっと、自分の方が力はあるはずだ、彼に触れられた途端にふにゃふにゃと抜けてしまうけれど……莫迦らしい事を取りとめも無く考えて、それが妙に可笑しくて、シルフィスはくすくすと笑い続けた。
  
 脳内エンドルフィンが増加して、多幸状態になっている。
 科学者は、頭の隅で分析する。そのくせ脳内麻薬のお陰で、融けそうな笑みを浮かべたまま、恋人を抱きしめていた。
 腕の中の宝物は、楽しそうに含み笑いを洩らし、やたらと首筋に食いついてくる。その感触に、別の個所が刺激を受けて、少し差し迫ってきてはいるが、まさか今のシルフィスに、そこまで求められる訳が無い。それでも、もう手を離す事も出来なくて、せめてもの意趣返しに、可愛くてしょうがない耳に唇を寄せ、引っ込められる肩を逃げないように抱きしめる。
 都度都度重ねる唇に、そろそろ触れ合わせるだけじゃなく、次のステップに進んでみようか?自分でも知識としてしか知らないが、シルフィスと試していくなら、この上なく楽しいに違いない。
 再び首筋を登ってきた唇を掴まえようと顔を傾けると、うっとりと細められていた翡翠の瞳が、急にぱちりと開かれた。
「キール」
 不意に呼ばれて、こちらも動きが止まる。
「なんだ?」
 暗がりに乗じて、至近距離で真っ直ぐ大きな瞳を覗き込んでいると、形のいい眉がゆっくりと寄せられていく。
「シオン様が言っていた、串刺しって、なんですか?それに……覗きって?」
「う……」
 明らかにキールの肩が揺れたのを感じて、シルフィスは更に覗き込んでくる。
「教えてください」
 
 星明かりの下では、色なんてさして見えないのに、ぼんやりと浮かび上がる大きな瞳が、やはり鮮やかな若竹色なのだと感じる。
 その瞳を覗き込みながら、すっかり尋問体勢に入っているシルフィスへ、キールは諦めたように苦笑を返す。
「説明すると、長くなるんだが……俺のこの身体な……実は、バーチャキャラなんだ」
 シルフィスの肩が、腕の中で揺れる。
「遠隔操作なんですか?」
「まさか。兄貴みたいな器用な真似、そうそうできるわけないだろう」
 じゃあ、何?と、シルエットが首を傾げる。
「順を追って、ゆっくり説明してやるよ。先ずは、俺の能力からだな……」
 見詰めやすいように、すわり具合を直しながら、キールは軽く笑った。
 彼の最大能力である≪召喚≫
 アストラル体を自在にネットワークへと飛翔させるその力によって、今自分が精神体をバーチャキャラに融合させている事。そして、そのために行われたEmergencyProgram。
 星明かりと夜風の中で、キールはゆっくりと語った。
 無数のナノファイバーによって身体をコンピューターと直結させ、≪召喚≫を行っているのだと聞かされて、シルフィスは思わずキールの身体に回した手に力を篭めた。
 細胞膜すら素通りするほど細いファイバーだから、痛みもないのだと笑うキールへ、シルフィスは不安を隠せないまま再度安全を確認する。
「本当に大丈夫なんですね」
「ああ」
 頷く綺麗な顔へ(シルフィスには、自分より遙に整って見える)おずおずと頷き返しながら、脳裏には、P-SSTの中で、あたかも蜘蛛の巣に捕らえられているかのように、白いファイバーに縫い付けられたキールの姿が浮かんでいた。
 ただ、シルフィスは、P-SSTの中がどんなものなのかさっぱり知らなかったので、その想像は、何故だか先日メイと共に見た、浅草の歌舞伎芝居の一場面になっていて、土蜘蛛の衣装を着たキールが、無数の糸に絡め取られて、中空にぶら下がっている、といった感じになった。
 なんにしても、心臓にいい姿ではない。
「……あまり長い時間だと、やはり負担になりますよ……」
 彼が助けにきてくれて、もう何時間が経過したのだろう。
 シルフィスは湧き上がる不安に首を振った。
 自分の為に彼は無理を通し、助けにきてくれた。彼の気持ちを聞かされ、こうして、心が通じた。もう十分だ。
 再び毎夜の通信だけの生活が戻ってくるとしても、それがあと何十年続くとしても、あやふやな期待を抱きながら彼の視線と声を待ち望んでいた今までとは、雲泥の差だ。
 キールの、この真っ直ぐな視線が自分に向けられている。そのはっきりとした証しを貰ったのだから。
「キール……早く戻ってください。貴方の体のほうが心配です」
「そうだな。まあ、何時までも、身体から離れているわけにも行かないな」
 ほっとするのと同時に、別れの時間を思い、寂しさが込み上げる。我知らず、シルフィスは、キールにしがみ付くように手に力を篭めていた。
 恋人の様子に、キールがくすくすと笑いだす。
「しかしな。EmergencyProgramは、10分以上続くんだ」
「え?」
「フェイスの端末のサポートコンピューターにシステムの主導権があるし、それは俺の意思では変更は利かない。それに、P-SSTの中で、精神的体感時間をホロホール内に合わせているといっても、サポートコンピュータもP-SSTも、ホールの外にあるんだ」
 まるで悪戯の種明かしのように、楽しげにバックアップの内容を説明するキールに、シルフィスの目がきょとんと見詰め返す。
「それって……」
「このホールのバク修正と、時間異常の修正、それに任務の終了までが、丁度EmergencyProgramの遂行時間と一致するな」
 シルフィスの表情が、嬉しそうにゆっくりと明るくなっていくのが、星明かりだというのにはっきりと見える。バーチャキャラの、暗視能力を上げておいてよかったと、キールはなんとなく思った。
「じゃあ……キールは……」
「ここが終わるまで、このままだ。勿論、バーチャキャラの擬似人格は削除したから、俺が出て行ったら、こいつはただの人形になる、遠隔操作は可能だけどな。同じ事は本物の体にも言える。向こうでしていた作業程度なら、ここからでもできる」
 ぎゅっと、シルフィスが首にしがみ付いてきた。
 無言のまま、腕に篭められた力がどんどん強くなる。
「……シルフィス……苦しい」
 好い加減窒息しかかって、さすがに苦情を言うと、慌てたように力が緩められ、今度はおずおずと肩口に頭を乗せる。
 その様子が可笑しくて、キールは再び笑い出した。
「……笑わないで下さい……嬉しかったんです……」
「そうか…」
 多分真っ赤になっているんだろう、触れ合う頬がかなり熱い。
 そのぬくもりが、キールの笑いの発作を増長させる。
 今度はキールからシルフィスを抱きしめて、くつくつと笑い続けた。