釣りキチ三人


 クラインの王都から、川を遡り少しだけ上流に行くと、盆地平野のなだらかな風物とはうって変わった、かなり荒々しい渓流が姿を見せる。
 中州の岩場には、大小三つの人影があり、ちらほらと飛び始めた秋茜とともに、のどかな風景がとうとうと流れる水瀬に浮かぶ。
「いいか、山女魚を獲るコツはな、奴さんの鼻先で、餌を流れに乗せて流してやるんだ、やってみな」
 父親の言葉に大きな瞳をきらきらさせて、蒼い髪の少年は手にした竿を握りなおした。傍らに立つ親友に小さく頷くと、教えられた通りになるべく近づけようと、懸命に釣り糸を操る。
 中洲の反対側に身体を向けた、水色の髪をした少年も、同じように竿を振るう。
 長身の男は、二人の子供の姿に、穏やかな微笑を浮かべていた。
 その笑みは、日ごろの彼を知る者にはあまり馴染みの無い柔らかさで、少しはなれた川岸でその様を見守っていた妻に、彼が心から寛いでいるのを感じさせる。
 メイは、そうやって楽しそうにしているシオンを見るのが好きだった。
 日ごろ政策だの国防だのと、以前にも増して多忙を極める筆頭魔導士のささやかな楽しみは、庭の花をいじる時か、こうやって子供達と渓流に竿を下ろす事だ。この時ばかりは、飄々とした素振りの下の、剃刀よりも研ぎ澄まされた神経が緩められ、風に揺れる蒼い長髪とともにゆったりと肩の力が抜けているのが判る。
 ぱちぱちと爆ぜる薪の具合を見ながら、彼女は小さく笑った。
 自分がそんな風に観察しているなんて知ったら、あの男はどんな顔をするだろうか?
 多分、さぞ不本意そうに口を曲げ、そのくせ目の奥で笑うに違いない。
 シオンが心の奥に持つ奇妙な孤独感。それをメイが読み取るのを、どこかで待ってるのを知ってるから。
「セラヒムねえちゃま、これはどうするの?」
 少し舌っ足らずな声に首をめぐらせると、火の傍で、栗色の髪の彼女の娘が、年上の少女にシロツメクサの花を持ち上げて見せている。
「それはね、こうするんですのよ」
 薄紫の柔らかな髪を揺らせながら、セラフィムがミカエル・デイジーに花冠の編み方を教えていた。その向こうで、三つ違いの親友同士を、にこにこと微笑んで薄紅色の髪の貴婦人が見詰めている。
「ディアーナ。そろそろ、焼き串の用意しようか?」
 メイは身軽に腰を挙げて、自分の親友に笑いかけた。
「はい、ですわ」
 頷いて荷物から束にした鉄串を取り出した。二人とも渓流に挑む面々が失敗するとは露とも思ってはいない。
 普段は宮廷庭師などと嘯いているシオンの、意外な特技を判っているのだ。
 花の世話だけかと思いきや、渓流釣りはプロ裸足と、なかなかアクティブな技能に初めは驚いたものだが、親子のコミニュケーションにはかなりの成果を上げている。
 アスターは、父親の供で釣りに行く度めきめきと腕を上げていたし、親友であるアークリオスもまた、負けじと釣り竿を離さないらしい。もっとも彼の場合は、供付きで湖に行くぐらいしか日頃の鍛錬が出来ないので、今日のように一流の先生付きで渓流に挑むのはまたとない機会らしい。ここを先途と、彼は負けじ魂で竿にしがみ付いているようだ。
 岸辺の母親二人は、そんな子供達を眺めながらすくすくと笑いあった。
 
「セイルも来られれば良かったんですけど……」
 ふと、ため息混じりにディアーナが呟いた。
「まあね、王様が簡単にお休みできないもんね。何しろシオンが休みなんだし……」
 さすがに済まなそうにメイは答える。
 今日から三日間は、筆頭魔導士が無理矢理もぎ取ってきた休日である。
 一行はこの近くの山荘に滞在して休暇を過ごすのだ。
 彼の親友、そしてセラフィムとアークリオスの父親であるセイリオスは、筆頭魔導士が抜けた分の穴埋めに、今頃は存分に汗をかいているに違いない。
 来られない父親の代わりに、母親のディアーナのみが同行しているのだが、アークリオスもそしてセラフィムも、何処か寂しげなのは致し方ないだろう。何しろ二人とも、『父上』が大好きなのだから。
「しょうがないか……」
―――こんな所でないと、まともに家族なんて出来ないのにね……
 サークリッド王家の、複雑な家庭環境を思って、メイは少しだけ胸が痛んだ。
 先ごろ、隠居した前王の後を継ぎ、クライン国王となったセイリオスと、その妹であり、ダリス前王の未亡人ディアーナは、表向きは兄妹でありながら、実の所目の置き場が無いほどにアツアツの夫婦である。
 それもこれも、セイリオスが実は王家と血の繋がらない偽の王子だった為なのだが、そんなことが公にできる筈も無く、ましてや王女との恋がばれたりしたら、国が根こそぎひっくり返るに違いない。
 かくして、運命の試練とも言えるダリスとの政略結婚を経て、ダリス王死亡に伴い、ディアーナが出戻ったのを絶好の機会として、父王とこのシオン夫妻の協力の元、離宮に隠棲するディアーナとセイリオスの密かな愛の巣が育まれてきたのだ。
 亡くなった側室の代わりにディアーナが育てている皇太子のアークリオスは、実の所彼女が生んだ実の息子であるし、父親の違う(のかどうか、実はディアーナにすら判らないのだが)セラフィムも、二人の間ですくすくと育っている。
 時々、周りに嘘をつきまくり、親友を日陰者にしておくしか出来ない自分と、あの亭主どもに、無性に怒りを感じる時がある。
 自分達は皆に祝福され、女神の神殿で花と剣のアーチを潜ったというのに、この国で最も敬われるファーストレディーの筈の親友は、不本意さと口惜しさの涙を噛殺しながら、他国の男の下へ嫁いだ時の経験しか無いのだ。
 勿論、彼女を取り戻した直後、仲間だけのささやかな婚礼を執り行いはした。月夜の神殿で、女祭司の宣言する誓いの言葉に、そっと涙していた姿を心から美しいと思った。
 その女司祭も先ごろ還俗し、若い騎士の下に嫁いだのだから、愛を説くエーベの女神も、かなり不公平なんじゃないかという気がしてくる。
 もし、あの時、どちらかにもう少し勇気があれば……いや、それよりも自分がもっと上手く立ち回れていたら、シオンの口車に乗って、うかうかとディアーナを悲劇の王女に仕立て上げてしまうことなんて、しないで済んだのじゃないだろうか?
 ここ数年、時折そんな気がして、メイは後悔とも懺悔ともいえない気持ちになるのだ。
「……・・メイ……メイ?」
 不意に、名を呼ばれているのに気がついて、深い思考のそこから浮上する。
「え?あ、何?」
 慌てて顔を上げ、親友を見ると、薄紅色の貴婦人は、紫の瞳を目いっぱい広げて下流を呆然と指さしている。
「あ……あれぇ……?」
 同じように指差す方を見て、メイもあんぐりと口をあけた。
 穏やかな日差しの下、木漏れ日に揺れる山道を、一人の男が登って来る所だった。質素な身形は旅人然としていたが、日に透ける華やかな空色の髪は見間違う筈も無く……
「セイル!?」
 ディアーナが一声発すると、その旅人は額の汗を拭いながら片手をあげて見せた。途端に貴婦人が、日頃の優雅さをかなぐり捨てたように走り出す。まるでそれこそ少女のような行動に、山道の男は苦笑しつつも両手を広げた。
 メイは、夫の胸へ飛び込んでいく親友を、呆然としたまま見詰めていた。
「うっそぉ……政務どうしたのよ陛下……」
 ぼんやりと呟く耳に、はじけたような笑い声が響いてきた。
「ようっ。来たか、セイル!」
 中洲の上で、シオンが可々大笑している。それを受けて薄紫の姫君は両親へと走り出し、山女魚と格闘していた少年が戦果を掲げて見せた。
「父上!見て!」
 息子の勇姿に、娘を抱えあげ、妻の肩に手をかけた父親は満足げに頷いた。
「よくやったな、アーク」
 岸辺に近づく両親に、嬉しそうに笑うと、更なる賞賛を得ようと、小さな王子は再び渓流に向き直る。親友と同じように、自分の傍にも父がいて、釣果を待ち望んでくれている。それが嬉しいらしい。
 息子のそんな姿に、微笑を深くするセイリオスに、メイは呆れたように話し掛けた。
「へーか。何でここに居んの?護衛もなしに」
「そうですわ、びっくりしましたのよ」
 クライン国王セイリオス・アル・サークリッド陛下は、王宮から開放されたロイヤルスマイル抜きの屈託の無い笑顔でメイと妻に肩を竦めて見せる。
「セリアン家とクレベール家、それにターナ家の忠誠と尽力でね、ここまで漕ぎ着けたのさ。護衛なんて、自分の身ぐらいは自分で守れるさ」
 悪戯っぽい笑みで腰の剣をぽんと叩く。確かに国王にしては剣の腕は立つ。しかし、街中へのお忍びならまだしも、こんな山中、強盗か山賊にでもあったらどうするのか?まあ確かに最近の治安は格段に良い、だからこそ自分達ものんびりとここにいるのだ。だからそんなに心配する事もなかったか?
 いやまて待て、そもそもそういう問題じゃなく、ここに来るのに誰が協力したって?
 国王の右腕たる国務長官と副筆頭魔導士、近衛騎士隊長とその有能な部下達。さらに国王の侍医の顔が次々と浮かぶ。なんて事は無い、つまりは仲間内全員の協力で、国王に休暇を作ってくれたというわけだ。それだけの連帯作業の音頭を取ったと思われるのは……
「シオン!なんであたし達には内緒なのよ!」
 メイは中州の夫を怒鳴りつけた。
 渓流に筆頭魔導士の笑い声が響き渡る。
「悪ィ悪ィ。お前さんに言ったら、姫さんと餓鬼供に筒抜けだからな」
 つまりはびっくりさせたかったというわけか。確かに、親友に対してはとことん口の軽いメイである。それは今しがた感じていた罪悪感の所為なのだが、夫には完全に読まれているらしい。
 黙らされて夫を睨むしかない妻に、突然の客人は追打ちをかけた。
「ああそうだ、メイ。三日間、君の弟さんをお借りしているよ。今頃は、存分に影武者をしていてくれる筈だ」
 できるならば地面にのめりこんでしまいたい。
「何やってんのよあの受験生……」
 緋色の肩掛けを取るために猛勉強中の弟は、成人して背も伸び、言われて見れば国王とよく似た背格好である。つまりは自分と親友だけが、まんまと嵌められた訳だ。
「信じらんない……ここまでする?」
 ただ奥方たちをびっくりさせる為だけに、この企画が練られたらしいと理解して、沸々と中州の夫へ怒りがこみ上げてくる。
 だが、拳を握り締めて川へと視線を向けるメイの裾を、誰かが小さく引っ張った。
「?」
 見れば愛娘が、不安そのものといった顔で見上げている。
「ミカ?」
「かーちゃん・・・」
 怒るの?
 茶色の瞳が訴えている。ふともう一つの視線を感じて川を見れば、中州で竿を握った息子が、同じように見詰めていた。
 カイナスの双子は、両親の機微に敏感である。母親が極めて怒りっぽく、また父親が妻を爆発させるのが得意という困った性癖の持ち主ゆえに、なんとか平穏を取り結ぼうとする生活の知恵であった。また、夫婦喧嘩のどちらが理不尽なのか、彼らは正確に判断してみせる。今回は父を制するのではなく、母を諌めるべきと悟ったらしい。
 何故なら、親友同士の両親がそろい、これからの三日間、この山間の隠れ家でどれほどの楽しみがあるかわから無いのだし、それを齎してくれたのが父だと、聡くも読み取ったかららしい。
 四つの瞳の懇願に、メイは白旗を揚げた。
「こーさん、降参。判ってるわよ」
 ため息とともに娘を撫ぜ、中州の息子に手を振って見せて少しだけ反省する。子供に気を使わせるなんて、何て親なんだろうと。
 ただ、どうにも納まりがつかない憤りを、夫におもいっきりあかんべーをして晴らすことにした。片手拝みに詫びてくるシオンに、ディアーナとセイリオスが堪らず笑い出す。
「ま、三日間、楽しくやろうぜ。惜しむらくは、キールとシルフィスまでは手が廻らなかった、すまねぇな」
 もう一人の親友、麗しのアンヘルの女騎士が、その夫とここに来られないのを気にしているらしい。彼女達は今、国王の替え玉がばれないように、警備を固めてくれているらしい。
 仕方あるまい、何もかもが思い通りになる訳がない。
 ならばせめて、滅多に見られない自由を満喫する親友夫婦の笑顔で良しとしよう。 
「メイ、これ頼まぁ!」
 和やかな空気が戻った所で、シオンは川面に沈めていた一つの魚篭を取り出すと、無造作に放り投げてくる。
 咄嗟に受け止めると、その中には生きの良い山女魚が何匹も捕らえられている。
 女達は喚声を上げ、さっそく調理しようと鉄串やナイフを取り出し、おしゃべりも華やかに焚き火を囲いだす。
 物珍しげに覗き込むセイリオスも駆り出され、昼食の用意が始まったようだ。
 
 それは、とある夏の終り。
 山間の一日は、のんびりと過ぎていく。
 釣りに打ち興じ、または川面に戯れ。
 身分も柵も王都に置いて来た二家族は、その一日を心から味わったようである。

END


子連れ狼の続きです。
思いつきすぎで何の山も落ちもなし(;^_^A
ただの風物詩でした。

オマケ

 魚の頭を叩いて息の根を止め、手早く腹を裂き臓物を抜き取る。そのまま焼いてもいいが、魚はなるべく内臓を捨てた方が好きだ。
 横でディアーナが、清流で魚を洗い、腹の中に香草を詰め、鉄串で波状に刺して軽く塩を振る。
 そうして下拵えを終えた山女魚を、焚き火に翳すようにして地面に刺せば、後は焦げ過ぎないように時々回してやっていれば良い。
 ぐるりと焚き火を囲んだ串魚を見て、メイはしみじみと頷いた。
「あたしも逞しくなったもんだわ。生きてる魚捌けるようになったなんてね〜」
 その呟きを聞いたセイリオスは、苦笑とともに妻にそっと洩らした。
「メイは昔から十分逞しかったと思うよ……」
 思わず吹き出したディアーナに、地獄耳の主婦がきつい目を向ける。
「そこ、なんか言った?」
 ぴしりと突きつけられる指先に、メイが休暇中の国王を王様扱いしないつもりなのがみて取れた。
 こういう扱いをされるのが嬉しい変わり者の国王は、親友の妻に慌てて両手を振って見せた。
「ちがうよ、ディアーナがちゃんと料理ができるようになって、嬉しいと言ったのさ」
「そうですわ。セイルは喜んでくれていますのよ」
 しらばっくれる夫婦に、疑りのジト目を向けながら、メイは肩を竦める。
「ど〜だか。ま、いいわ」
 パチパチといい香をあげ始めた魚に、満足の笑みを向け、今度は中州の三人へと声を張り上げる。
「シオーン!そろそろ焼けるよー〜」
 しかし川からは返事が無い。
「ちょっと〜何してんのよ〜〜!」
「悪ぃ、今手が離せね〜んだ!残しといくれ!」
 見れば三人とも大物HITらしく、竿を掴んで奮戦中だ。
 親友夫婦を振り返って、にわか漁夫の妻は深々と嘆息を洩らす。
「あの釣りキチども……」
 昼飯よりも魚との勝負に夢中の三人に、岸辺の家族は苦笑するしかなさそうである。

END
 

いえ、釣りキチといいながら、釣りキチの影が薄かったので……(;^_^A
蛇足でありました。